第三十一章 太白逆行
今日も通りがかりに勝鬨の左大将に手紙を託されてしまった摩利の蔵人は、ぼんやりしながら陰陽博士のいる陰陽寮へと向かった。
こんなに頻繁に陰陽寮を訪れているのに、陰陽師に占いを頼めないのがなんとなく腑に落ちない気がしたけれども、宮中に仕えている陰陽師の数は限られている。三位以上でないと宮中の陰陽師には占いもまじないも頼めないのはわかってしまうのだ。
すこし悶々としながら陰陽博士のところへ行き、そっと手紙を渡す。陰陽博士は陰陽生に気づかれないよう手紙を受け取ったので、摩利の蔵人はわざと関係のない話をする。
「ところで、このところ吉兆や凶兆は出ていませんか?」
その問いに、陰陽博士も適当に合わせる。
「そうですね。天文博士や暦博士、それに漏刻博士と占っていますが、今のところは……」
陰陽博士がそこまで言ったところで、御簾の外から足音が聞こえてきた。
誰かと思って振り返ると、晴明がてくてくと歩いてきているのが見えた。
晴明もどこかにお使いかな。そう思っていると、突然晴明が御簾を上げてこう言った。
「陰陽博士、天文博士どこ?」
どうやら天文博士を探しているようだ。
そわそわしたようすの晴明に、陰陽博士はくすくすと笑いながら返す。
「いまごろ漏刻博士のところにいますよ。
なにかあったのですか?」
陰陽博士の言葉に、晴明はにっこりと笑ってこう答える。
「あのね、今夜太白がぐるんってなるの。
だから天文博士に教えなきゃって思ったの」
そのようすを見ていた摩利の蔵人は、太白が逆向きに動くのは吉兆なのだろうかと思いながら訊ねる。
「晴明殿、太白が逆に動くのにはどんな意味があるのですか?」
「わかんない」
「ですよね」
あいかわらず、晴明は星の動きは読めても吉凶は読めないのだなと摩利の蔵人が思っていると、陰陽博士が緊迫した声で晴明に言う。
「晴明、すぐに天文博士のところに行って占ってもらいなさい。
あなたも吉凶が気になるでしょう」
「気になる」
「私も蔵人殿も気になりますから、天文博士に訊いたら結果を教えてください」
「はーい。行ってきまーす」
御簾を下げた晴明は、また廊下をぱたぱたと走っていく。
それを見送った陰陽博士は、摩利の蔵人に固い声で伝える。
「蔵人殿、忙しい中申し訳ないですが、占いの結果が出るまでここでお待ちください」
もしかしたらただならぬことがあるのかもしれない。そう思った摩利の蔵人は固唾を飲み込んで頷く。
晴明が走り去ってからそんなに間を置かず、また廊下がきしむ音が聞こえてきた。これはそうとう急いでいるようだ。
なにかと思っていると、勢いよく御簾が上がり、血相を変えた天文博士が入ってきた。
「蔵人殿、まだいらっしゃいましたか」
その剣幕に摩利の蔵人が驚いていると、天文博士の後から晴明もついてきてのぞき込んでくる。
「あの、占いの結果はどのようになったのですか?」
占ったにしてはずいぶんと速やかだなという気はするけれども、天文博士の剣幕もすごいし、陰陽博士もただならぬようすなので話を聞かないわけにはいかない。
摩利の蔵人の問いに、天文博士はちらりと晴明を見てから答える。
「ほんとうに太白が逆向きに動くのであれば、これは乱が起こる兆しです。
これは見過ごすわけにはいきません」
「乱が起きる?」
あまりにも大事すぎて、摩利の蔵人はいまいち実感がわかない。だれか乱を起こしそうな者などいただろうか。
そんなことを考えていると、天文博士は確認するように晴明に訊ねる。
「晴明、太白が逆向きに動くのは今夜のいつ頃かわかるか?」
その問いに、晴明はすこしきょとんとしてからこう返す。
「えっとねぇ、お月様がてっぺんに来る頃かな? そこから前後一刻くらいの間」
「月が天頂に来るのはいつ頃か」
「今夜は亥の刻。
亥の刻のはじめ頃にてっぺんに来るよ」
このようすだと、太白が逆向きに動くことは間違いなさそうだ。
晴明本人からは危機感を感じられないけれども、天文博士は険しい顔をしているし、陰陽博士はすでに陰陽生たちと災いよけのまじないをする話をはじめている。これでようやく、摩利の蔵人にも危機感がわいてきた。
摩利の蔵人は陰陽博士と天文博士に一礼をして言う。
「わかりました。占いの結果を急ぎ、帝に伝えます。
陰陽師のみなさんは、まじないをよろしくお願いします」
それから、御簾を上げたままの晴明の横をすり抜けて陰陽寮を出た。
内裏に戻った摩利の蔵人は、中宮のところにいる帝に、陰陽師から伝言がある旨を女房に伝えてもらった。すると、帝はただならぬことがあったのだなと察したのか、すぐさまにいつもの仕事場に、摩利の蔵人、新の蔵人、内侍司が集まるようにと指示を出してきた。
帝以下、蔵人ふたりと内侍司が集まると、帝が落ち着いた声で摩利の蔵人に訊ねる。
「それで、陰陽師はなんと?」
その問いに、摩利の蔵人は簡潔に用件を伝える。太白が逆に動くと晴明が予言し、その通りであれば乱が起こる予兆であると言うことだ。
帝はそれを聞いて、さすがにいつも通りの穏やかな顔ではなく緊迫した表情になる。
「乱を起こすとしたら何者か……」
帝のつぶやきに、摩利の蔵人は少し考えて返す。
「蝦夷地に近い受領でしょうか。
しかし、あそこは厳しい土地ですし、兵力を集めるのも難しそうですが」
それに対し、新の蔵人はこう言う。
「乱を起こすのは上達部とは限りません。
洛外に住む下々の者かもしれませんし」
乱を起こすのは京の都の外の者なのか。それはわからないけれども、帝は摩利の蔵人に手紙を書くように命じる。
「藤棚の右大将に、今夜より都の警備を強めるよう文を送ってください」
「かしこまりました」
摩利の蔵人が早速文机の上で手紙を書いていると、内侍司が伺うようにこう言った。
「お言葉ですが、以前より源氏の太政大臣を担ごうとしている者たちがいることを、帝はご存じでしょうか。
源氏の太政大臣は尊敬に値する方ですので、慕う者が多いのはわかりますが、よからぬことを考えている者もその中には多いです。
その者たちがなにか企んでいる可能性もございますので」
それを聞いた帝は、明らかに憂鬱な顔をしている。
ため息をつく帝に、新の蔵人がこう提言する。
「では、源氏の太政大臣の安全を守るためにも、太政大臣の側に勝鬨の左大将をつけておきましょう。
勝鬨の左大将は正直者です。源氏の太政大臣を利用しようとする者は許さないでしょう」
帝は目をつむって黙り込んでから、はっきりとした声で新の蔵人に言う。
「勝鬨の左大将に文を」
新の蔵人は一礼をしてから文机の上で手紙を書く。
入れ違いのように手紙を書き終わった摩利の蔵人は、手紙を結んで女房へと託す。
その摩利の蔵人に帝がいつになく真剣な表情でこう告げる。
「今夜、摩利の蔵人は太白がほんとうに逆向きに動くのか、陰陽師と共に確認してください。
逆向きに動いても、予言が外れても、時を問わずに私に報告するように」
摩利の蔵人は短く返事を返して、陰陽寮へ向かうために立ち上がった。
その日の晩、摩利の蔵人は晴明と共に陰陽寮から空を見上げていた。
もうすぐ亥の刻になる。晴明が予言したとおりなら、太白が逆向きに動きはじめるのはこれから一刻ほどの間だ。
緊張する摩利の蔵人の傍らで、晴明はわくわくしたようすで星を眺めている。
「あそこに見えるのが太白ね。
いまはまだいつも通りに動いてるよ」
晴明が指さす先には明るい星が輝いている。あの星の動きを、今夜は見張らなくてはいけない。
それからどれだけ見ていただろうか。太白がゆっくりと動きを止め、逆方向に動きはじめた。晴明の予言は当たってしまった。
思わずうなだれる摩利の蔵人に、晴明はいつも通りの明るい声で言う。
「太白が悪さしないように見張ってるからね」
そう言われても不安は拭えない。
とにかく、このことを帝に伝えなくては。




