第三十章 あまづら氷
梅雨も明け、蒸し暑い日が続くある日のこと。摩利の蔵人は久方ぶりに休みを取って、妻である睡蓮の君と沙羅双樹の君のところへと訪れていた。
ほんとうは今日も仕事をするつもりだったのだけれども、今月も数日休んで先日また参内してきた新の蔵人に、たまには摩利の蔵人も休みを取って妻の相手をしないといけないと言われたのだ。
物忌みというわけでもない個人の事情で休みを取るのは気が引けたけれども、気がつけば新の蔵人から帝へと話が行っていて、帝がいつものようにころころと笑って数日休みをくれたので、その間は妻たちと過ごそうと決めたのだ。
刺すような日差しを御簾で遮り、それでも明るい部屋の中で、摩利の蔵人は睡蓮の君と碁を打ちながら談笑する。もちろん、睡蓮の君の側にはいつも通り沙羅双樹の君もいる。
「しばらくご無沙汰している間に、睡蓮もずいぶんと腕を上げましたね」
すっかり負かされてしまった摩利の蔵人がそう笑うと、睡蓮の君はくすくすと笑ってこう返す。
「あなたがいなくて暇な間、鈴虫の君と碁を打っていたんですよ」
「うん……」
鈴虫の君といえば、藤棚の右大将の妻の中でも抜きん出て双六や碁が好きだと評判の姫だ。たしか先日も、藤棚の右大将と共に双六や碁に興じて徹夜をして、内侍司に遺憾の意を示されていた。
そんな鈴虫の君と碁に興じていたらおのずと腕前も上がるだろうと、摩利の蔵人は納得するほかない。
「沙羅双樹は私がいない間、どうしていたのですか?」
「鈴虫の君と双六をしていました」
「うん……」
だれかれかまわず勝負を仕掛けるものなのだなと鈴虫の君に空恐ろしさを感じながらも、暇を潰せていたのならいいだろうと、摩利の蔵人は自分に言い聞かせる。
一方の睡蓮の君は、くすくすと楽しそうに笑いながらこんな話をする。
「鈴虫の君はほんとうに手強くて。
沙羅双樹なんて双六をするたびに明石の尼の名を唱えているくらいですよ」
「あー、藤棚の右大将も同じことをやっていると聞きました」
正直言えば、摩利の蔵人は鈴虫の君のことを噂でしか知らないけれども、あまりにも藤棚の右大将とお似合いすぎてなぜ北の方でないのだろうと疑問に思ってしまう。
三千世界はままならぬこともあるなとすこし物思いにふけっていると、沙羅双樹の君が袖で額を押さえながらこう言った。
「それにしても、こんなに暑いと参ってしまいます。特に、今年の夏はずいぶんと暑くて」
仕草も声もずいぶんと怠そうだったので、摩利の蔵人は手を叩いて女房を呼ぶ。
「すいません、だれか水を盥に汲んで持ってきてくれませんか」
それから、少し離れた場所で物音がしてから、女房がしずしずと水で満たした盥を持ってきた。
摩利の蔵人がそれを受け取って床に置き、手を入れてみるとひんやりと冷たい。こういうとき、家に井戸があるということをありがたく感じる。
「沙羅双樹、水に手を浸したら少しは楽になるでしょう。どうぞ。
睡蓮も良かったら一緒にどうぞ」
沙羅双樹の君と睡蓮の君にそう声をかけると、ふたりともそっと袖から手を出して盥の水に手をつける。
「ああ、気持ちいい」
「あなたもどうですか?」
睡蓮の君に誘われて、摩利の蔵人もまた盥の水に手をつける。これだけでもずいぶんとすっきりする気がした。
ふと、睡蓮の君が思い出したように言う。
「せっかくだから、あまづら氷をいただきませんか?」
それを聞いて、摩利の蔵人は思わず驚く。
「いただきたいですけど、あまづら煎なんて高価なもの、あるのですか?」
あまづら煎は蔦の汁を搾って煮詰めた甘い蜜で、採取の難しさやかかる手間などの関係でそうそう手が出せるものではないのだ。そんなものを食べないかと勧められたら驚きもする。
すると、沙羅双樹の君が水の中で手をこすりながらこう返す。
「実は先日、新の蔵人の妹君が、常陸国に行く前に分けてくれたのです」
「なるほど。それだとあとでお礼をしなくてはいけませんね」
新の蔵人にもお礼を言っておいて、妹君にお礼の手紙を取り次いでもらうのが無難だろうかと摩利の蔵人は考える。
「ありがたいことです。
それにしても、ふたりで食べても良かったのに、どうしてとってあるのですか?」
考えごとをしながら摩利の蔵人がなにともなしにそう言うと、睡蓮の君も沙羅双樹の君もくすくすと笑う。
「だって、ふたりだけで食べるのはもったいなかったから」
「あなたが来るまで待っていたんです」
新の蔵人の妹君が常陸国へと旅立ったのはもうずいぶん前のような気がする。そんなころから妻たちに会いに来られていなかったのが申し訳ない気がしたし、そのことを気に病んでいても摩利の蔵人にはその素振りを見せない妻ふたりが急にいじらしくてかわいいように感じた。
耳が熱くなるのを感じながら、摩利の蔵人はにこりと笑う。
「それなら、あまづら氷をみんなでいただきましょうか。
すません、あまづら氷の用意を」
離れたところでまた物音がして、女房たちがあまづら氷の用意をしているのを感じる。
氷室には冬の間にだいぶ氷を貯め込んでいたから、すこし食べる分くらいはあるはずだ。
しばらくの間、ひぐらしの声を聞きながら手を冷やす。御簾の隙間から吹き込んでくる風はさわやかだ。
静かにそのまま待っていて、盥の水がぬるんできた頃、三人の女房がそっと御簾をあげて台盤を持ってきた。台盤の上には削られた氷に薄い褐色の蜜がかけられたものが盛られた器と匙が乗っている。
摩利の蔵人、睡蓮の君、沙羅双樹の君の前にそれぞれに台盤が置かれ、女房たちが一礼してから下がっていく。
御簾が下げられたところで、摩利の蔵人が手を合わせてからあまづら氷の盛られた器と匙を手に取った。
「では、いただきましょうか」
睡蓮の君と沙羅双樹の君も手を合わせてから器と匙を手に取る。匙で氷をすくって口に入れると、冷たさの中にやさしい甘みがあった。
「ああ、おいしいですね」
摩利の蔵人が休み休み食べている間にも、沙羅双樹の君は器を空けてしまった。
相変わらず食べるのが速いなと感心してると、急に沙羅双樹の君が顔をしかめた。もちろん、それを見た摩利の蔵人が驚かないわけがない。
「どうしました?
口に合いませんでしたか?」
慌ててそう訊ねると、沙羅双樹の君は頭を押さえながらこう答える。
「なんか、急に頭が痛くなって……」
それを聞いた摩利の蔵人はひどく心配になり、いったんあまづら氷の入った器を置いて沙羅双樹の君の手を引く。
「それは大変です。落ち着くまで膝を貸しましょう」
「……はい……」
沙羅双樹の君はほんとうにつらそうにしながら横たわり、摩利の蔵人の膝に頭を乗せる。
少しの間摩利の蔵人が膝の上の頭をなでていたら、睡蓮の君も慌ててあまづら氷を食べ終えて摩利の蔵人のことを見る。
少しむくれた顔をしている睡蓮の君に、摩利の蔵人はにこりと笑いかける。
「睡蓮も、膝枕しますか?」
すると、睡蓮の君はこくりと頷いて横たわり、摩利の蔵人の膝の上に頭を乗せた。いつもは仲が良いのにこういうところで張り合ってしまう妻ふたりがかわいくて仕方がない。
摩利の蔵人がしばらくふたりの頭をなでていると、気がつけばあまづら氷は溶けて、冷たい水になっていた。
「すいません、ちょっとこれをいただいてしまいますね」
膝の上のふたりに声をかけてからあまづら氷が溶けたものを飲み干す。
冷たいものを食べたはずなのに、妻ふたりがぴったりとくっついていてとても暑い。けれども、嫌な暑さではなかった。
「あなたも、もっとここに来てください」
「そうです。いくら友人がいても、あなたがいないと物足りません」
睡蓮の君と沙羅双樹の君にそう言われ、仕事ばかりでずいぶんと寂しい思いをさせてしまっているのだなと実感する。
蔵人頭という立場上、帝の側にいなくてはいけないのはあるけれども、たまにはこうやって休みをもらって、三人で過ごした方が良いのだなと思った。
問題は帝の許しがあるかだけれども。
「……そうですね」
なんとなく大丈夫な気がした。




