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第三章 日常のすきま

 鶏の鳴き声が聞こえる頃、摩利の蔵人が目を覚ます。

 朝日が昇る前に北斗七星の方を向き、自分の星の名を七回唱え、祈りをあげる。

 それから、朝食の準備を待つ間に袍を着て、昨日あった出来事などを日記に付けていく。これが摩利の蔵人の朝一番の仕事だ。

 軽く朝食を食べた後は大内裏へと参内する。この時間は参内する上達部が多いので、洛内を車が多く行き交っている。

 自分より上位の上達部を先に通してから摩利の蔵人も内裏に入り、そのまま帝の元へと向かう。

 内裏の几帳の前で内侍司と鉢合わせたので、お互い挨拶をしてから几帳の中へ入り、帝に一礼をする。

「では、はじめましょうか」

 帝の一声に、摩利の蔵人と内侍司が文机と紙を用意していると、帝が周囲を見渡してから不思議そうな顔をした。

「ところで、新の蔵人が来ていませんが、物忌みでしょうか」

 それを聞いて摩利の蔵人も、新の蔵人がまだ来ていないことに気がついた。

 新の蔵人はいつも摩利の蔵人や内侍司よりも早く帝の元へと来ているので、今ここにいないということは休みを取っているのかもしれない。それこそ帝が言うように、急に物忌みになることも珍しくないのだ。

 帝の問いに、内侍司が頭を下げて答える。

「新の蔵人は七日ほど家に戻って休むとのことでした」

 それを聞いて摩利の蔵人は、また今月もかと思う。どういうわけだか新の蔵人は、月に一度、数日まとめて休みを取って家にこもっていることがあるのだ。

 はじめのうちはそういう周期で物忌みがあるのだろうかと思っていたのだけれども、物忌みはそんな規則的に行うものではない。陰陽師の占いで、いつやるべきか決まるものなので、あらかじめどれだけ家にこもるのかわからないのが普通だ。

 そうなると、新の蔵人はまだ若いあの身に病でも抱えているのではないか。新の蔵人が休む度に摩利の蔵人はそう思って不安になってしまうのだ。

 それに、新の蔵人が休むと単純に仕事も増える。なるべく健やかでいてほしいものなのだ。

 摩利の蔵人の内心を知って知らずか、帝がおっとりと微笑んで摩利の蔵人に話しかける。

「新の蔵人がいないのはさびしいでしょう。

あなたも、たまには家でゆっくりしたらどうですか?」

 突然の労いの言葉に、摩利の蔵人は平伏して返す。

「もったいないお言葉ありがとうございます。

ですが、私も月に数日は妻に会いに行けておりますので大丈夫です」

「そうですか?

たしかに、私としてもあなたがいてくれると安心しますが」

 帝の言葉にますます恐縮しながら、摩利の蔵人は言葉を続ける。

「それに、私の妹も宮中におりますし、帝のお側にお仕えしない理由がありません」

 それを聞いた帝が、摩利の蔵人に顔を上げるように言ってからころころと笑う。

「摩利の蔵人の妹君の噂は聞いていますよ。

なんでも、おっとりとしているのに快活な、不思議な女房だとか」

 正直言えば、摩利の蔵人の妹はそそっかしいところもあるので、悪い噂が帝の耳に入っていないだけでも御の字だ。

 そう思って摩利の蔵人がほっとしているところに、帝が少し身を乗り出して言う。

「ところで、今度あなたの妹君に文を渡していただけないでしょうか」

 それを聞いて、また悪い癖を出しているなと摩利の蔵人は思う。

 こんな時、新の蔵人がいたらどのように返すだろうか。摩利の蔵人はそう考えながら、助けを求めるように内侍司のほうにちらりと視線を送る。内侍司が視線で頷いた。

「ところで帝、このところ中宮とはいかがお過ごしでしょうか」

 その言葉に、帝の視線が泳ぎはじめる。

「いえそんな、昨夜中宮に叱られたなんてことは決して……」

「あったのですね?」

「……はい……」

 ほんとうに、愛妻家で一途な源氏の太政大臣と兄弟だとは思えない。帝の浮名を聞く度に、摩利の蔵人はこの世の不可思議を感じる。

 摩利の蔵人が視線で内侍司に感謝の意を伝えると、内侍司も目礼で返してくる。

 そうしていると、帝がため息をついた。

 昨夜中宮に叱られたことを思い出して落ち込んでいるのだろうか。それとも、摩利の蔵人の妹に文を送ることをたしなめられたのを残念がっているのか。どちらだろうと摩利の蔵人は思案を巡らせる。

 けれども、帝が口にしたのは摩利の蔵人の思案とはまったく別の所にあるものだった。

「それにしても、新の蔵人はどうして毎月こんなにまとめて休むのでしょうね」

 いかにも心配そうなその声に、摩利の蔵人が少し考えてから言葉を返す。

「そうですね。

私は、はじめは物忌みかとも思っていたのですがそうでもなさそうですし、かといって、新の蔵人に訊いてしまっていいものかどうか」

 内侍司も続けて言う。

「むしろ、物忌みの時のほうが家にいる時間が短いようにも思います」

 ふたりの言葉を聞いて、帝はまたため息をついて言葉を漏らす。

「そんなに休まないとやっていられないほど、つらい仕事をさせてしまっているのでしょうか。

もしそうであるのなら、そうだとはっきり言ってくれればいいものを」

 正直言うと、心労は相当なものだけれどもそれを帝にはっきり言う勇気はそうそう出ないだろうなと摩利の蔵人は思う。

 これは摩利の蔵人個人の意見であって、新の蔵人が仕事をどう思っているかはわからない。けれども、思い出してしまったのだ。大臣大饗の時に、徳利のひもを持って擦れた跡の付いた新の蔵人の手のことを。

 もしかしたら、新の蔵人には耐えがたいほどの責務なのかもしれない。

 その考えを、摩利の蔵人は口に出さなかった。ほんとうのところを伝えるのは、新の蔵人自身でないといけないからだ。

 落ち込んでしまっている帝に、どう声をかけるべきか摩利の蔵人が悩んでいると、内侍司がそっと帝に声をかける。

「新の蔵人も心配ですが、帝も毎日の職務で大変でしょう。

帝こそ、たまにはお休みになってもよいのですよ」

 その言葉に、帝は表情を引き締めて返す。

「私は大丈夫です。

すべては臣民のためですから、日々のことなどなんてことはありません」

 帝の言葉に、摩利の蔵人はひどく安心した。

 女癖こそ悪いものの、統治者としては十分に立派で頼れる人なのだ。

 このように賢明な人が帝でよかったと、摩利の蔵人がしみじみとよろこびを噛みしめていると、帝がすこし上目遣いに摩利の蔵人のほうを見た。

「ですから、摩利の蔵人も疲れた夜に私を癒やしてくれてもいいのですよ?」

 賢明な人だけれども、女癖だけでなく男癖まで悪いのはなんとかならないだろうか。

 どう返したものかと考えて、摩利の蔵人はなんとか言葉を返す。

「そうですね。その際には笛をお持ちしますので、帝はぜひ箏を」

 摩利の蔵人の返事に、帝は思ってたのとちがう。といった顔をしたけれども、あえて帝が思っていたのとは違うような返事を返したので、摩利の蔵人としてはこれでよしとしたいところだ。

 摩利の蔵人と帝がやりとりをしている間にも、内侍司は書簡を持ってきて仕事をはじめる準備を済ませていた。

「帝、そろそろ」

 内侍司の言葉に、帝はすぐさまに表情を引き締めて言葉を返す。

「そうですね。

それでは、よろしくおねがいします」

 そうして、いつも通りに内侍司が書面を読み上げ、それに対する決定を帝が短い言葉で下していく。摩利の蔵人はそれらのすべてを紙に書いていく。いつも通りの日常がはじまった。

 しばらくして、内侍司が次の書面を用意するために言葉を切ったすこしの間に、帝がぽつりとつぶやいた。

「もし新の蔵人がなにかの病で悩んでいるのでしたら、力添えしたいと思っているのですが……」

 ああ、帝はほんとうに、臣民のことを思っているのだなと、他人事なのにもかかわらず摩利の蔵人の胸に感謝の念がわいてくる。

 帝のような尊いひとが、新の蔵人のような六位の者にまで気をかけてくれるなんて、身に余る光栄なのだ。

 このことは、新の蔵人が参内してきたら伝えなくてはいけないなと強く思う。

 けれども、新の蔵人が休む原因は、ほんとうに帝の手で解決できるものなのかはわからなかった。

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[一言] なるほどね(後方理解者面
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