第二十九章 兄弟の語り合い
ある梅雨寒の日のこと。今日もまた帝の執務が終わり、この後どうするかと摩利の蔵人と新の蔵人、それに内侍司は帝のようすを伺っていた。
近頃は雨の日が続いていて、帝はそろそろ蹴鞠でもして体を動かしたいと笑うけれども、蹴鞠をするための懸は今頃水浸しだろう。
それに、雨に濡れて体に障るようなことがあってはいけない。そのことを帝はしっかりと自覚しているので、この雨だとしかたがない。といつものようにころころと笑う。
ではどうするのか。そう思っていると、帝が摩利の蔵人にこう言いつけた。
「源氏の太政大臣を呼んできてくれませんか。
たまにはふたりで話すのもいいでしょう」
このしっとりとした雨の日に、兄弟ふたりでゆったりと語り合うのは確かにいいかもしれない。摩利の蔵人は一礼してから几帳の外へと出て行った。
珍しく内裏の中で大人しくしていた源氏の太政大臣を摩利の蔵人が連れてくると、見計らったかのように内侍司が帝と源氏の太政大臣の分のお茶を用意していた。
餅茶はどうしたのかと思ったら、新の蔵人が削っていたようだった。
源氏の太政大臣と摩利の蔵人が膝をついて帝の側により、いつもの位置で座ると、帝がにこりと笑って言う。
「源氏の太政大臣、たまにはふたりでいろいろとお話ししましょう。
ふたりでないと話せないこともあるでしょうし」
厳密には摩利の蔵人と新の蔵人、それに内侍司がいるのだけれども、この三人は帝の私的なことは決して外部に漏らすことないよう言いつかっているし、なにより蔵人ふたりは位が低い。いないものとして扱うのは当然だろう。
内侍司が差し出したお茶に源氏の太政大臣が口をつけていると、帝がいかにも興味津々といったようすで話しかける。
「ところで、源氏の太政大臣は近頃妻といかがお過ごしですか?」
その問いに、源氏の太政大臣すこし頬を赤くして返す。
「おかげさまで、花散里とは相変わらず睦まじくしております」
源氏の太政大臣が花散里の君を娶ってから、もう十年近く経つというのに、いまだに新婚の初々しさが抜けないようだ。このようすには摩利の蔵人もすこしうらやましさを感じる。
しばらく源氏の太政大臣が語る花散里の君の話を聞いていると、帝が頷きながらこう訊ねてきた。
「ほんとうに、相変わらず仲睦まじいですね。
ところで、末摘花の君とはうまくやれているのでしょうか」
その問いに、源氏の太政大臣は当然といったようすで返す。
「もちろんです。
花散里の大切な従姉妹なのですから、うまくいかないはずがありません」
「ふふふ、それもそうですね」
源氏の太政大臣は、今度は花散里の君と末摘花の君がどれだけ仲がいいかを自慢げに話す。
すると、帝がすこし身を乗り出してささやくように言った。
「そのようにすてきな姫君に、私も会ってみたいものです。
どうか、私に紹介してくれませんか?」
その言葉に、源氏の太政大臣は警戒するような表情をして問い返す。
「末摘花をですか?
帝は一体どうなさるおつもりで」
いかにも訝しんでるそのようすに、帝はころころと笑う。
「源氏の太政大臣さえ良ければ、末摘花の君を宮中に呼びたいのです」
また悪い癖を出しているな。そう察した摩利の蔵人と新の蔵人が渋い顔をしていると、源氏の太政大臣も渋い顔をして返す。
「なりません。
末摘花は夫が見つかるまで私の手元に置いて面倒を見ると、花散里にも末摘花にも約束しているのです。
たとえ帝がそうおっしゃられても、応じるわけにはいきません」
すると、帝はそっと源氏の太政大臣ににじり寄って落ち着いた声で言う。
「源氏の太政大臣、そこをどうか」
源氏の太政大臣はにべもなく返す。
「なりません」
これは手強いとみたのか、帝は両手を膝の前についてさらに言う。
「兄上、どうか」
「なりません」
兄と呼ばれると弱いのをわかっていてこう言っているのだなと、摩利の蔵人は察する。帝も相当、末摘花の君が気になっているようだ。
帝がさらに食い下がる。
「兄さん、どうか」
「なりません」
それでも源氏の太政大臣はにべもなく返す。
最後の手段とばかりに、帝は源氏の太政大臣の袖をつかんで強く言う。
「おにいちゃん!」
「だめです!
おにいちゃん許しませんよ!」
もうめちゃくちゃだな。そう思った摩利の蔵人は苦笑いするほかない。
それにしても、帝はなぜそこまで末摘花の君に執心するのだろうか。少なくとも宮中ではそこまで良い噂は立っていないのだ。
とはいえ、宮中の噂は帝の耳には入りづらいし、さらに源氏の太政大臣から良いところだけを聞かされていたらああなるものなのだろうなと、摩利の蔵人は自分を納得させる。
源氏の太政大臣に甘えながら泣きつく帝をどうしたものかと考えつつ、新の蔵人の方を見てみると明らかに不満そうな顔をしている。やはり、新の蔵人としても帝にはもう少し慎みを持ってほしいのだろう。
なおもごねる帝に、新の蔵人が突然にっこりと笑ってこう訊ねる。
「ところで帝、このところ中宮とはいかがお過ごしですか?」
その言葉に、帝はすっと源氏の太政大臣から身を引き、元の位置に座り直して澄ました顔をする。
「中宮は相変わらずかわいらしいですよ。
最近はやきもちを焼いてくることも多くて。
そんなところもまたかわいいですね」
それを聞いた源氏の太政大臣が、ため息をついて言う。
「帝も、そのように中宮にやきもちを焼かせるようなことをせずに、もっと中宮の相手をしてはどうですか?」
「はい」
最近中宮の相手をおろそかにしているという自覚があるのか、帝が少々気まずそうな顔をしている。
気まずさをごまかすためか、帝は大げさな身振りで悩んでいるような素振りをしてこう言った。
「しかし、宮中にはすてきな女がたくさんいるのです。
そのひとたちを放っておくのもまた罪なことではないですか?」
それから、新の蔵人の方を見たけれども、新の蔵人は一瞬視線を合わせてから、すぐに外してしまう。きっと、帝の手の早さに遺憾の意を示したいのだろう。
帝の言い分に、源氏の太政大臣も遺憾の意だ。
「そんなことをおっしゃって。
見境なく女に手を出すものではありませんよ」
「夫がいる女には手を出していませんよ」
「それはそう」
源氏の太政大臣も大変だなと摩利の蔵人が思っていると、新の蔵人も厳しい口調でこう言う。
「太政大臣のおっしゃるとおりです。
あんなにたくさんの女に手を出して、世継ぎで揉めたらどうなさるおつもりですか」
その言葉に、帝はすこしたじたじとしながら返す。
「あの、でも、子供は多い方が良いではないですか」
「子供ができればなんでも良いわけではありませんからね?」
新の蔵人の返しは鋭い。
子供がたくさんほしいというのは源氏の太政大臣も言っていたけれども、帝と源氏の太政大臣では事情が違いすぎる。本人たちの身分はもちろんのこと、相手にしている女の数と身分も全然違うのだ。
そのことを自覚しているのだろう、帝はしおしおとしてこう言う。
「……わかりました。中宮と頑張ります」
中宮以外に手を出すなとはさすがにいえないけれども、中宮を最優先にしてもらわないと困る。
それにしても。と摩利の蔵人は帝と源氏の太政大臣を見比べる。
母親が違うとはいえ、血を分けた兄弟なのにこんなにも極端に、女に対する認識が違ってしまうのも不思議なものだなと思ってしまう。
しかし、よくよく考えたら摩利の蔵人自身も、百合の女房とは違う部分がたくさんあるのだ。
なんとなく、兄弟の不思議を感じた。




