第二十七章 常陸国へいく
帝との仕事が終わってしばらく、この日は珍しく摩利の蔵人と新の蔵人が蔵人の詰め所で一息ついていた。
仕事が終わった後、新の蔵人は急いで宮中を出て、妹の元へと向かった。帝の命で新の蔵人の妹の夫が受領になることになったのだ。
受領となると、都を離れなければならない。元々宮中にいることが多い新の蔵人と、家にいることがほとんどの妹は月に数回会う程度だったらしいのだけれども、それでもこれから長いこと会えなくなるとなると寂しいのだろう。いつもは気丈な新の蔵人が妹との別れを惜しんできた後、摩利の蔵人に泣きそうな顔で側にいてほしいと言ってきたので、今こうしてふたりで詰め所にいる。
「妹君は、どこまで行かれるのですか?」
摩利の蔵人の問いに、新の蔵人はうつむいて答える。
「常陸国です」
うつむいている新の蔵人の顔を見て、ふと、こんなにまつげが長かったのかと摩利の蔵人はすこし驚く。
改めて新の蔵人の顔を見てみると、今まで気づかなかったけれどもずいぶんと整った顔立ちで、きっと妹もうつくしいのだろうなというのが察せられた。
そんな妹が、はるか遠くの常陸国へ行ってしまうとなれば、新の蔵人の寂しさも心配も当然のことだろう。
「寂しくなりますね」
摩利の蔵人が言葉で寄り添うようにそう言うと、新の蔵人はぐっと口を結んでからこう返した。
「数年経てば、また戻ってきますから」
そう、新の蔵人の言うとおり、受領になったとしてもその任期はせいぜい数年だ。ずっとその地に縛り付けられるわけではない。
しかも、受領は派遣先で都にいるときよりもいい生活をすることも多いと摩利の蔵人は聞いている。だから、受領になることを望む者も少なくはないし、その妻は粛々とそれを受け入れるだけだ。
ふと、詰め所に他の蔵人がやってきた。
「新の蔵人、妹君の夫が栄転だそうで」
まずいのが来たな。と摩利の蔵人は思う。この蔵人は新の蔵人をいつも目の敵にしていて、隙あらば足を引っ張ろうとしている人物だ。妹が都を離れることを不安に思っている新の蔵人に揺さぶりをかけて、仕事に手がつかなくさせるつもりだろう。
しかし、表面上は祝うようなことを言っている段階では、蔵人頭である摩利の蔵人も諫めようがない。
どうやって追い払ったものかと考えていると、蔵人はにこにこと新の蔵人の側に来る。
「妹君に、祝いの歌でも贈らせてくれませんかね」
新の蔵人が蔵人を睨みつけると、蔵人は愉快そうに歌を詠む。
賦し得たり 古厚の革をすりへらし
春風と去る金鑾子かな
それを聞いた摩利の蔵人は顔を青くする。よりにもよって新の蔵人の妹を、その状況の金鑾子に喩えるなんて失礼が過ぎる。暗に妹は死ぬだろうと言っているようなものだ。
新の蔵人は無事だろうかと目だけでようすを伺うと、新の蔵人は毅然とした態度でこう返す。
「なるほど。
では妹にかわり私からも返歌を」
すこし声が低くなっている。その声のまま、新の蔵人はすぐさまに歌を返す。
春風が 吹きて古道と荒城と
それはあなたの感想ですよね
失礼に無礼で返した。
こういったときの切り返しは、自分よりも新の蔵人の方が数枚上手だなと摩利の蔵人はしみじみと思う。
渾身の嫌味が通じないどころか、煽るような返歌をされた蔵人は、気まずそうな顔をしてこそこそと新の蔵人の側を離れ、詰め所から出て行った。
それから、新の蔵人はあの蔵人がいた側の袖を不快そうに手ではたき、ため息をつく。
「あの、お役に立てず申し訳ないです」
あの蔵人に失礼を許してしまったことを摩利の蔵人が詫びると、新の蔵人はいつも通りの澄ました顔でこう返した。
「いえ。摩利の蔵人がああいった状況を捌くのが苦手なのは存じているので。
むしろ、おかげですこし落ち着きました」
たしかに、先ほどまでの落ち込んだ表情は消えているけれども、それはそれとして怒ってはいるのだろうなというのは、さすがの摩利の蔵人にもわかる。落ち着いたとは言うものの、気持ちが昂ぶっているのもわかる。
どうしたものかと摩利の蔵人が内心おろおろしていると、また詰め所の外から足音が聞こえてきた。
「新の蔵人、いますか?」
そうしてやってきたのは、藤棚の右大将と椿の中将だ。
このふたりがどうして急に? と摩利の蔵人が疑問に思っていると、椿の中将が気遣うように新の蔵人に話しかける。
「妹君が常陸国へ行ってしまうと聞いてきました。
新の蔵人、どうか気をしっかり」
続けて、藤棚の右大将も話しかける。
「常陸国にはどんなものがあるのでしょうかね。あそこに行ったことがあるものの話を聞くと、意外と実りが多い土地らしいですが」
このふたりも、新の蔵人の妹の夫が受領になるという話を聞いて、心配してきたのかと摩利の蔵人は納得する。
ふと、新の蔵人のようすを見てみると、口元に笑みを浮かべている。先ほどの怒りのあとの気遣いで、やっと心がほぐれたのだろう。
「お気遣いありがとうございます。
私は、大丈夫ですから」
深々と頭を下げる新の蔵人に、椿の中将がなおも心配そうに訊ねる。
「妹君は、北の方なのですか?」
この問いの意図は、北の方でないなら都で待つこともできるということだろう。けれども、新の蔵人は頷いてこう答えた。
「そうです。
なので、女房たちを取り仕切るためにも常陸国まで付いていくしかないのです」
それを聞いた椿の中将は、目を伏せて呟く。
「……都から常陸国はとても遠いですから、無事にたどり着けるといいのですけれど」
摩利の蔵人もつい呟く。
「都の外に出ると、賊も多いと聞きますしね。
受領は豊かな生活ができるといっても、とても心配です」
摩利の蔵人の言葉に、新の蔵人がこう訊ねてきた。
「摩利の蔵人は、受領になりたいとは思わないのですか?」
その問いに、摩利の蔵人は苦笑いをして返す。
「そうですね。妻たちのことを考えると、都を離れたいとは思えないです」
「ですよね」
新の蔵人がまた少しうつむいたので、やはり妹が心配な気持ちは消えていないのだなと摩利の蔵人は思う。
どうやって慰めたものかと摩利の蔵人が悩んでいると、藤棚の右大将が空気を読まずに朗らかな声でこう言った。
「でも、受領も国土を治めるための大切な仕事ですから。とても栄誉なことですよ」
藤棚の右大将の言葉に、新の蔵人は戸惑うように訊ねる。
「藤棚の右大将は、受領になりたいと思いますか?」
「正直言えば、やってみたい」
その答えはあまりにも明朗で迷いがない。
新の蔵人が驚いたような顔をしているところに、藤棚の右大将はさらに言葉を続ける。
「受領になれば、都から離れた場所へ咎められることなく行けるんでしょう?
私は、都の外の世界がどんなものか、気になるのです」
まっすぐで無邪気なその言葉に、椿の中将が苦笑いをする。
「富がほしいわけでもなく、都の外が見たいから受領になりたいなんて、実に右大将らしいですね。
それにしても、物好きな気はしますが」
そう。都の中、特に洛中で生まれた者は、普通都の外へは出たがらない。
富を求めて受領になりたいという者以外は、都で一生を終えることを望んでいるのだ。
それなのに、藤棚の右大将はこう言う。
「だって、都の外はもっと広いんでしょう?
海があって、山があって、草原も、田畑もあって。
私はそれを見てみたいんです」
それを聞いてか、新の蔵人の顔からはすっかり不安が消えていた。きっと、都の外に出るのは悪いことばかりではないと思えたのだろう。
そして、摩利の蔵人も、都の外がどうなっているのか見たい気持ちはなんとなくわかってしまった。
都の外、羅城門の向こうの風景を想像して頭に浮かんだのは、わずかながらに草の生えた見渡す限りの乾いた平野と、駆け回る馬、それに日輪の輝く雲ひとつない青い空だった。




