第二十六章 末摘花
年始の行事も落ち着き、忙しさも薄らいできた頃。この日は帝との執務の後に、摩利の蔵人は他の四位の者たちと集まって火鉢を囲んでいた。
蔵人頭という立場のせいか、普段は三位以上の公達に囲まれていることが多いのだけれども、たまにこうやってほかの四位の者たちと話しているとなんとなくほっとする。
今思うと、同じ四位の椿の中将もなぜか公達に囲まれがちだけれども、椿の中将はあの歌の腕前なのだから公達どころか帝に目をかけられているのも不思議ではない。
集まっているのは摩利の蔵人と衛門督、それに兵衛督だ。
「椿の中将は今頃どうしていることやら」
衛門督がそう言うと、兵衛督が呆れたように返す。
「今頃房にでも行ってるんじゃないですかね。
ほら、例の石蕗の女房にかまってほしくて」
それを聞いて、摩利の蔵人は人の噂というのはすぐに広まってしまうものだなとすこしこわく思ったけれども、それを表に出さずににこにこと笑っている。
「椿の中将は、ほんとうに石蕗の女房に執心ですからね」
摩利の蔵人がそう言うと、兵衛督が額をおさえて天井を仰ぐ。
「ほんとうに欲張りな人だ。
北の方の甘夏の君だって、中宮の次にうつくしい姫君だと評判なのに、それで満足できないなんて」
それを聞いた衛門督は、木笏で兵衛督を指して言う。
「それで、椿の中将はついに北の方からお怒りを食らったらしいですよ。
腕についたひどいひっかき傷を見たという噂を聞きました」
実際の所、まあまあ痛そうなひっかき傷を付けられていたのを見てはいるけれども、衛門督が噂で聞いたひどいひっかき傷というのはどの程度のものなのだろうか。噂に尾びれはつきがちなものなので、きっと誇張されているだろう。
そして案の定、椿の中将の傷は未だに癒えないほど深いものだったらしいと衛門督は話している。
ふと、兵衛督が話題を変えた。
「姫君と言えば、先日源氏の太政大臣の元に来た姫君をちらりと見たという人の噂を聞きましたよ」
とんでもないことを言いはじめたなと摩利の蔵人は背中がじっとりとするのを感じる。
あれだけ大事にしている姫君の顔を見られたなどという話を聞いたら、源氏の太政大臣が怒らないはずがない。
摩利の蔵人の懸念もよそに、衛門督と兵衛督は姫君の話を続ける。
「あの姫君ですか。
して、どのような方なのですか?」
「さぞかしうつくしい姫君なのだろうと思っていたのですが、噂によるとたいそうな不美人らしく」
「なんと」
「長い鼻の頭が赤いらしく、末摘花と呼ぶ人もいますね」
これはますます源氏の太政大臣の耳に入ったらまずい。
源氏の太政大臣は人の噂に疎い方だけれども、大内裏でこの噂が広まってしまえばいつかは源氏の太政大臣の耳にも入るだろう。そのいつかが来ないことを願うばかりだ。
椿の中将の話が出るまでは和やかに話ができていたのに、急に気が気ではなくなってしまう。摩利の蔵人がどうなにを話したものかと悩んでいると、御簾の外に女房がやってきてこう声がかかった。
「摩利の蔵人、源氏の太政大臣がお呼びです」
あんな話を聞かされてしまったら、今顔を合わせるのは非常に気まずい。けれども、呼び出しに応じないわけにもいかないので、摩利の蔵人は衛門督と兵衛督に軽く声をかけてから、女房の後をついて源氏の太政大臣の元へと向かった。
それにしても、源氏の太政大臣が摩利の蔵人に用事があるというのは珍しい。仕事の用事であるなら、勝鬨の左大将や藤棚の右大将に用があることが多いし、それ以外のおしゃべりなどは、わざわざ陰陽寮まで行って晴明に絡んでいることが多いからだ。
「ただいま参りました」
御簾の外側から声をかけると、先導していた女房がすっと御簾を上げたので、摩利の蔵人は膝をついて中へと入る。中では火鉢の側で源氏の太政大臣がゆったりと座っていた。
「摩利の蔵人に訊きたいことがあります」
これが摩利の蔵人を呼んだ用件だろうか。摩利の蔵人に訊ねることとなると、帝のこと以外にないだろう。
そう思っていたら、予想外の言葉が飛んできた。
「最近噂の末摘花の君というのは誰のことか、知っていますか?」
これはまずい。源氏の太政大臣の耳にもすでに入っていたか。摩利の蔵人は少しずつ伺うように質問に答える。
「噂では、源氏の太政大臣が先日お迎えになった姫君のことらしいです」
「あのひとですか?」
驚いたような声を上げる源氏の太政大臣の顔色をそっと見る。きょとんとはしているものの、怒っているようすはない。どうやら末摘花の君という名前だけが耳に入っているようだ。
「どうしてそのようなあだ名がついたのかまでは存じ上げないのですが……」
とりあえず知らないということにしておいて、なにか名前の由来を誤魔化す方法はないかと摩利の蔵人が内心必死で考えていると、源氏の太政大臣は上機嫌な笑顔を浮かべてこう言った。
「なるほど。日輪に向かってまっすぐに伸びて芯の強い、末摘花のようなひとですから、ふさわしいあだ名ですね。
これからは私もそう呼びましょう」
前向きに捉えてくれて良かった。摩利の蔵人がとりあえずほっとしていると、急に源氏の太政大臣だ険しい表情になった。
思わず身を固めると、源氏の太政大臣は大きなため息をつく。
「しかし、そんなすてきなひとなわけですから、どこの馬の骨ともしれない男が言い寄ってきたら困りますね。
宮中で噂になってしまっていますし」
その心配は無用だと思う。そのつぶやきを摩利の蔵人はぐっと飲み込んで、おっしゃるとおりです。と一言だけ返す。
源氏の太政大臣は、しばらく末摘花の君に悪い虫がつくことを懸念するようなことを言っていたけれども、それはそれとして。とこうとも言う。
「しかし、末摘花に夫がいないのも心配です。
あのひとにもしっかりとした後ろ盾がないと今後が不安でしょうし」
その言葉に、摩利の蔵人は反射的に返す。
「でしたら、源氏の太政大臣が娶ってはどうでしょう」
そう、宮中の男たちはみな、事実がどうかもわからないままに末摘花の君のことを不美人だと思っている。それだと、夫捜しは難しいだろう。
ならばいっそのこと、末摘花の君をすてきなひとだと言っている源氏の太政大臣が娶るのが一番良いのではないかと摩利の蔵人は思ったのだ。
摩利の蔵人の言葉に、源氏の太政大臣は顔を真っ赤にしてうろたえている。
「しかし、そうは言っても……」
今までのような、あくまでも保護者として振る舞うような態度が消えている。
これはもしかしたら脈があるのではないかと、摩利の蔵人はもう一押しする。
「太政大臣は末摘花の君のことをすてきなひとだと思ってらっしゃるのでしょう?
なにをためらう理由がありますか」
「だ、だって、まだ知り合って間もないのに、それは良くないと思うんです……」
知り合って間がないと源氏の太政大臣は言っているけれども、摩利の蔵人が末摘花の君の話を耳にしてから、もう半年は経っている。もう十分にお互いのことを知った仲でもおかしくないのではないだろうか。
源氏の太政大臣はずいぶんと慎重で奥手なのだなと摩利の蔵人が思っていると、源氏の太政大臣がおろおろしながら言葉を続ける。
「それに、末摘花まで妻にしたら、花散里のことを裏切ってしまうようで……」
「ああ、なるほど」
二人目の妻を娶ることに抵抗を示す源氏の太政大臣に、摩利の蔵人はいったん同意をしてからこう返す。
「ですが、源氏の太政大臣は子供がたくさんほしいとおっしゃっていましたよね。
そうなると、末摘花の君も娶った方が、花散里の君の負担も少なくていいかと存じ上げますが」
すると、源氏の太政大臣ますます顔を赤くして突っ伏してしまった。
「花散里のようなすばらしい妻を持ちながら、さらに末摘花のようなすてきな人を娶るなんて……そんな贅沢、人の身に許されるものなのでしょうか」
「法的には許されていますね」
摩利の蔵人が簡潔にそう返すと、源氏の太政大臣は頭を抱えてうめきはじめる。
この貞淑さを帝も見習ってほしい。源氏の太政大臣を見て摩利の蔵人はそう思った。




