第二十五章 若菜の頃
「今年の白馬もすばらしかったですね」
そう言ってころころと笑う帝の側で、蔵人ふたりと内侍司はそれぞれに筆と巻物を置く。
年始の行事はまだすべて終わったわけではないけれども、行事の合間にはいつも通りの執務をしなくてはいけない。今日はその一日だ。
今年の白馬節会は無事に終わった。今年も、去年のように珍妙な白馬が現れたらどうしようかと内心ひやひやしていたのだけれども、つつがなく儀式を終えることができて、白馬節会の席から帝と中宮が下がった後、摩利の蔵人と新の蔵人のふたり、なんなら神祇官の樹良も、緊張から解放されてしばらく突っ伏していた。
そんなことを思い出しつつ、執務が終わる。今日は若菜の日なので、仕事終わりの時を告げる女房が、帝に献上する若菜の羹も持ってきた。
内侍司が羹の乗った台盤を受け取り、帝の前に据える。内侍司が元の位置に戻ったのを確認してから、帝は湯気の立つ羹で満たされた器を手に取り、そっと口を付けた。
几帳の内側では火鉢に火を入れているけれども、それでも寒い。湯気が立つほどあたたかな羹を食べて、少しでも帝の体があたたまればなと摩利の蔵人は思う。
帝はゆっくりと羹を食べる。若菜自体柔らかいものを使っているし、くったりとするまで煮込むので固いということはないのだろうけれども、これも季節の節目なので、それをじっくりと味わっているのだろう。
羹を食べ終わった帝が、器を台盤に戻しながら口を開く。
「今夜は、あなたたちも若菜をいただくのですよね」
その問いに、摩利の蔵人と新の蔵人はこう返す。
「はい。今夜宿直をしているときにいただこうかと思います」
「夜はことさらに冷えますので」
それを聞いた帝は、いつものようにころころと笑う。
「そんなことを言わずに。
今夜は宿直せずに、家族の元へ帰ってみなで囲んだらどうですか」
そうしたい気持ちはあるけれども、年明けの大切な時期に帝の側にいないわけにはいかない。どうしたものかと摩利の蔵人が悩んでいると、新の蔵人がこう答えた。
「私は先月の終わり頃、よりにもよってとても忙しい時期に休みをいただいてしまったので、本日は宿直させていただきます。
そうしないと私の面目が立ちません」
そういえば、年の暮れに毎月のように新の蔵人が体調を崩して休んでいたのだった。今思うと、年末は忙しすぎて誰がいて誰がいないのかわからない状態だったので、新の蔵人が休んでいたことを摩利の蔵人はすっかり忘れていた。
新の蔵人が休みを取っていたことを思い出して摩利の蔵人が静かに驚いていると、帝が頷いて新の蔵人に言う。
「そう言うのでしたら、今夜は新の蔵人に宿直を頼みましょうか」
「承知しました」
それから、新の蔵人が摩利の蔵人の方を向いてにこりと笑う。
「そういうわけですので、摩利の蔵人はご家族とお過ごしください。
今夜は私が帝の側に控えます」
「そうですか。それでは、お言葉に甘えて」
体が少々弱いとはいえ、新の蔵人はしっかり者だ。ひとりで宿直を任せてもうまくことを運んでくれるだろう。そう判断した摩利の蔵人は、今夜は妻の元へ行こうと思いを巡らせた。
今夜待っているあたたかな時間に期待を膨らませていると、帝が心配そうな顔をして新の蔵人を見る。
「新の蔵人。今夜、私の側に控えてくれるのはうれしいのですが、また今月も休んだりするのですか?」
毎月のように体調を崩している新の蔵人の体調が心配なのは摩利の蔵人も同じだ。思わずはっとして新の蔵人の方を見ると、新の蔵人は帝に頭を下げてこう言った。
「そのときが来たら、またお伝えします」
やはり、体の弱い新の蔵人に宿直をさせるのは体力的に無理があるだろうか。摩利の蔵人がそう思って伺うように帝を見ると、帝は新の蔵人の方へすこし身を乗り出し、声をおとしてこう言った。
「それでしたら、今夜は私の側にいてくださいね。
務めを果たせるときに果たしてもらわないといけませんから」
「仰せのままに」
いつも通りの澄ました声で答える新の蔵人だけれども、なんとなくいつもとようすが違う。こういうとき、新の蔵人はいつも相手の目をしっかりと見据えるのに、今に限って帝と視線を合わせたり逸らしたりとそわそわしている。
不思議に思って帝の方を見てみても、珍しくくすくすと笑って新の蔵人を見ているだけだ。
どちらも普段とはようすが違うのだけれども、なぜこうなっているのか摩利の蔵人にはわからない。
内侍司ならわかるだろうかとそちらの方へ視線を送ると、内侍司も戸惑ったような表情をしている。どうやら内侍司も事情は知らないようだ。
なんとなく不思議な空気に包まれる中、内侍司が帝に頭を垂れて言う。
「できれば私も、今夜は家に帰って家族と過ごしたく思います。
お許しいただけますでしょうか」
内侍司の言葉に、帝はにっこりと笑ってこう返す。
「あなたも、ずっと内裏にいては家族が恋しいでしょう。
今日は家に帰って、両親や夫とともに過ごしてください」
「ありがたいお言葉恐れ入ります。
では、そのようにさせていただきます」
そういえば、内侍司にはこの役職にしては珍しく夫がいるのだった。内侍司という立場になった女は、帝の妻になることが多いのだけれども、この内侍司はこの役職に就く前からすでに夫がいたらしい。
そんな事情があり、この内侍司を任命する際、源氏の太政大臣はたいそう渋い顔をしたそうだ。しかし、さすがの帝もそのあたりの分別はついているようで、内侍司に誘いをかけるようなことをしたりはするけれども、実際には手を出していないようだ。内侍司の方としても、帝が絶対に自分には手を出さないという確信があるのか、誘いをかけられたときは素直に照れて見せたりなどする。
とはいえ、相手が帝で、しかも絶対に手を出さないとわかっていても、自分の妻に甘い言葉をかけられたらどう思うか。摩利の蔵人はそれを想像して、内侍司の夫も胃が強いな。と感心する。
ふと、帝が摩利の蔵人を扇で指す。
「そうそう。摩利の蔵人の妹君、百合の女房も家に戻らせるよう、中宮に言っておきましょうか?
若菜の時くらい、兄妹一緒にいたいでしょう」
その言葉に、摩利の蔵人は慌てて頭を下げて返す。
「ありがたいお言葉です。
ですが、百合のことに関しては中宮のお気持ち次第ですので」
できれば、百合の女房とも一緒に若菜を囲いたい。摩利の蔵人の本心としてはそうなのだけれども、中宮に仕える女房が、この忙しい時期にあまり抜けてしまうのも不便があるだろう。
遠慮する摩利の蔵人に、帝はころころと笑ってみせる。
「そうですね、中宮次第です。
でも、訊くだけ訊いてみますよ」
ありがたい言葉に、摩利の蔵人は平伏することしかできない。
そうこうしているあいだに時間は過ぎていき、今日は早めに帰るようにと帝に言われ、内侍司共々内裏を後にした。
家に帰った摩利の蔵人は、まずは両親に今夜は家にいることを伝え、続いて北の方である睡蓮の君の所へ行き、続いて沙羅双樹の君の所へと行く。
ふたりとも、今夜は一緒に若菜を食べられることをよろこんでいた。
「そういえば、百合の君から文が届いているんです」
睡蓮の君が嬉しそうにそう言うのでどんな内容だったか訊いてみると、中宮から許しが出たのでいったん家に帰ってくると言うことだった。
家族全員で過ごせるのは久しぶりのことで、摩利の蔵人はつい嬉しくなる。
家族と言えば、とふと思う。百合の女房はもういい年なのに、いまだに嫁のもらい手がない。
妹がいつまでも妹でいてくれるのは嬉しいけれども、嫁に行けないのはそれはそれで困る。
百合の女房の朗らかな笑い声を思い出して、いっそのこと帝なら気が合うかもしれないと思ったけれども、そんな大それたことは到底口に出せない。
兄として、妹に釣り合う相手を探さないといけないなと思った摩利の蔵人だった。




