第二十二章 しょっぱい妻とやきもち
摩利の蔵人が懸を駆け抜けて飛んでいく鞠を追う。なんとか追いついて力一杯蹴り飛ばすと、鞠は弧を描いて藤棚の右大将の方へと飛んでいった。
鞠をよこされた藤棚の右大将は、咄嗟に身構え、頭で鞠を打つ。そのさまに、蹴鞠に参加していた他の面々は驚きを隠せない。
よほど驚いたのだろう。鞠を次によこされた椿の中将は、うまく鞠を蹴り上げることができずに落としてしまった。
そのようすを見て、帝がころころと笑う。
「おやおや、今回は椿の中将の負けですか」
続いて、新の蔵人が澄ました声で言う。
「それにしても藤棚の右大将、頭で鞠を返すのは反則ですよ。
冠を落としたらどうするのですか」
「サーセン」
新の蔵人の言葉に縮こまる藤棚の右大将のことを、源氏の太政大臣は苦笑いをしながら見ている。
蹴鞠をして体はあたたまったけれども、吹く風は冷たい。このまま寒空の下にいて帝の体にまたなにかあってはいけないと、摩利の蔵人が進言する。
「帝、そろそろお戻りになられた方が良いかと思います。
冷たい風は、お体に障りますので」
それを聞いた帝は、瘧にかかっていたときのことを思い出したのか、すこし目を伏せてから頷き、その場にいるみなにこう言った。
「では、中に入りましょうか。
あたたかいお茶をいただいて、火に当たりながらお話でもしましょう」
お茶という言葉を聞いたからか、藤棚の右大将がしわしわした顔で帝に言う。
「できれば、できればで良いのですが、芋粥など……」
藤棚の右大将の心許ない声を聞いて、帝はきょとんとしてからまたころころと笑う。
「なるほど、芋粥も良いですね。
あたたまりますし、なにより滋養がつきます」
帝は藤棚の右大将がお茶を苦手としてるのを知らないのだな。と摩利の蔵人は思ったけれどもあえて言わない。
そのまま、帝の意向で蹴鞠をしていた面々で内裏へと移動し、帝たちに先に戻ってもらう。それから、女房に芋粥の用意をするよう言いつけて、摩利の蔵人は火鉢を、新の蔵人は炭を用意して運んで行った。
炭を持つ新の蔵人の手を見て、あんなに黒く汚れてしまうものをあの白い手に持たせて良いものかと摩利の蔵人は悩んだけれども、非力な新の蔵人よりも、自分の方がより重い火鉢を持ったほうがいいと思い直す。
帝の元につき、摩利の蔵人は受け取った炭を火鉢に入っている火種の上に乗せ、息を吹きかけて火を付ける。
そうしている間にも、帝たちの話は盛り上がっていた。
ふと、帝が摩利の蔵人に声をかける。
「ところで摩利の蔵人、このところあなたの妻の具合はどうですか?」
明らかに心配そうに言われた言葉に、摩利の蔵人は平伏する。
「おかげさまで、ふたりとも落ち着きを取り戻してきました」
「そうですか、それはよかったです」
摩利の蔵人が息子を亡くしてからというもの、仕事に支障が出ない程度にとはいえ、なるべく妻の側にいられるよう帝ははからってくれていた。そのことには感謝しかないのだ。
「細君が落ち着いたようで良かったです」
「妻が落ち込んでいると、あなたの心も晴れないでしょう」
椿の中将と源氏の太政大臣も、労いの言葉をかけてくる。特に源氏の太政大臣は、妻のことをあれだけ大事にしているという事実があるだけに言葉に重みがある。
摩利の蔵人が感謝の気持ちで逆になにも言えなくなってしまっていると、新の蔵人がそれとなく話を逸らした。
「ところで、藤棚の右大将と椿の中将には、まだ子供はいないのですか?」
その問いに、藤棚の右大将は難しい顔をして答える。
「不思議なことに、子供ができないのですよ」
藤棚の右大将には妻が三人いる。まさかその三人全員が石女だとは思えない。
それならなぜだろうかと摩利の蔵人が考えていると、新の蔵人がさらに訊ねた。
「妻の所に行ってなにをしていますか?」
「双六」
「他には?」
「碁」
それ以外になにがあるんだという顔をする藤棚の右大将を見て、子供ができないのはそれはそう。という空気が流れる。
しかし、この件に関しては帝が教えたのでは? と思ってちらりと帝を見ると苦笑いをしている。どうやら帝ですら子作りというものを理解させるには至らなかったようだ。
藤棚の右大将の件は後々考えることとして、摩利の蔵人は椿の中将に改めて訊ねる。
「椿の中将はどうなのですか?」
すると、椿の中将は自慢げにこう返す。
「甘夏にひとり姫がいます。
甘夏にそっくりで、将来絶対にうつくしくなりますよ」
思いのほかに、いつも入れ込んでいる石蕗の君ではなく、甘夏の君との間に娘がいるようだ。
それはなによりと摩利の蔵人が思っていると、帝が扇で口元を隠して小声で訊ねる。
「ところで、石蕗の君の子はいないのですか?」
「あー……まだですね……」
明らかにしょぼんとしてしまった椿の中将に、帝は興味津々にまた訊ねる。
「最近、ご無沙汰なのですか?」
「あー……石蕗は中宮の女房なので、宮中で会うには会うのですが……」
歯切れの悪い椿の中将に、帝は身を乗り出してこんなことを言う。
「それなら、それとなく誘えば良いではないですか。房に忍ぶ男も少なくないですし」
それから摩利の蔵人のほうをちらりと見たけれども、摩利の蔵人としては身に覚えがないのでにこりと笑顔を返すだけだ。
そんなひそやかなやりとりにも気づかず、椿の中将はしおしおとした声でこう言った。
「誘ってはいるのですが、いつもしょっぱい対応をされてしまうんです。
石蕗はやきもちも焼かないし、私はもう、愛想を尽かされてしまったのでしょうか……」
今にも泣き出してしまいそうな椿の中将に源氏の太政大臣がすこし厳しめの声で言う。
「椿の中将、そもそもやきもちを焼いてもらいたくて妻と妻の間をふらふらするその態度が不誠実なのです。それが石蕗の君の態度に出ているのではないですか?」
それに、椿の中将は手で顔を覆って返す。
「やきもちを焼いている甘夏がかわいいから、石蕗にもそれを求めたのがいけなかったというのですか……」
いけないだろうなぁ。と摩利の蔵人は思ったけれども、これも口には出さない。
とはいえ、妹の百合の女房から話を聞く限りでは、石蕗の君は色恋沙汰の妬みで心を乱すような人ではないというのを聞いているので、他にも原因がある気がした。
椿の中将の泣き言を聞いていた新の蔵人が突然訊ねる。
「ところで椿の中将、いったいどういうときに石蕗の君に誘いをかけているのですか?」
それを聞いた椿の中将はめそめそと泣きながらこう答える。
「中宮に使える身ですし、仕事中はまずいので、仕事が空いていて物語を書いているときに声をかけたり、文を送ったりしています」
椿の中将の言い分を聞いた新の蔵人は、ため息をついて呆れたように言う。
「それは間が悪すぎるでしょう」
それを聞いた椿の中将はぽかんとしてしまった。予想外のことを言われたのだろう。
新の蔵人はさらに畳みかける。
「では椿の中将に伺いますが、石蕗の君が書いた物語を夢中で読んでいるところに、甘夏の君に何度も話しかけられたらどう思いますか?」
「ちょっと怒るかもしれません」
「それに近いことを、椿の中将は石蕗の君にちょくちょくやっていたのですよ。
こうなるのも当然です」
鋭い指摘をされて、椿の中将はまた泣きそうな顔をする。助けを求めるようにふらふらと視線をさまよわせて、源氏の太政大臣と目が合う。
「仕事も終わって、物語も書いていない、ゆったりとした時に話しかけたり文を送ったりすれば良いのではないですか」
慰めるような源氏の太政大臣の言葉に、椿の中将は口元を袖で隠しながら返す。
「しかし、いざ会ってしまうと、うれしくて話しかけずにはいられないのです」
そんな椿の中将に、藤棚の右大将が訊ねる。
「あの、北の方は大丈夫なのですか?
やきもち焼きという話を聞いていますが」
「やきもちは焼いてます。やきもちを焼いた甘夏もかわいいのです。ですが」
なにか不満があるのだろうか。そう思いながら摩利の蔵人が耳を澄ませていると、椿の中将がため息をついてこう続けた。
「先日、ついに怒られてしまって。
見てくださいこのひっかき傷」
そう言って椿の中将が見せる腕には爪痕が残っていて痛々しい。けれどもそれはそれとして、まあそうなるよなぁ。と思う摩利の蔵人だった。




