第二十一章 胸の肉一両
本日の仕事も終わり、帝が今日はゆっくりと中宮と過ごしたいというので、摩利の蔵人と新の蔵人は蔵人の詰め所で一息ついていた。
このところはだいぶ冷えるようになってきた。ことさらに今日は一段と。仕事が終わった後に用意した火鉢で炭を焚いているのだけれども、どうにも手先がかじかんでしまう。
摩利の蔵人が火鉢の側に座って炭を手で扇いでいると、新の蔵人は真っ青になった手をかざしている。その指先はかすかに震えていた。
そのさまを見て摩利の蔵人は新の蔵人の指に手を伸ばす。
「ずいぶんと冷えてしまっているようですね。あたためましょうか?」
すると、新の蔵人は摩利の蔵人の手をそれとなく逸らして、いつも通りの澄ました声で答える。
「冷えているのはそちらもそうでしょう。
冷たい手に触るよりは、火に当たっていた方があたたかいです」
炭に手を近づけて握ったり開いたりを繰り返す新の蔵人の手を見て、それもそうだと摩利の蔵人も炭に手をかざす。
それにしても、どうしてこんなに新の蔵人の手が気になってしまうのだろうか。ずいぶんと華奢な手ではあるけれど。そう不思議に思いながら摩利の蔵人がぼんやりしていると、廊下がきしむ音が聞こえてきた。
「誰でしょう。こんなに走り回って」
呆れたように新の蔵人が言うので、摩利の蔵人はいったん立ち上がり、廊下を見渡す。
すると、廊下の端から袍を振り乱して走ってくる男がいた。
「べ、紅朱の小補? どうしたのですか?」
思わず驚いて摩利の蔵人が声をかけると、紅朱の小補と呼ばれた男はそそくさと摩利の蔵人の背中に隠れてこういった。
「た……たすけてくれぇ……」
今にも泣き出しそうな声を聞いて、摩利の蔵人は紅朱の小補がまたなにかやらかしたのではないかと勘ぐる。紅朱の小補は、人は良いもののどうにもそそっかしかったり考えが足りなかったりすることが多く、なにかと問題を起こしがちなのだ。このことについては内侍司も頭を悩ませている。
事情を聞こうと紅朱の小補の方を振り返ろうとした瞬間、続けて袍を乱しながら早足でやってきた人物がいる。少納言だ。
「蔵人殿、紅朱の小補を見ませんでしたか!」
これまたものすごい剣幕で摩利の蔵人に詰め寄る少納言のようすに、ただならぬことがあったのだなと察する。
「紅朱の小補がどうかしたのですか?
またなにかやらかしたとか」
摩利の蔵人がそう訊ねると、少納言は地団駄を踏みながらこう叫んだ。
「あいつはまた私との約束を破ったのです!
ああ忌々しい! これで何度目だ!」
紅朱の小補が約束を破るという少納言の言い分にいささか疑問を感じながら、摩利の蔵人はちらりと紅朱の小補を目だけで見る。
「……ぴえん……」
本格的におびえてしまっているけれども、ここで紅朱の小補を逃がして少納言との禍根を残すとなおのことまずいことになる。
そう判断した摩利の蔵人は、後ろに隠れている紅朱の小補を引っ張って前に立たせ、紅朱の小補に訊ねる。
「少納言がこのありさまですが、どのような約束をしたのですか?」
その問いに、紅朱の小補はご無体。と呟いてからこう説明した。
「実は少納言に金を借りたのですが、三ヶ月で返すという約束だったのです」
「なるほど?」
金遣いが荒いわけではないが、算術が苦手な紅朱の小補のことだ、金の工面ができなかったのかもしれない。
「借りた金は返さないといけませんよ」
摩利の蔵人がやんわりと、しかし曲解を許さないような言葉で言うと、紅朱の小補は摩利の蔵人の袖にしがみついてべそをかきはじめた。
「かっ……返したんです……!
四ヶ月かかったけど……!」
ひと月ほど返済が遅れているけれども、返したのなら問題はないだろうと、今度は少納言の方に声をかける。
「こう言っていますが、金子が足りなかったとか、そういうことがあったのでしょうか。
そうでないなら、そこまで怒らなくても」
すると、少納言は顔を真っ赤にして声を荒げる。
「そうは言いますがね、小補は私から金を借りる度に何ヶ月も滞納するんですよ!
こっちにも都合というものがあるのに、今回こそは許しがたい!」
頻繁に滞納しているとなると、逐一貸してくれている少納言も気の毒になる。
どちらの肩を持つかと摩利の蔵人が考えはじめると、少納言が紅朱の小補を指さしてこう言った。
「今回は、少しでも遅れたら胸の肉一両をよこすことを担保に貸したのだぞ!
おとなしく胸の肉を一両分をよこせ!」
そんなとんでもない契約をしていたのかと、思わず摩利の蔵人の顔が青くなる。
契約は履行されるべきものだけれども、そもそもでどうしてそんな契約をしたのかが問題だ。そのことを紅朱の小補に訊ねると、紅朱の小補は摩利の蔵人の袖で鼻をかみながらこう答えた。
「いつも返済が遅れるから、胸の肉を担保にしないと借りられなかったんです」
「うん……」
そこまでしないと借りられないだろうなというのは、少納言のようすを見ていれば納得できる。だがまだ疑問はある。
金遣いが荒いわけでもない紅朱の小補が、どうしてそんなに金を借りなくてはいけないのかだ。
「紅朱の小補、そんなに生活が苦しいのですか?」
摩利の蔵人がおずおずとそう訊ねると、紅朱の小補が言うにはこういうことだった。
どうしても紅朱の小補の領地は作物の実りが悪く、農民に食べさせる米や雑穀を仕入れないといけないのだという。
はじめのうちは紅朱の小補の持ち金でなんとかしようとしていたのだけれども、それだけでは回らなくなり、少納言に借金をするようになったというのが事情のようだ。
「なるほど。たしかに紅朱の小補の領地は収穫量が少ないですしね」
納得しつつ、やはり紅朱の小補自体はいい人なのだというのを実感する。しかし、それはそれとして怒り心頭の少納言をなんとかしなくてはいけない。
怒りの視線を向ける少納言と、袖にしがみついている紅朱の小補の間で、摩利の蔵人は少々考えを巡らせる。
それから、神妙な顔をして紅朱の小補に告げる。
「いくら民草のためとはいえ、小補が交わした契約です。この約束事は守らなければ、示しが付かないでしょう。
胸の肉を差し出しなさい」
「……ぴえん……」
絶望したような顔で涙を浮かべる紅朱の小補から、少納言の方へ視線を移し、にこりと笑ってこういう。
「そういうわけですので、少納言は紅朱の小補の胸の肉を一両、取ってください」
摩利の蔵人の言葉に、少納言は上機嫌になり腰に差している刀に手をかける。
その動きを、摩利の蔵人が手で制してこう続ける。
「ただし、血の一滴も流さずにやるのですよ」
突然の言葉に、少納言はぽかんとしてから、また怒りで顔を赤くする。
「蔵人殿、また無茶なことをおっしゃる。
血を流さずに胸の肉を取れるはずがないでしょう」
少納言の言い分に、摩利の蔵人は涼やかに返す。
「しかし、胸の肉を差し出すことは契約にあっても、血を差し出すことは契約にないのでしょう?
血を流すのは契約を違えることになります」
「そんなの無理に決まっているでしょう!」
なんとか刀から離した拳を振り上げる少納言に、摩利の蔵人はあくまでも紅朱の小補を前に立たせながら言う。
「できないのでしたら、胸の肉を取るのはあきらめてください」
もちろん、これで少納言が納得するはずがない。けれども、これ以上胸の肉を取ろうとしても無駄だと言うことはわかったのだろう。渋々といったようすで拳を降ろしている。
「良い心がけです。
紅朱の小補が民草に施しをしたことは、帝にも伝えておきます。
もちろん、そのときに少納言も力添えしたことも忘れずに伝えますから」
突然帝のことを引き合いに出されたからか、少納言はようやく落ち着きを取り戻したようで摩利の蔵人に、よろしく。と言い残して去って行った。
何度も礼を言う紅朱の小補の背中を軽く叩きながら、摩利の蔵人は困ったように笑う。
「今回はなんとかなりましたけど、今後はあまり無茶な借金はしないでくださいね」
「善処します」
どこまで善処できるかはわからないので、今後も注意しておかないとと摩利の蔵人は思った。




