第二十章 迎えた姫君
穏やかなあたたかさのなか、仕事も終わり外から吹いてくる涼しい風を帝が楽しんでいた。その傍らでは、帝のために摩利の蔵人が餅茶を削り、内侍司がお茶を淹れている。
袍の襟元を緩めながら、帝が誰ともなしに訊ねる。
「ところで、このところはなにか面白い話はありませんか?」
その問いに、摩利の蔵人と新の蔵人は顔を見合わせる。ふたりが聞く話と言えば、藤棚の右大将がまた双六で妻に負けただとか、源氏の太政大臣が難解な算術の話を晴明に延々と聞かせていたとか、そんなものばかりで面白い話なのかどうかがわからない。
あえて言うなら、椿の中将が相変わらず石蕗の君に適当にあしらわれているということが面白いかもしれないけれど、これはこれで本人が真剣に悩んでいるので茶化していい話でもないだろう。
かといって、勝鬨の左大将はそれこそ面白い話が立つような立ち振る舞いはしない。
これは詰んだな。と摩利の蔵人と新の蔵人が思っていると、内侍司が帝にお茶を差し出しながらこう言った。
「近頃女房たちの間で話題になっているのですけれど、源氏の太政大臣が新しい姫君を迎え入れたそうですよ」
「えっ?」
思わず声を上げてしまった摩利の蔵人が口元を押さえる。ちらりと新の蔵人の方を見ると、口元を木笏で隠している。やはり同様に驚いたのだろう。
それもしかたがない。あれだけ妻はひとりで良いと言っていた源氏の太政大臣が、新しく姫を迎え入れることなど想像もしていなかったのだ。
その姫はきっと新しい妻なのだろうなと摩利の蔵人がうまく飲み込もうとしていると、帝がころころと笑ってこう言った。
「そんなことがあったのですか。
兄上もついに新しい妻を娶ったのですね。
これはお祝いしなくては。
では、摩利の蔵人」
「かしこまりました」
声をかけられた摩利の蔵人は、持っていた小刀と餅茶を紙の上に置き、膝をついて几帳の外へと出る。それから、源氏の太政大臣のことを探しに行った。
「帝、お呼びでしょうか」
内裏と大内裏を捜し回った結果、陰陽寮で晴明に絡んでいた源氏の太政大臣をなんとか連れてきて、几帳の中へと入ってもらう。
源氏の太政大臣が帝の前に座ったところで摩利の蔵人もそっと中に入り、置いておいた餅茶の側に座る。そのまま、餅茶を削って内侍司に渡すと、源氏の太政大臣の分のお茶を用意しはじめた。
それが目に入っているのかいないのか、帝は今にも抱きつきそうな笑顔で源氏の太政大臣に話しかける。
「聞きましたよ兄上。新しい妻を娶ったそうですね。おめでとうございます」
「えっ?」
帝の言葉に、源氏の太政大臣が困惑の声を上げる。もしかして隠し通すつもりだったのだろうかと摩利の蔵人が思っていると、帝がころころと笑って言葉を続ける。
「なんでも、新たに姫君を迎え入れたとか。
こんなおめでたいこと、もっと早く私に教えてくれれば良かったのに」
いかにもたのしそうな帝とは対照的に、源氏の太政大臣はきょとんとしてしまっている。
内侍司が差し出したお茶をひとくち飲んでから、源氏の太政大臣がこう返す。
「なにか誤解なさっているようですが、この度引き取った姫君は花散里の親戚ですよ」
それを聞いて、今度は帝がきょとんとする。
「つまり、花散里の君に似ているから妻にしたのですか?」
「そうではなく」
すっかり新しく妻を娶ったものだという空気の中、源氏の太政大臣が説明するにはこういうことだった。
この度引き取った姫君は花散里の君の従姉妹で、両親を亡くし、後ろ盾がなくなり生活も苦しくなってきたという手紙を、半ば嘆く形で花散里の君に送ってきたのだという。その姫君と仲の良い花散里の君がかわいい従姉妹を放っておけるはずもなく、源氏の太政大臣になんとか面倒を見てくれないかと頼んできたとのことだった。
そして、情にもろい源氏の太政大臣が花散里の君の頼みを断れるはずもない。姫君の苦境を知ってしまったらなおのことだ。
こういった事情なので、迎え入れた姫君は妻というわけではないと源氏の太政大臣は言っている。
その話を聞いて、帝が心配そうに言う。
「苦労なさった方なのですね……
それならなおのこと、兄上が妻として迎え入れた方が良いと思うのですが」
すると、源氏の太政大臣はため息をついてこう返す。
「私にはもう花散里がおりますので。
姫君の相手は、これから私が探します。
なんとしてでも姫君にふさわしい相手を見つけなくては」
これを聞いて、源氏の太政大臣はほんとうに誠実で貞淑なひとなのだなと摩利の蔵人は思う。ただ、今回ばかりはその貞淑さが邪魔をしてしまっているようだけれども。
お茶をひとくち飲んだ帝が、源氏の太政大臣に訊ねる。
「ところで、その姫君はどのような方なのですか?」
いかにも興味がありそうな顔をする帝に、源氏の太政大臣はにこりと笑って返す。
「そうですね。ずいぶんと古風で奥ゆかしい姫君ですよ。
歌の勉強にも熱心で、よく書物を読んでおります」
「歌の勉強。となると、白氏文集ですか?」
「そうです。漢詩もたしなむすてきな方です」
ふたりのやりとりを聞いていると、新の蔵人が突然こう訊ねた。
「源氏の太政大臣は姫君のことを好ましく思っているようですが、ほんとうに妻にする気はないのですか?」
その問いに、源氏の太政大臣はため息をついて言う。
「だから、私には花散里がいると」
すると、帝がころころと笑って新の蔵人の言葉に続ける。
「妻はたくさんいてもいいと思いますよ。
兄上でしたらもっとたくさん妻を娶っても面倒を見られるでしょうし」
帝の言葉に、源氏の太政大臣はすこしだけ頬を膨らませて返す。
「いえ、私は花散里以外の女には興味がありませんので」
これは拗ねたな。摩利の蔵人がそう思っていると、新の蔵人が畳みかけるように言う。
「ですが、太政大臣は子供がたくさんほしいのでしょう? でしたら、やはりもうひとりくらいは妻を娶らないと」
「私は花散里の子が」
「殺す気ですか」
「……そういうわけでは……
でも、たしかに、あまり花散里に負担はかけられない……新の蔵人の言うとおりだ……」
それからめそめそと、やはりもっと妻を娶るしかないのかと源氏の太政大臣が泣き言めいたことを言いはじめた。
これを見ている摩利の蔵人としてはどうしてそこまでひとりの女にこだわるのかがわからない。源氏の太政大臣ほどの地位があれば、たくさんの妻を娶ることは経済的になんの問題もないからだ。
ふと、源氏の太政大臣が誰ともなくこう訊ねた。
「では逆に、妻が何人もいる人たちはきちんと全員の相手をできているのですか?
私は、妻にしたからにはないがしろにはしたくない……」
いかにも不安そうな言葉に、摩利の蔵人がなだめるように返す。
「そうですね、私には妻がふたりいますが、ふたりまでならどちらも同等に大切にできますよ」
それから、ちらりと帝の方に視線をやると、帝は扇で口元を隠しながらころころと笑う。
「大丈夫です。私もすべての女を大切にして、相手にしていますよ。
もっとも、一番大切になってしまうのはどうしても中宮ですけれども」
帝の言葉を聞いて、そうでなかったらだいぶまずい。と摩利の蔵人は思ったけれど、それと同時に驚きもする。
源氏の太政大臣がどの程度把握しているかはわからないけれども、帝が手を付けている女は内裏の中だけでも両手で足りないほどだ。その全員に不満を持たせないように相手をすることなど可能なのだろうか。
なにはともあれ、これで源氏の太政大臣が納得してくれるならそれでいい。そんなことを考えていると、源氏の太政大臣がおずおずとこう言った。
「帝……あの人数を、どうやって……?」
これはこれでそれはそう。いままさに摩利の蔵人も疑問に思っていたところだ。
「姫君を帝に任せるのはどうですか?」
摩利の蔵人がなんとなくそう言うと、源氏の太政大臣は頑なに頭を横に振る。
「それはなりません」
その言葉に、帝が明らかにがっかりした顔をした。




