第十九章 武士の訓練
源氏の太政大臣秘蔵の薬を飲んでからというもの、帝の体調は瞬く間に快癒した。
そのことに摩利の蔵人は安心したし、源氏の太政大臣は帝の快癒をよろこんで泣き出すほどだった。
帝の快癒は晴明が予言したということを知った源氏の太政大臣がしばらく陰陽寮に入り浸っていたけれども、そんなことをされた陰陽寮は気が気でなかっただろうなと摩利の蔵人は思っている。
そんなふうに周りの人々に心配されていたのが身にしみたのか、それとも単純に病み上がりで体力が落ちているのか、どちらかはわからないけれどこのところ帝は悪い癖を出していない。
このまま悪い癖がおさまってほしいという思いを抱えたままいつもの仕事をしていると、帝が思い出したようにこう言った。
「ところで、武士たちはどうしているでしょうか」
その言葉に、蔵人ふたりと内侍司が顔を見合わせる。
去年の秋頃に武士たちのようすを見に行って以来、ずっと藤棚の右大将に任せっきりだったことを思い出したのだ。
「藤棚の右大将が、うまくはからっていると思いますが」
摩利の蔵人がそう答えると、帝が不安そうにこう返す。
「そうなのでしょうけれど、私も常に万全でいることはできないということがわかってしまいました。
都に賊が出たときに、私になにかあったとしても、左大将と右大将に武士たちを率いることができるのかどうか。それが心配なのです」
どうやら、先日の瘧で気弱になってしまっているようだ。
「右大将がどうしているか見てきましょうか」
新の蔵人がそう言うと、帝は頷いて几帳の外を扇で指す。新の蔵人はすぐさまに藤棚の右大将の元へと向かった。
それから、新の蔵人抜きで仕事をすることしばらく。几帳の外から声が聞こえた。
「藤棚の右大将は、これから武士たちの訓練だそうです」
外から聞こえた新の蔵人の声に、帝がうかがうように摩利の蔵人と内侍司を見る。
「きりもいいところですし、視察に行かれてもよろしいでしょう」
巻物を文机の上に置いた内侍司がそう言うと、帝はにこりと頷いて立ち上がる。摩利の蔵人もそれに続いた。
几帳の外に出た帝を、摩利の蔵人が先導し、新の蔵人が後ろに付く。そのまま内裏の中を歩いて抜け、武士たちの訓練がよく見える場所まで移動した。
訓練場からは勇ましい声が聞こえる。その勇猛さに、帝がころころと笑う。
「あれは、武士の声でしょうか」
帝の言葉に答えるように、訓練場からひときわよく響く声が聞こえてくる。
「あららーい! 突撃!」
その声に合わせて、武士たちが雄叫びを上げ、槍を構えて早足で歩を進める。
「藤棚の右大将の声は、ほんとうによく通りますね」
声が頭に響くのか、耳のあたりに手をやって言う新の蔵人の言葉に、帝は満足そうだ。
「藤棚の右大将は公家なのにあんなにも勇ましくて、頼りになりますね。
あの姿を見ていると、先ほどの不安が笑い話のように消えてしまいます」
帝の言葉に、摩利の蔵人は軽く頭を下げて言う。
「武士たちが使うような槍の扱いは、勝鬨の左大将よりも藤棚の右大将の方が長けていますから。
刀となったら、勝鬨の左大将の方が扱いはうまいのですが」
「そうですね。左大将も右大将も、使う得物は違えど頼りになりますからね」
しばらくの間、帝は興味深そうに武士たちの訓練を見ていた。その表情は晴れ晴れとしていて、いざというときでも大丈夫だという安心を得られたように見える。
そうしているうちに訓練も一息ついたのか、武士たちが一斉に槍を降ろして隊列がすこしばらついた。
そこへ、帝が大きな声で声をかける。
「そこにあるのは誰か」
突然響いてきた声がなんなのかわからないのだろう、武士たちがきょろきょろと周りを見渡す中、藤棚の右大将が悠々と、帝よりも大きな声で答えた。
「勇猛なる戦士!」
藤棚の右大将のひとこえで、武士たちはまた背筋を伸ばし槍を立てる。
その統率のとれたさまに満足したのか、帝はまたころころと笑って摩利の蔵人と新の蔵人に言う。
「いやはや、立派です。なにも心配などする必要はなかったようですね」
その言葉に一礼を返してから、摩利の蔵人は地面に落ちた影の長さと日の高さを見る。
「帝、そろそろお戻りにならないと仕事が滞ります」
摩利の蔵人がそう進言すると、帝ははっとした顔をしてから困ったように笑い、来た道を振り返る。
「そうですね。内侍司も待たせていますし」
武士たちが一休みしているのを横目に、摩利の蔵人は帝を先導して廊下を歩きはじめる。そうして大内裏の中を抜け、内裏に入り、内侍司が待つところへと戻っていった。
几帳を摩利の蔵人と新の蔵人が左右からめくり、その間を帝が入っていく。帝が座ったのを確認してから、まずは摩利の蔵人が、続いて新の蔵人が膝を突いて中に入る。
全員が元の位置に付いたところで、内侍司が帝に訊ねた。
「武士たちの訓練はいかがでしたか?」
その問いに、帝はいつも通りにころころと笑って返す。
「あれだけ勇ましく統率のとれた武士がたくさんいれば、なにも憂えることはないでしょう。天が落ちてくるのかというような、いらぬ心配でしたね」
「それはようございました」
礼をして言葉を返す内侍司が、一瞬、摩利の蔵人の方へ視線をやる。それに気づいた摩利の蔵人は、にこりと笑って言う。
「藤棚の右大将の教育のたまものです。
右大将の正直で清廉な心根が武士たちにも伝わっているのでしょう」
ふと、内侍司がそういえばという顔をする。
「ところで、藤棚の右大将は武士たちの訓練をしていますが、勝鬨の左大将はどうなさっているのでしょう。
左大将が武士たちの訓練をしているという話はついぞ聞いたことがないのですが」
内侍司の言葉に、新の蔵人がにこりと笑ってこう返す。
「勝鬨の左大将を問い詰めますか?」
「それは……」
困ってしまったようすの内侍司に、帝はすこしだけ困ったように笑う。
「藤棚の右大将が頼りになるのは良いのですが、本来であれば武士の訓練や教育は公家の仕事ではないのですよね」
帝の言葉に、内侍司は斜め上を見てから、手元の巻物に視線を落とす。
「そういえば、勝鬨の左大将は武士たちに関する決めごとをさばいていますね」
「そうです。いくら左大将、右大将といっても、そうそう前線に出るものではないのですよ」
やさしく諭すような帝の言葉に、内侍司はかすかに頬を染める。帝の側で仕事をしていながら、左大将と右大将の本来の仕事を失念していたことを恥じらっているのだろう。
「そういえば、椿の中将ですら前線には出ませんものね」
はにかんでそう言う内侍司に、摩利の蔵人と新の蔵人は曖昧に笑って返す。
「あー……椿の中将は……」
「そうですね。表には出ますが前線には出ませんね」
ふたりの言っていることがどういうことなのか、いまいち掴みきれないのか内侍司はきょとんとしてしまった。
「しかし、そうなるとどうして藤棚の右大将が武士たちの訓練をしているかなのですが」
新の蔵人がそう呟いてから帝の方を見ると、帝は扇で口元を隠しながらころころと笑う。
「私が許可を出したからですよ。
大将になったらやってみたかったと、意気揚々と言われたもので」
そんな経緯があったのかと摩利の蔵人はなんとなく神妙な顔をしてしまう。現状うまくいっているから良いものの、それで失敗していたら取り返しの付かないことになっていたからだ。
「はじめは、ひと月ほど任せれば満足するかと思ったのですが、満足しなかったようですね」
帝はころころと笑いながら、結果としてうまくいっているから藤棚の右大将が大将のうちは任せるつもりだと言っている。
「まぁ、帝がそうおっしゃるなら……」
そんな風に話し込んで、結局仕事の続きに手を付けられないままに、仕事終わりの時を告げる女房がやってきた。
仕事が滞ってしまうのは困るけれども、帝に不安を抱えさせておくよりはずっと良いかと、摩利の蔵人はくすりと笑った。




