第十五章 賽の河原
この頃は歌合の準備で忙しく、昼間の仕事に加えて宿直が続いていたある日のこと。
いつも通りに仕事終わりの時を告げに来た女房が、摩利の蔵人宛の手紙を預かっていると言って、手紙の結ばれた躑躅の枝を差し出してきた。
それを見た帝はいつものようにころころと笑って摩利の蔵人に言う。
「おやおや、誰からの恋文でしょうか。
はやく返事を返しておやりなさい」
その言葉に、摩利の蔵人は曖昧に笑い、一礼をしてから手紙を受け取る。受け取った手紙はかすかに香を纏っていて、ああ、これは妻の沙羅双樹の君がいつも焚いているものだなと気づいた。
このところ忙しくて会いに行けていないから、会いたくて手紙を送ってきたのだろうか。息子の面倒も任せっきりだし。そう思いながら手紙を開いて目を通すと、思わず声を上げそうになった。
なんとか堪えたものの、そのようすを察した新の蔵人が摩利の蔵人に言う。
「なにかあったのですね」
それを聞いた帝も、真面目な表情をして摩利の蔵人に声をかける。
「なにがあったか教えてもらえますか?」
震える手で手紙を持ちながら、摩利の蔵人は努めて平静を保とうとしながら返す。
「私の五つになる息子が、高熱を出して寝込んでいると、妻から知らせが来ました」
平静を保とうとしながらも震えてしまっている摩利の蔵人の言葉を聞いて、帝が扇で几帳の外を指して言う。
「今すぐに向かいなさい。
しばらくは参内せずに、息子の快癒のための祈祷に努めるように」
帝の言葉はありがたいけれども、この忙しい時期に参内せずにいて大丈夫だろうかと新の蔵人を横目で見ると、新の蔵人はすました顔で言う。
「こういうときのための私です」
内侍司も同意するように頭を下げたので、摩利の蔵人は帝に平伏して礼を言ってから、急いで几帳の外へと出て行った。
内裏から車に乗り、三条にある妻の家につくなり、摩利の蔵人は息子の面倒を見ている沙羅双樹の君の元へと向かう。
女房が御簾を上げたので滑り込むようにその中に入ると、ぐったりとした息子の汗を布巾で拭っている沙羅双樹の君と、もうひとりの妻である睡蓮の君がいた。睡蓮の君は忙しなく布巾を絞っては沙羅双樹の君に渡し、汗で汚れた布巾をたらいの水で洗っている。
「具合はどうですか?」
摩利の蔵人がふたりにそう訊ねると、沙羅双樹の君が今にも泣きそうな視線を返す。きっと、言葉にできないほど悪いようすなのだろう。
それを察した摩利の蔵人は、すぐさまに文机で手紙をしたため、それを寺の聖へと届けるよう、御簾の側にいる女房に指示を出す。
女房は慌ただしく御簾の外へと出て行き、足の速い下男を呼びつけている。
聖に祈祷に来てもらえるよう手紙を出したは良いけれど、どれほどで来てもらえるだろうか。
不安を抱えながら摩利の蔵人は睡蓮の君が布巾を洗っているたらいを持ってふたりに言う。
「この水も、もうだいぶ温んでいるでしょう。新しいものに変えてきます」
「はい、お願いします」
頭を下げる睡蓮の君の声は震えている。自分の子供でないとはいえ、よく懐いてくれている沙羅双樹の君の息子がただならぬ状態であることに心を痛めているのだろう。
摩利の蔵人はたらいを持って早足で井戸へと向かい、冷たい水を汲み直す。それを、すぐさまに息子の元へと持って行った。
そうして三人がかりで息子のようすを見ていることしばらく、聖が到着した。
摩利の蔵人は丁重に聖を迎え入れ、沙羅双樹の君が息子の具合を聖に伝える。
聖はいかめしい顔で頷いてから、息子の側に座り祈祷をはじめた。
祈祷をしている間も、沙羅双樹の君が息子の汗を拭い、睡蓮の君が布巾を絞り、摩利の蔵人が何度もたらいの水を変えに行った。
聖に祈祷さえしてもらえば、きっと息子は助かる。その証拠に、だんだんと息子の熱は引いていった。
聖の祈祷が終わり、熱の下がった息子を安心した顔で沙羅双樹の君が抱き上げる。
すると、沙羅双樹の君は蒼白な顔をして泣き出してしまった。
「この子は……いつから息をしていなかったのでしょうか……」
泣き崩れる沙羅双樹の君とぐったりしている息子の姿を見て、摩利の蔵人は拳を握りしめる。こんなことなら、せめて死ぬ前に出家させてやれば良かったと悔やんだ。
沙羅双樹の君と睡蓮の君が摩利の蔵人に言う。
「あなたどうかこの子の」
「この子の葬儀をしてくださいまし」
ふたりの気持ちはよくわかる。できれば摩利の蔵人も、息子が極楽にいけるよう弔いたい。けれども。
「それはできません。この子はまだ、五つでしたから」
歳が七つになるまでは、たとえ死んでも葬儀は行わない。それが不文律となっているのだ。
泣き崩れる沙羅双樹の君と睡蓮の君。ほんとうは、摩利の蔵人だってそうしたい。けれどもそうしている場合ではないのだ。
せめてもと思って摩利の蔵人は聖に言う。
「葬儀はできませんが、この子のためにお経を上げてはいただけないでしょうか」
聖は深々と頷いて最も短いお経を息子のために上げた。
役目を終えた聖が寺へと帰った後、摩利の蔵人は息子の亡骸に、この家にある息子の服の中で一番良いものを着せ、しっかりと抱えて家を出た。
いつもなら車で都の中を移動するのだけれども、今日ばかりは自分の脚で道を歩く。
都は華やかなものだけれども、そうとばかりは言い切れない。
普段は気にしていないのだけれども、道ばたにうち捨てられているいくつもの遺骸がいやに目に付いた。
天頂から傾きかけた日に照らされながら、洛中と洛外の間に流れる川を目指す。背を照らす光は暑いほどなのに、腕に抱えた息子はひどく冷たい。
川のほとりに着くと、そこには腐りかけの死体や人骨が数え切れないほどに転がっていて、運ばれてきて間がないのだろうなという死体の身ぐるみを剥いでいる何者かもいる。
摩利の蔵人は川辺に息子の亡骸をそっと横たえて周りを見る。すぐさまに何者かが側へと寄ってきた。
何者かに摩利の蔵人は言う。
「お願いです。この子のものを取るのは、せめて夜になってからにしてくれませんか」
何者かは短く笑って、息子の亡骸の側に座った。
妻の家に帰り、摩利の蔵人は沙羅双樹の君と睡蓮の君と一緒に息子のことを偲ぶ。
その中で、沙羅双樹の君が摩利の蔵人に訊ねた。
「いつから参内なさるおつもりですか?」
息子が亡くなったばかりなので、側にいて欲しいのだろう。そう思った摩利の蔵人はこう答える。
「あの子はまだ五つでしたから、穢れにはなりません。なので、明日からでも参内することはできます」
沙羅双樹の君がうつむいてすがりつく。その頭をやさしくなでて、摩利の蔵人は言葉を続ける。
「ですが、あなたたちの心も安まらないでしょうし、帝に文を送ってお伺いを立ててみます。
大丈夫です。帝は、下々のことも気遣ってくださる寛大な方ですから」
摩利の蔵人は沙羅双樹の君をなだめて文机に向かう。急いで墨を摺って文をしたため、女房に託す。
明らかに急いだようすで手紙を誰に取り次がせるかと話している女房の声が遠くなっていく。
それからあたりがすっかり静かになって、なにも言わずに沙羅双樹の君と睡蓮の君と寄り添い合っていた。
夕食のことも忘れすっかり日が暮れた頃、女房が帝からの返事を持ってきた。
手紙を開くと、まずはこれから三日間、参内せずにいて良いという旨が書いてあり、その間しっかりと妻たちの心を慰めるようにとあった。
それに加え、もう一枚手紙が重なっていた。
なにかと思ってそちらも見てみると、新の蔵人からの手紙だった。
摩利の蔵人が暇をもらっている間、内侍司と共にしっかりと切り盛りをしておくから安心しておくようにとのことだ。
そのことを妻ふたりに伝えると、沙羅双樹の君も睡蓮の君も摩利の蔵人にすがって泣き崩れる。
摩利の蔵人も、ようやく息子のことを思って泣くことができた。




