第十三章 白馬節会の席で
今年の年始もやることが多い。
先日、去年と同じように大臣大饗で駆けずり回ったすぐ後に、今度は白馬節会だ。これ以外にも年始は行事が目白押しなので、帝や上達部はもちろん、行事の準備をしないといけない蔵人は休まる暇がない。
今年神社に奉納する白馬はどんなものか。それを見るのを楽しみにしている帝のために、摩利の蔵人と新の蔵人は慌ただしく、けれども丁寧に帝と中宮のための席を整える。
中宮のための席を整えている新の蔵人の手を見ると、大臣大饗の時に持った徳利のひもで傷めてしまったのであろう赤い痕が残っている。
あんなにか弱い柔肌の手で、新年の蔵人の激務をこなさせるのはいささか心配だけれども、なんだかんだで新の蔵人は手際が良いのでいると心強い。
「やはりあなたは頼りになります」
ふと、摩利の蔵人がぽつりとそう言うと、新の蔵人目礼を返して言う。
「準備もできましたし、帝と中宮をお連れしましょう」
摩利の蔵人は整えた席のようすをぐるりと見渡してから、内侍司には中宮を呼びに行くように、新の蔵人には自分と共に帝の元へ行くよう声をかける。
内裏を行き帝の元へ着くと、帝は源氏の太政大臣と談笑して待っているようだった。
「白馬節会の準備が整いました」
膝をついてそう声をかけてから御簾を上げると、いかにも楽しみといった顔をした帝が出てきて、その後に表情を引き締めた源氏の太政大臣がついてくる。
「それでは、帝のことをよろしく頼みます」
源氏の太政大臣は蔵人たちにそう言ってから、反対方向へと歩いて行く。帝とは別の場所に席が用意されているのだ。
摩利の蔵人は帝の前を歩き、新の蔵人は帝の後ろに着く。そうして白馬節会の席に着く直前に、女房が掲げる几帳で身を隠しながらやってきた中宮と鉢合わせた。
中宮と女房たちはまず帝に先を譲り、帝が席に着いたのを確認してから、中宮が席に着く。
摩利の蔵人と新の蔵人は、中宮の顔を見ないよう気を払いつつ、帝の後ろに控える。
白馬が連れてこられる目の前の懸は、御簾越しですこし暗く見える。ほんとうは御簾がない方が白馬の動きがよく見えるのだろうけれども、中宮はもちろん、帝の姿もやすやすとさらすわけにはいかないのでしかたがない。
きっと、この御簾越しの風景になれてしまっているのだろう。帝は何も不満に思うようすもなく、中宮と今年はどんな白馬が来るだろうかと和やかに話している。
そうしているうちに、懸に設けられた入り口から神祇官が白馬を連れて現れた。
その白馬は例年になく堂々とした体つきで、御簾を隔てている遠目で見ても神々しさが伝わってくるようだった。
神祇官が白馬を引いて懸の中をまわる。懸の周りにいる上達部たちの感心したようなざわめく動きが、御簾越しでも伝わってくるようだった。
今年の白馬節会は大成功か。摩利の蔵人が胸をなで下ろした瞬間、それは起こった。
白馬が急にその場に寝転びはじめ、のんびりと懸に生えている雑草を食べはじめたのだ。
もちろん、白馬を引いていた神祇官は大慌てで白馬を立たせようとしているし、摩利の蔵人の顔からも血の気が引く。ちらりと新の蔵人の方を見ると、同じようすだった。
これは新年早々不吉の知らせかと内心穏やかでいられないでいると、上機嫌なようすで中宮がこう言った。
「帝、ご覧ください。あのような豪胆な白馬はなかなかいませんよ。
大量の絹を一瞬でくずにしても、平気な顔をしている部類の馬ですね」
穏やかに笑う中宮に、帝もいつものようにころころと笑って言う。
「いやはやほんとうに。今年の白馬は豪胆な上にかわいらしいです」
それでいいんだ。と思いつつも、帝も中宮も機嫌を損ねなかったので、とりあえずのところ、摩利の蔵人はほっと胸をなで下ろす。
ちらりと新の蔵人の方を見ると、気の抜けたような顔をしていて、帝の怒りを買わなかったことに安心しているのだろう。
蔵人ふたりの気も知らず、帝と中宮は今もなお地面に転がって草を食べている白馬を見ながら話を弾ませる。
「今年の白馬はぜひとも奉納しなくてはいけませんね。
あんなにたくましくもかわいらしい白馬を、人の手の元に残しておくのはもったいない」
「ええ、そうですとも。
あの白馬はきっと神仏もお気に召すでしょう。かわいらしいですから」
むしろ奉納された神仏も手を焼くのでは? と摩利の蔵人は思ったけれども、帝と中宮がそう思っているのであればそれでいいのだろう。白馬を立たせようと奮闘している神祇官には悪いけれども。
そうこうしているうちに神祇官もなんとか白馬を立たせることに成功し、烏帽子を狙う白馬から烏帽子を死守しつつ退出していく。
その後の儀式も一通り済ませていったけれども、その間摩利の蔵人は、あの神祇官が気がかりでならなかった。
白馬節会が一通り終わって帝と中宮も仲良く奥に戻り、摩利の蔵人と新の蔵人が一息ついていると、先ほど白馬を引いていた神祇官が、顔面蒼白といったようすでふらふらとやってきた。
「樹良殿、どうなさいました?」
摩利の蔵人が神祇官の名を呼びそう訊ねると、樹良は震える声でこう言う。
「も……申し訳ありません……大事な白馬節会であのような失態を……」
まあ、あんなことになったら当の神祇官はこうなるのも仕方ない。
樹良がほんとうに気に病んでいるようなので、摩利の蔵人は慰めるように言う。
「たしかに驚きはしましたが、あの白馬を帝と中宮はたいそうお気に召したようすでした」
「なんで?」
「あの……草を食べるようすがかわいらしいと」
もうわけがわからないといった顔をする樹良に、新の蔵人が続けて言う。
「そういうわけですので、特におとがめはありませんのでご安心ください」
これでようやく、樹良は気の抜けたような大きなため息をついて肩の力を抜いた。
「ああ~、よかった~」
樹良の言葉に摩利の蔵人も新の蔵人も同意しかない。
しかしそれはそれとして、樹世にはまだ懸念がありそうだ。
「帝がお気に召したのは良いけど、新年早々あんな珍妙な白馬を選んでしまうなんて、不吉なことかもしれない……」
しおしおとそう言う樹良に、摩利の蔵人は安心させようとこんなことを口にする。
「もし不安なようでしたら、陰陽師に占わせれば……」
そこまで言ったところで、横から新の蔵人の手が伸びてきて口を塞がれる。
それで、摩利の蔵人ははっとする。蔵人は普段両方に出入りして普通に話しているので忘れがちだけれども、神祇官と陰陽師、お互いにお互いが気に入らないという空気が実はあるのだ。
現に、陰陽師に頼れと言われた樹良は明らかに渋い、不満そうな顔をしている。
しまった、うっかりやらかしたと摩利の蔵人は思う。
普段は人の機微が読めない妹の百合の女房の心配をしているのに、その心配をしている摩利の蔵人自身も、実は機微を読むのが苦手なのだ。
怒らせてしまったかと戦々恐々としていると、樹良は先ほどの蒼白な顔はどこへやら、すねたような顔をしてこう言った。
「神事のことは神祇官の生業ですからね。
今回の白馬のことは神祇官で占います」
それから、つんと顔を背けてから戻っていってしまった。
静かになった詰め所の中で、新の蔵人が摩利の蔵人の方を見て大きなため息をつく。
「またやらかしましたね」
「はい……」
帝の前ではそつなくこなせても、裏方ではこういったやらかしをたびたびやってしまう摩利の蔵人に、新の蔵人が釘を刺すように言う。
「摩利の蔵人も、もっと人の機微を読めるようにならないといけませんよ。
蔵人頭だからというのももちろんありますし、妹君に口を酸っぱくして注意していることをあなたができていないと説得力がありませんよ」
「はい、その通りです……」
新の蔵人の言うことは耳に痛いけれども、常に心に置いていかなくてはいけないことなのだと、摩利の蔵人は自戒する。
けれども、人の機微というのはどう読めば良いのだろうと途方に暮れてしまう。
目の前ですました顔をしている新の蔵人のように、うまく人の機微を読めるようになりたいものだと、摩利の蔵人はしみじみと思った。




