第十章 女房が書いた物語
吹く風もすっかり冷たくなった頃のこと。今日も帝と共に蔵人たちや内侍司は仕事をこなしていた。
このように肌寒くなってくると帝の体調が心配だけれども、今日の帝は体調を崩すどころか上機嫌な顔をしている。
女房が仕事終わりの時を告げに来た後、摩利の蔵人はにこりと笑って帝に問いかける。
「ところで、今日はずいぶんと気分がよろしいようですが、何かありましたか?」
すると、帝はいかにも訊いて欲しかったといわんばかりに、意気揚々と言葉を返す。
「実は、このところ中宮の機嫌がとてもいいのですよ。
それにつられて、私もついご機嫌になってしまいまして」
「なるほど、さようでございましたか」
夫婦仲よくしている報告を聞いて、摩利の蔵人はつい心が温まる。新の蔵人と内侍司も表情が柔らかくなっているので、同じ心持ちだろう。
ふと、新の蔵人が帝に訊ねる。
「中宮の機嫌がすぐれているのはよろこばしいことですね。
もしかして、帝はこのところ、悪い癖を出しておられないのでしょうか」
その言葉に、帝はきょとんとして返す。
「悪い癖というのはなんでしょう?
そんなに迷惑をかけるような癖が私に……?」
新の蔵人が言っているのは帝の女癖の悪さのことなのだけれども、どうやら帝にはその自覚が無いようだ。
女癖のことについては触れないよう、摩利の蔵人がそっと話題を変える。
「それにしても、中宮のご機嫌の理由は気になりますね。
帝はなぜ中宮がご機嫌なのか、ご存じでしょうか」
これもまた訊いて欲しいところだったのだろう。帝はにこにこと笑って話をする。
「実は、最近入ってきた女房がとても面白い物語を書いているのですよ。
中宮はそれをいたく気に入ったようで、読み返すたびにご機嫌なんです。
はやく続きを書くようにと、その女房にたくさんの紙を贈ったりもしていますね」
紙などという高級品をたくさん贈るほど、中宮はその女房のことを気に入っているのかと摩利の蔵人は思わず驚く。
それと同時に、ある女房のことが頭に浮かんだ。
「物語を書くとなりますと、椿の中将の妻、石蕗の君の物語もおもしろいと評判ですが」
摩利の蔵人のその言葉に、帝はころころと笑って返す。
「もちろん、石蕗の物語もすばらしいものです。
なんでも、その女房は石蕗が書いた物語に憧れて、自分も書きはじめたのだとか」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか」
この話を聞いて興味を持ったのか、内侍司がいささか身を乗り出して帝に訊ねる。
「その女房が書いている物語というのはどういったものでしょうか。
帝もご存じでしたら、ぜひお聞かせ願いたいです」
すると、帝は急にしたり顔をして内侍司の言葉に返す。
「これがまた、源氏の太政大臣を元に描いた人物が主人公なのですよ。
わかりますよ。兄上は立派な方ですから」
今一瞬甘えん坊なところが出たな。と摩利の蔵人は思ったが、それは口に出さずににこりと笑う。
いかにも気になるといった風の内侍司に、帝はやさしく微笑んでこう言う。
「もし気になるのでしたら、中宮から借りてきて読んであげましょうか?」
それを聞いた内侍司は平伏して、恐れ多いと言いながらも、お願いしますとも言っている。
摩利の蔵人と新の蔵人の方にも期待を込めた視線を送る帝を見て、摩利の蔵人も平伏して言う。
「そのような僥倖、断ることの方が恐れ多いです。
是非ともお聞かせ願えませんか」
新の蔵人も平伏して言う。
「もし帝が望むのであれば、源氏の太政大臣もお呼びして、一緒に拝聴するのはいかがでしょう」
その言葉に、帝はぱっと顔を明るくしてはしゃぐ。
「いいですね。兄上も呼びましょう。
兄上はまだ、あの物語を知らないはずですから、きっと驚きます」
すっかりご機嫌になった帝は、内侍司に女房を呼ばせ、中宮の元から物語を持ってくるように言いつけ、摩利の蔵人には源氏の太政大臣を呼んでくるようにと言いつける。
摩利の蔵人はすぐさまに源氏の太政大臣を探しに宮中を歩き回り、執務を終えてうとうとしている源氏の太政大臣を見つけ出した。
「太政大臣、帝がお呼びです」
摩利の蔵人が声をかけると、源氏の太政大臣はぱちりと目を覚ましてすぐさまに立ち上がる。
「すぐさまにはせ参じましょう。
今日はどのようなことをなさるおつもりか知っていますか?」
廊下を歩きながら訊ねられた問いに、摩利の蔵人は簡単に事情を話す。
すると、源氏の太政大臣はすこしだけ照れたようすを見せた。
「いや、私を元にした物語をみんなと一緒に聞かせたいだなんて、帝もなんというか……うん……」
帝が自分のことを自慢したいのだというのを察したのか、源氏の太政大臣は照れながらもまんざらではない顔をしている。
相変わらす仲の良い兄弟だなと思いながら、帝の元へと戻る。
几帳をそっとめくりあげ、まずは源氏の太政大臣に入ってもらう。続いて摩利の蔵人も中に入った。
中に入ると、帝の手元にはすでに巻物があって、あれが噂の物語かと察する。
「兄上、よくおいでくださいました。
摩利の蔵人から話は聞いていますよね?」
すっかりはしゃいでいる帝に、源氏の太政大臣は頭を下げて返す。
「はい、私を元にした物語を帝自らお読みいただけると伺っております」
「それなら話は早いです。
では、早速読みましょうか」
いかにも早く聞かせたいといったようすの帝が巻物を開き、物語を読み上げていく。
はじめは主人公の悲劇的な生い立ちが語られていて、みな興味深く聞いていたけれども、話を追うにつれ、主人公が巻き起こす色恋沙汰の話になっていく。
物語を聞いている途中で、摩利の蔵人は思う。実物とだいぶ違うな。これじゃないな。
けれども物語を読み上げる帝が楽しそうなので、口を挟むことはできない。
帝がひとしきり物語を読み終え、期待に満ちた顔でその場のみなを見る。
「どうでした? おもしろい物語でしょう」
その言葉に、摩利の蔵人と内侍司は曖昧な笑みを浮かべる。
「たしかに、おもしろい物語でございました」
「石蕗にも負けない腕前でございます」
ふたりの言葉を受けて、帝はぱっと源氏の太政大臣の方を見る。すると、源氏の太政大臣は笑顔とも戸惑いともとれる表情でこう言った。
「あの、たしかにおもしろいのですが、私のどこをどう見たらああなるのですか……?」
その言葉に、帝はきょとんとしてから不思議そうにつぶやく。
「たしかに。兄上は身持ちの堅い方ですからね」
不思議そうにしている兄弟に、新の蔵人がにっこりと笑って言う。
「帝と源氏の太政大臣を足して割るとおおむねああなりますね」
その言葉に、摩利の蔵人と内侍司はひどく納得したけれども、帝はきょとんとしているし、源氏の太政大臣は苦笑いをしている。
ふと、帝が源氏の太政大臣に訊ねる。
「ところで兄上、あの物語の主人公のように、兄上も花散里以外の妻を娶ったりはしないのですか?」
純粋な疑問を向けられて、源氏の太政大臣は顔を赤くして声を強める。
「私には、花散里以外の女を妻にすることなど考えられません!」
「そうなのですか? 私は妻は多ければ多いほどいいと思うのですが」
いかにも不思議そうな帝の言葉に、源氏の太政大臣は、帝はもう少し自重するようにとすこしだけ厳しい声で言う。
そのようすを見ていた摩利の蔵人は、ほんとうにこのふたりは足して割ったらちょうど良いのになと思う。
源氏の太政大臣に諫められてしゅんとしてしまった帝に、内侍司が話題を変えようと話しかける。
「ところで、あのすばらしい物語を書いた女房というのは誰でしょうか。
新入りとのことでしたので、私も挨拶をしたいのですが」
内侍司の言葉に、帝はにこりと笑って返す。
「その女房ですか?
たしか名前は……」
不思議なことに、摩利の蔵人には女房の名を聞き取れなかった。




