秋葉原神宮寺で戦国乱世美少女受肉お●さんと 第1話 戦乱美肉お●さんとボンズミートボール
「ムチッとして少し毛深そう♡ 胸はミスター=オリンピアよりは小さいよりで、パッと見はチョロそうなんだけど、鎖骨を鉤に吊るして屈服させるときは睨みつけてくるタイプの武蔵坊を見つけてくるがいい」
「滅亡しそうに濃ゆい衆道ぶつけてくるなあ……」
二年前、小笠丘陵の南西に港を得たわたしは、東京へ革命宗の一団を送った。目的は、東京支部建設だ。
何年も前に相良へ派遣した一団は、部ヶ谷川に庵を建て、ごく穏やかな布教・葬祭・医療・救貧活動を小規模におこなっている。それと同じことを東京でもさせる、いたってまともな宗教活動が目的である。
二〇キロメートル離れた相良とはウマを連れて徒歩で往復できるが、二〇〇キロメートル離れた東京への移住および物資の輸送には、船が必要だった。
東海道は盗賊が跋扈しており、伊豆以東の流通は、ほぼ止まっている。陸路を行くとなると、敵対した大手盗賊団が関所だらけにしている駿河を通ることすら難しい。海路ならば、一五トン級の船に乗って東京湾まで数日。素人を連れても行ける。
この派遣団には、関東人が聞いたこともない新興宗派を受け入れさせるために、征服地域で生き残っていた秋葉神社の社家も同行させた。
荘園も座銭も失い、貧窮し佐野郡で反革命分子として監視されながら暮らしていた彼らは、喜んで東京赴任に応じた。秋葉神社は日本各地に一〇〇も分社があるらしく、辺鄙な関東でも富裕層には知られている。
東京派遣団の報告では、江戸城から北東へ数キロメートルも離れると沼や野原ばかりだそうで、ここに神社を建て、付属の寺院を設けた。
東京の地理には疎いながらも、二〇世紀には江戸城の東隣に東京駅があり、その少し北に秋葉原駅があることは知っている。ゆえに東京支部の創建を祝い、このときは深い意図はなく、秋葉原神宮寺と名をつけた。かなり離れた位置に徳川が一六世紀の江戸城を新設したわけでなくば、そこが秋葉原であろう。
この二年間、秋葉原神宮寺の経営は順調だった。創建から一年足らずで江戸の城主・太田 道灌の招待も受けている。部ヶ谷川支部、名古屋の大須支部と同じく、佐野本部からの援助物資に頼るまでもなく信徒を増やし、黒字を出せていた。
革命宗は目玉商品をいくつも開発しているのだが、その一つに『誰であろうとも葬祭する』儀式サービスがあった。
二一世紀においては陳腐なものとなった葬式仏教は、しかし一五世紀においては庶民が心の安寧として求めている未開拓の大きな需要であることに、占領下の寺社を調査したとき、わたしは気づいた。
この時代の日本仏教は、まだ葬式で金銭なり米なりをぼったくることを主要なシノギにしていない。檀家の葬式をやることがシノギとなった江戸時代と違い、公立の仏教集団は荘園からの収益で生活し、私立の宗教家は托鉢で糊口をしのぐ。寺院の数も少なく、大和王朝が政府として機能していた時代に建てられたものか、有力者が自家のために建てたものばかりだった。
これらの官製寺院や自家寺院は、必要がないため庶民には門を開いていない。官僧は、下賤な庶民の死体になど近づくことすら嫌っている。
住人と好を通じた化俗法師が村に住み着くことはあれども、彼らの多くはモグリの僧侶にすぎず、あまり大っぴらな坊主稼業をすると「オイコラ。きさま、何宗よ?」「拙僧らの荘園で勝手をするとはいい度胸だな! スッゾコラー!」などと言われ駆逐されるか、輪廻の渦へ放りこまれてしまう。
そこで曹洞宗の血判允許状を持つ(インタビューのついでに書いてもらったものだ)革命宗が、庶民のために門を開いた寺院を建てるのだ。
目立たない小規模なものにしておいても、各支部は盛況だった。盗賊同然の足軽が弔いを求めて仲間の死体を担ぎこむ、この暗澹たる未開の乱世にあって銭儲けをすることは、かくもたやすい。
そして当然ながら、わたしの真の目的は銭儲けなどではない。
徳川以前の江戸城主にして、関東のザコ武将・上杉ナンタラに殺された男、太田 道灌。
彼の観察が、江戸城の近くに東京支部を開設した真の目的だった。
戦国時代になどさしたる興味はなかったわたしが名前と住所、さらに死の状況を知っている一五世紀の日本人となると、太田 道灌しかいない。
この世界にも江戸城があり、太田 道灌と名乗る人物が住んでいた。そして歴史として記録された太田 道灌は、正確な年月日は憶えていないが、遠からず死ぬ。ここでも死ぬかは確認しておく価値のある事象だった。彼は、この世界を解析するために有効な指標個体なのだ。
「太田からは、他になにかあったかな?」
「懸案事項に関わることは、なにも」
簒奪ビーフに合掌して念仏を唱え終わった四郎丞が答えた。
「他には、堀越の公方が後継ぎを幽閉した、との知らせのみにござりました」
「堀越? ……ああ、熱海温泉のザコか」
わたしは杯を置き、燻製に仕上げた簒奪ビーフを賞味した。肉質と香味は、それなりになっている。
現世浄土名物の一つ、簒奪ビーフは肥育した子ウシの肉だ。
実験場の試験牧場では、機械化以前の農業に最も有用な家畜である、ウシを繁殖させている。その余剰分の雄を食用にしたものだった。
実験場に収容棟や氷室やレンガ窯や水車や水力製粉機や浄水渠や溶鉱炉を作った一年目と二年目、奴隷として働かせた僧侶階級の者が多く死んだ。彼らは肉を膾にされ、骨を粉にされ、家畜の餌として最後まで役立てられた。
この迷信深き蛮族社会においては、僧侶の骨肉には霊力が宿ると信じられている。現世浄土の大建設に身命を捧げた、徳高い僧侶の霊力は、彼らを食した若ウシに残るとも信じられている。かくして簒奪ビーフは、食材というよりは薬材として信徒にあつかわれているのだった。
これを去年の新春、革命宗は太田家に贈った。
道灌は東京支部長と会談したさい、戦争に明け暮れていたにしては気前良く、革命宗に免税特権をくれた。東京支部長から「なにか返礼をしたい」との要請があり、さまざまの未確認事象を考慮した後に、わたしは贈答品を太田の一族郎党へ送ると決めた。折りしも節分の二〇日前のことだった。
簒奪ビーフ、と改めて秘密の名をつけた霊験肉、米酒、黄金の万年筆、大きく作った筆箱を贈答の進物として選び、旧暦での年末に東京へ送った。まだ掛紙に飾りつける熨斗はないらしく、代わりにモナーを直筆しておいた。当初の計画にはない行動だった。
観察対象への不必要な干渉は、実験の正確性を損なう。観察拠点を築き、太田の家臣と顔見知りにでもなってしまえば、あとは道灌が上杉に殺されるまで待てばよい。
この世界でわたしが唯一の超常存在ならば、それで正しい。
しかし、そんな楽観的な考えでは後手にまわるかもしれない非常に気になる報告が、東京支部から太田家との会談より半月前、入っていた。