殺したはずの男
大量に醤油をかけられたオムライスを見て、この男とはやっぱり結婚できないな、と綾は思っていた。彼女の気持ちなど知らない晴斗は、醤油漬けになったそのオムライスを口に運んでいる。
「辛くないの?」
綾は晴斗に訊ねた。晴斗はスプーンに一口分のオムライスを乗せて綾の方へ差し出した。
「美味しいよ。食べる?」
「いい、自分のあるから」
綾は自分の前にあるオムライスにようやく口をつけはじめた。晴斗は分かったというように、スプーンの上の物を胃袋にしまいこんだ。
今二人がいる洋食屋は、デートの時には必ず立ち寄る行きつけの店だった。二人は必ずこの店のオムライスを食べることにしていた。オムライスには何もかかっていないため、好きな調味料がかけられる。そしてテーブルの上に置かれている調味料の一つに醤油がある。晴斗がこの店を好むのにはこれらの理由があった。
普段は美味しく食べているオムライスも、今日は全く味を感じなかった。この後の計画が成功するか否かで、綾の人生が大きく動くからだ。
綾があるプロジェクトリーダーに抜擢されたのは半年程前のこと。入社以来着実に業務成績を上げ続けていた実績を聞いた社長が、直々に彼女へ任命したのである。弱冠二十五歳、入社してわずか三年でのトップの地位は社内でも異例のことだった。
プロジェクト自体は社内ではまだ小さいものだったが、それでも彼女にとってはまたとない好機である。綾はこの役職を快諾した。
その時から綾は仕事に追われることとなった。同期はおろか、自分よりも年齢や職歴が上の人物まで指揮しなければならない。 疲労は計り知れなかったが、それ以上のやりがいを感じていた彼女は決してめげなかった。
そんな綾にとって、恋人の晴斗は仕事の疲れを癒す存在としていなければならないはずだった。だが実際は仕事以上のストレスを与える癌でしかなかった。
大学時代(二人が通っていた大学は別だった)に知り合った頃、ミュージシャンを目指している、と晴斗は熱く語っていた。綾も彼の才能に惚れ込み、応援していた。
しかし、二人が大学を卒業すると状況が変わっていった。綾はキャリアウーマンとして仕事に精を出していた。彼女の日々の疲れは、卒業と同時に同棲を始めた晴斗が癒してくれた。スイーツ以外の料理にはほぼ絶対に醤油をかけるという頑固すぎるほどのこだわりに子供のような可愛らしさを感じ、カラオケで聞く透明感のある優しい歌声に大人の魅力が見えた。そして何より優しかった。綾が仕事で遅くなっても絶対に起きて出迎えてくれるし、二人の時間がなかなか取れない日が続いても文句は一切言わなかった。綾はもう彼から離れられなくなっていた。
そんな綾の状況を知ってか知らずか、晴斗も彼女への依存度を日に日に高めていった。就職活動はおろか、バイトすらしていない彼は、収入のある綾から事あるごとに金を借りていた。さらにはミュージシャンの夢もどこかへ消えたのか、バンドの練習にも行かなくなり、ここ一年は気が向かない限り外出しなくなった。もちろん外出時に必ず綾から金を借りることは忘れない。家事くらいはするのかと思えば、その様子も一切なく、綾が帰ってきたときには、食器はシンクに置いたまま、床にごみが散らかりっぱなし、ひどいときには朝に回しておいた洗濯物がタンクの中で絞られて張り付いたままになっていることもあった。
自分が晴斗を甘やかしすぎていることは綾も気づいていた。しかし疲れた自分を癒してくれている彼が離れてしまうのも怖かった。だから綾は返ってこなくても良いつもりで金を貸すし、部屋が散らかっていても多少の小言を呟きつつも自分から片付けるのだった。
けれどもリーダーとなった今ではもう限界に達していた。仕事だけでなく家庭でも、なぜ私が世話をしなければならないのか。プロジェクトリーダーに就いて三ヶ月、ついに綾は居間でテレビを見ている晴斗の傍に座って切り出した。
「ねえ、私たちもう終わりにしない?」
テレビに集中していた晴斗は文字通り跳ね上がって彼女の方へ振り向いた。
「何で? 急にどうしたの?」
「晴斗も知ってるでしょ? 私、これから仕事が大事な時なの。これ以上家のことも疎かになるかもしれない。なのに晴斗は、全く家事もしてくれない。何か晴斗も仕事してるなら分かるよ。でも晴斗はいつも家にいて、何もしないで寝てばっかりで」
言い終わらないうちに晴斗は綾に土下座の体で謝りだした。その目はいつもより輝きを持っていた。
「悪かった、ごめん。そこまで追い詰められてたのを気づけなかった僕が悪いんだ。綾が楽できるようにちゃんと家事もするよ」
「そうやってごまかそうとしてるんじゃない?」
「綾と別れるなんてできない。主夫になれって言うなら主夫になるし、働きに出ろって言うならバイトもするから。頼む、僕から離れないでほしい」
ここで綾が最後まで突き放しておけば、今の彼女に危険な賭けをさせずに済んだのかもしれない。綾は晴斗の言葉を信じることにしてしまった。
晴斗の意志が続くはずもなく、一週間と経たないうちに家事と炊事の溜まり場と化すのだった。
その後も何度か綾が叱りつけることがあったが、その度に晴斗は泣きつき、頼られた綾は今度こそはと許してしまう。そしてまた数日後には元の木阿弥となった。
結局別れられないほどに彼を愛してしまっている自分の情けなさ、仕事での疲労とストレス、晴斗への不平不満、いくつもの要因が闇鍋の如くぶちこまれて、ついに綾は正常な判断ができる能力を失くしてしまった。
仕事か恋愛か――仕事を失えば、金のない自分から彼が離れるかもしれない。仮に離れなかったとしても、養えなくなればどのみち別れることになる。では恋愛を失えばどうか。彼がいなくなったからといって仕事ができなくなるわけではない。そもそも疲労の原因の一つは彼ではないか。でも果たして自分に別れられるだけの甲斐性があるだろうか――よし、自分から別れられないなら、無理にでも彼から別れられる状況、それも絶対に後々復縁できないような状況を作ればいい。
綾の晴斗殺害計画はこうして誕生した。
洋食屋を出た二人は、綾の運転で郊外へと向かっていた。晴斗が免許を持っておらず、ドライブデートでは必ず綾が運転していた。時間はもうすぐ夜の九時を指そうとしている。車内では先程のオムライスについての話になっていた。綾は晴斗の食生活を突っついた。
「晴斗は何にでも醤油かけすぎ。体壊すよ」
「分かってないなあ、日本人として生まれたからには醤油は必需品だよ」
「でも限度があるでしょ」
「美味しくなるなら何でもいいんだよ。醤油は日本人の心。醤油は料理の」
「醤油は料理の万能薬。何回聞いてると思ってんの?」
そんな他愛のない話をしながらも、綾は頭の中で今日の計画を何度も反芻していた。
彼女はこの日のために殺害予定現場に事前に足を運んでいた。その場所は街から大きく外れた片田舎、夜には農家もいなくなり、梅雨時には蛙の声色が、秋には鈴虫の音色が響くだけの閑静な田畑だった。綾は子供の頃、父親と一緒にこの場所へ虫捕りに連れていってもらったことがあった。しかももっと多くの虫を捕るために、ここから山に登ったこともある。綾が殺害場所に選んだのがこの山だった。
この山は、昔は頂上まで登ることができたのだが、今はある程度のところまで行くと『立入禁止』の看板が立っていて進むことができない。綾が下見で来た時、昼間であったにも関わらず周辺に人がいなかったため、誰にも見つかることなく山に入り、『立入禁止』区域に進むこともできた。さらに歩くと、広場と言うほどではないが、先程の道よりも幅広な場所が現れた。そこには彼女の期待通り、右手には腰掛に最適な大きめの岩があり、道の左手が急な坂になっていた。この坂は一見すると戻ってくることが不可能に見えるが、実は別の場所に階段があり、そこから行き来することができた。しかし深夜の深い闇の中でその階段を探すのは難しく、突然落とされれば気が動転して自由に動くこともできない。ましてや深い傷を負った状態では――。
気づけば夜の十一時、車は現場に到着した。
「本当にここ登るの?」
晴斗は不安そうである。綾は意に介さないように、
「大丈夫。子供の時何回も来たことあるっていったでしょ」
昔お父さんに連れられて山の展望台に行ったことがあるの。いつか晴斗と行きたいと思ってたんだけど――こう言って晴斗をデートに誘ったのはつい三日程前。仕事が忙しく、ここしばらくは外食にすら行けていなかったのをいいことに、適当な理由をつけて彼を山へ誘った。綾の思惑通り、晴斗は承諾した。
今、綾のコートの前ポケットにはナイフが一本入っている。頃合が来た時にこのナイフで一刺しするつもりだ。
懐中電灯を照らしながら歩く二人の前に、あの『立入禁止』看板が現れた。綾は悠々とその境を越えていく。
「お、おい、大丈夫かよ」
「心配しないで。昔もこうやって先に進んだの」
「へえ、なんか綾のお父さんワイルドだな」
晴斗も先を進んだ。行けば行くほど、綾の鼓動が速く大きくなっていく。予定地に着いた時には、心音が自分の耳にまで届いていた。
「ちょっと休憩しよっか」
綾は右手の岩に腰を下ろした。
「ここで? 暗いんだから登りきった方が……」
「足ちょっと痛くて。大丈夫だと思ったけど、山用の靴持ってきたらよかった」
晴斗も仕方なく休むことにしたが、岩には座らず、近くの木にもたれ掛かって腕を組み、在らぬ方を眺める姿勢になった。
チャンスは今しかない――綾はついに仕掛けた。彼女は不意に立ち上がると、晴斗へとしがみついた。
「ここなら誰も見てないし、良いよね?」
「綾、今日どうかした? いつもそんなに甘えてこないのに」
「たまには私にも甘えさせてよ、おかしい?」
「おかしくは、ないけど……」
言い終わらないうちに、綾は唇を重ねていた。晴斗もそれに答える。一瞬離れた時、晴斗は先程まで彼がもたれていた木に綾を押し付け、再び激しく彼女を求めだした。
まさに理想の形だった。綾は晴斗の腰に回していた手をナイフの入ったポケットに突っ込んだ。もちろん晴斗は気づかない。出されたナイフは彼の背中めがけて勢いよく刺さった!
あれからおよそ三年が経った。綾のプロジェクトは見事成功し、それ以来数多くの企画や運営に携わった。現在は社内でも重要なプロジェクトのリーダーに改めて抜擢され、日々奔走していた。三十歳にも満たない彼女ではあったが、数年後には部長確定ではないかと専らの評判だった。
そんな綾の姿から、彼女が恋人を殺害して山に埋めた殺人犯だと想像する者は誰もいないだろう。
綾は冬の季節が近づくとあの時の出来事をふと思い出すことがある。晴斗は恐らく即死だったのだろう――だろう、というのは、彩が刺し殺してすぐに目の前の急坂へ突き飛ばしたために息の確認をする暇がなかったためである。それくらい彩は必死だったのだ。彼女は安全な場所から降りてきて、初めて計画の最終関門の前まで到着したことを確認した。あとは時間との勝負だった。まずは事前に用意していたスコップを持ってくるために車まで戻った。晴斗にばれないように車のトランクに入れていたものだ。そしてまた死体の場所まで戻ると、うつ伏せになった死体の足元に人一人が入れるほどの大きさの穴を掘り始めた。女一人で掘るには大変な大きさだったが、彩から溢れ出るアドレナリンが、彼女の運動能力を飛躍的に高めていた。しかしそれでも時間はかかった。晴斗を埋めた頃には、周りがうっすらと明るみ始めていた。埋められた晴斗の背中には、抜くのが困難なほど深くナイフが刺さったままになっていた――そのおかげかは分からないが、彼の出血はそこまで多量ではなかった。晴斗はうつ伏せのまま埋められた。地面は極力均したが、ナイフが見えないようにせねばならず、少しだけではあるが小高い山ができてしまった。背中のナイフが、まるで死体に直接立てられた墓標のようであった。
綾は作戦を完遂した。密着した状態から背中を刺したことで、返り血を浴びることのなかった彼女は――もちろんこれも綾の計算の内である――誰にも見られることなく、市外に戻っても車外から怪しみの目を向けられることもなく、再び日常の一住人へと還っていった。
三年後の今日まで、晴斗の消息を報じるニュースは見ていない。彼の行方に関する連絡も、少なくとも綾の下には入っていない。彼女の安寧は今もなお保たれていた。
その日綾が出勤すると、普段なら早く着席しているはずの部長がいないことに気がついた。綾は自分のデスクに着いてから、隣の有紀に尋ねた。有紀は綾の大学時代からの友人であり、この会社の同期でもある。お互いに尊敬の念が厚く、綾にしてみれば、晴斗を除いて唯一頼れる存在だった。現在は綾の推薦から、彼女のチームの副リーダーを務めている。
「ねえ、今日部長いないの?」
有紀は部長のデスクを一瞥すると、納得の表情で答えた。
「ああ、ほら、今日から支社から異動してくる人がいるって話だったでしょ? うちの部に配属されるから、多分それで迎えに行ってるんじゃない?」
綾は社内掲示に張り出されていた異動報告書を思い出した。研修としてある支社から社員が一人派遣されるのであった。
「そっか、今日だったけ」
「聞くところによると私たちと同年代らしいよ」
「じゃあ同期入社とか?」
「そこまでは分かんないけどね……男の人とは聞いたけど」そう言うと有紀はニヤッとして彩の傍まで顔を近づけた。「もしタイプの男だったらアタックしてみたら?」
「何言ってんの? まだ顔も知らないのに」
綾は驚きを含んだ笑いで答えた。有紀は綾が三年前に大学時代の彼と別れたことを知っていた。長年の恋愛の末の破局ということもあったからか、有紀は時たま綾の恋愛に関してお節介を焼くようになっていた。
「だって彼と別れてもう三年でしょ? 仕事もいいけどさ、そろそろ良い出会いがあってもいいんじゃないの?」
「今は仕事が大事なの。恋愛は二の次よ」
「さすが、次期部長候補さんは言うことが違うよねえ」
「ちょっと、冷やかしは無し」
そんな他愛のない話をしていると部長が戻ってきた。ちょうど朝礼の時間でもあるため、他の社員とともに綾と有紀も起立で迎えた。
部長のすぐ後ろから、一人の男が入ってきた。爽やかな、好青年という言葉が似あう彼を見て、綾ほど衝撃を受けた社員は一人もいないだろう。窓から飛び込むように命令されれば喜んで飛び込んでしまうであろうほど、綾はこの場所から逃げ出したかった。
その男は晴斗だった。しかし晴斗は死んだはずである。彼の死は綾が目の前で見たはずである。だが、今部長の横で緊張の面持ちで立っているこの男はどう見ても晴斗その人だった。
部長は朝礼の挨拶を軽く済ませた後、早速晴斗と思われる男の紹介をした。
「今日からこの部署で一緒に働くことになった中本君です。中本君」
『中本』と呼ばれた男は「今日からお世話になります。よろしくお願いします」と、見た目に違わぬ爽やかな声音で挨拶した。綾は『中本』という名前で安堵した――晴斗の苗字は下田であるから――その一方で、中本の声が晴斗とそっくりだったことが再び不安材料となった。その不安は部長の言葉でさらに増幅した。
「中本君はおよそ三年前から○○支社で勤めてくれていました。年齢は上原さんや横井さん(それぞれ綾と有紀の苗字である)と一緒ですが、中途採用だから二人より後輩になりますね」
三年前――多少前後はあるかもしれないが、犯行時期と一致している。そのうえ自分と同じ歳。まさか息を吹き返して土の中からゾンビの如く復活したのか? だとすると背中のナイフは? そもそもあの殺され方で生き返ることが有り得るのか? 綾の脳内は朝礼どころではなかった。彼女の推察を破るとともに、さらなる絶望を与えたのは、またしても部長の言葉である。
「さて、中本君の仕事内容ですが、彼には上原さんのプロジェクトチームの一員として従事してもらうことになりました」
思わず綾は驚きの表情を見せた。誰も綾のこの表情の本当の意味に気づいていない。頷いたり「おお」という嘆息を漏らしたり、皆それぞれで納得の素振りを見せていた。
「上原さんのリーダーシップを見れば、みんなも納得でしょう。うちの部署に配属されたのも、そういったところからだと思います。上原さん、何か問題があれば?」
聞かれた綾は、「いえ、大丈夫です」と答えるので精一杯だった。
中本を歓迎する拍手で包まれる中、綾はこれからの孤独な恐怖との闘いに慄えていた。
中本陽一、というのが彼の名前だった。晴斗とは似ても似つかない名前――しかしそこ以外に晴斗と違う部分が見つからないことで、ますます『この男が晴斗なのではないか』という疑惑が膨らんでいった。
この一週間、綾は陽一に注意を払いっぱなしになっていた。表向きには仕事上の理由もあったし、他のチームメンバーからしても、新参の陽一に綾が気を配らないといけないのは当然のことと理解されていた。だがその本当の理由は、『この男が晴斗なのではないか』という疑惑を確定できるか払拭できるかする証拠や行動を残しはしないかと期待してのことだった。休憩時間やプロジェクト外での仕事の最中の陽一を見かける度に、綾は足を止め、数十秒もの間彼の様子を眺めるようになった。
これを有紀は、恋する乙女の熱視線と解釈したのだろう。ある朝いつものお節介ぶりを発揮して、今日の休憩時間に陽一と三人で昼食を取ることを提案してきた。綾はこの誘いを断ろうと思ったが、もしかするとあの疑惑を解決できるかもしれないという期待感から、考え直して一緒に食事をすることにした。
二人で陽一に確認を取ると、彼は快く了承した。
「気を遣わなくていいのよ」
と綾が一応の遠慮を見せると、
「いえ、気は遣ってないですよ。むしろチームのツートップに誘っていただけて光栄です」
陽一は優しく微笑んだ。綾は彼の優しさからまた晴斗の面影を見た。そして「そうだ、自分はあの優しさに付け込まれたんだな」と怒りとも呆れともつかない一種の寂寥に似た気持ちになった。
昼食は有紀のおかげもあって和やかに進んだ。社員食堂の一角で、他の社員たちから少し離れた席に座っていた。四人掛けのテーブルで、綾の横に有紀が、綾の真向かいに陽一が座った。
場の和やかさに反して、綾の心情は夜の墓地の空気のよう冷え切っていた。彼の出身大学、出身高校、学生時代の夢――聞くこと全てが晴斗との共通点――いや、共通点などという生易しいものではない。もしこの世界に晴斗の伝記でもあるのなら、その伝記をそのまま暗記して話しているのではないかというくらい、陽一は晴斗と同じ人生を歩んでいた。
ところが、それ以上に綾を戦慄させる光景が目の前に広がっていたのである。陽一は唐揚げ定食を食べていたのだが、その唐揚げには、大量の醤油がかけられていた。そこまでかければ醤油の味しかしないのではないかという量だった。
有紀もその唐揚げに気づいたらしい。彼女は驚いたように陽一に尋ねた。
「ちょっと中本君さあ、そんなに醤油かけて大丈夫? 辛くないの?」
「大丈夫ですよ。醤油好きなんで何にでもかけます」
醤油の海に浸された唐揚げを凝視していた綾は、陽一の返答で顔を上げた。
有紀は呆れたように続けた。
「何にでもって……唐揚げに醤油はおかしいでしょ? 普通マヨネーズとか塩とかつけるもんじゃない?」
「横井さん、分かってないですよ。醤油は日本人の心ですよ。醤油は料理の万能薬なんです。」
「きゃあ!」
突然、綾は叫んで立ち上がった。あまりの勢いに、テーブルが大きく揺れ、彩の飲んでいた水が零れてしまった。周りにいたほかの社員たちは彼女たちに視線を向けた。
「ちょっと綾、どうしたの?」
有紀は驚きながらも、辺りを見廻しながら声を落として問いかけた。陽一はテーブルの上に零れた水を自分のハンカチで拭いていた。
「ごめん、なんにでも醤油かける人、初めて聞いたから」
「だからって驚きすぎでしょ。綾ってそんなにオーバーリアクションする子だっけ?」
彩は答えながらも陽一のテーブルを拭く手元から目が離せなかった。彼のハンカチは、晴斗が好みそうな色と柄をしていた。
もし自分にそっくりな人間が学内にいれば晴斗が話題にしていたはずなのに全くしていなかったこととか、偽名を使っていることが会社にばれていないことの違和感とか、そういった少し考えれば気付きそうな疑問点――それこそ陽一と知り合った頃の綾ならすでに気付いていたであろう疑問点を、綾はかなぐり捨てた。『醤油は料理の万能薬』という言葉が彼女の思考を、陽一=晴斗、という数式を証明づける最大の条件として成り立たせてしまった。彼女の三十年近い人生の中で、醤油を万能薬としてたとえた人物はいなかった。晴斗一人を除いて。しかし今彼女の前に、第二の万能薬論者が現れた。これがただの論者ではなく、第一の論者と何もかもが瓜二つという奇妙な一致を伴って。
晴斗の目的は何なのだろうか。綾への復讐? 綾との復縁? いずれにしろ綾にとって不都合なことには変わりない。綾はできる限り陽一から距離を取るようにした。仕事中も最低限の会話にとどめ、プライベートでの関わりも持たないようにした。
しかし周囲の反応は綾の対極にあった。彼女のよそよそしい態度が、逆に陽一のことを意識しているのではないかと思わせたのである。皆が皆、美男美女のじれったくて甘酸っぱい恋愛という幻想を抱き、皆が皆、二人の話題になると思春期のような気分に浸ることができた。有紀もその一人だった。
「綾って中本君のことどう思ってるわけ?」
昼食中に有紀から訊かれた綾は、できるだけ平常心を保って答えた。
「どうって……別に何も思ってないけど」
「うそ、みんなも彩が中本君のこと好きだって思ってるよ」
「そんなことないよ」むしろ離れられるものなら離れたい、と言いたいくらいだったが、もちろんその言葉は飲み込んだ。「向こうも勝手にそんな噂されて、困ってるんじゃない?」
「ところがそうでもないみたいよ」有紀は少し身を乗り出して続けた。「最近の中本君ね、綾を見かけたら綾の方をずっと気にしてる風に見てんのよ。ボーっとしてるから声かけたら、びっくりして慌てててさ。中本君も綾のこと気になってるのかもね」
彼の視線は有紀が想像するような甘いものなのだろうか? どういう理由があるかは分からないが、有紀の話からし、て陽一が彩に対して何か思うところがあるのは確実だった。
「一つ、訊いてもいい?」
少しの沈黙の後、彩はゆっくりと口を開いた。
「何?」
「有紀は、中本君の気持ち、はっきりさせた方がいいと思う?」
「当たり前でしょ? 綾も中本君も、自分の気持ち伝えた方がいいよ」
有紀はあくまで恋愛事について答えたつもりである。しかし綾は、陽一との――もとい晴斗との決着をつける意味として自己解釈した。
綾の決意を見越したかのように、決着の時はその日突然現れた。それは帰社の時である。
「上原さん!」
会社を出たタイミングで誰かに声をかけられた綾は、声の方へ振り返った。その瞬間、彼女は息が数秒止まったように感じた。声の主は陽一だった。彼は駆け寄ってくると、改めて彩に語りかけた。
「今日はもうお帰りですか?」
「うん、そのつもり」
「そうですか。あの、急で悪いんですが、良かったら僕とお食事に行きませんか?」
突然の誘いに、綾は驚きと喜びを感じた。向こうから仕掛けてくるとは思っていなかった驚きと、機会を伺うことなく短期決着できるのではないかという喜びと――。
「別に良いけど、何かあった?」
「実はお話ししたいことがあって……僕の行きつけのお店でも良いですか?」
やはり陽一にも思うところがあったらしい。何かあっても問題無いように第三者を入れて話した方がいいかもしれない。しかしそうなれば、自分が晴斗へ犯した罪もばれてしまうだろう。綾は二人きりの食事に合意した。
「実は私も、中本君に聞きたいことがあったの。構わない?」
「もちろんです。じゃあ早速行きましょうか」
二人は会社の駐車場に向かった。そこにある一台の車に陽一は乗り込んだ。
「免許持ってるんだ」
綾は晴斗のことを思い出していた。
「入社してから取ったんです。やっぱり仕事しながらだと時間かかりますね」
陽一=晴斗の数式は崩れなかった。
車内の空気は――少なくとも彩が感じている分には――重かった。陽一は仕事に関する話を投げてきたが、そこから膨らむわけでもない。店に着くまで、お互いの本題は出てこなかった。
しばらくして車は目的の店に到着した。
「着きました、ここです」
降りた綾は店の外観を見て目を見開いた。思わず車内に逃げ込んでしまうところだった。その店は晴斗とともに足繫く通ったあの洋食屋だったのだ。
立ち竦んでいる綾に気づいた陽一が声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん、大丈夫」
店内もあの頃と何も変わっていない。テーブルに着くと陽一は綾にメニューを渡した。
「好きなの頼んでください。僕が誘ったんで、ごちそうします」
「私、中本君と同じのにしとく。お任せします」
「そうですか……じゃあオムライスにしましょう。ここのオムライス、ソースとかかかってないから好きな味にできるんですよ」
陽一は店員に注文した。彼は醤油をかけるつもりなのだろう、と綾は思っていた。
「ここ、僕の行きつけなんです。こっちに住んでる時に何回も通って」
「誰かと来てたの? 彼女さんとか?」
「え?」陽一は不意を突かれたような顔をした。少し口ごもってから、「そうです。正確には、元彼女ですけど」
綾の予想の範囲内である。もう少し話を広げてみることにした。
「どんな人だったの?」
「すごく優しい人でした。ミュージシャンを目指してた僕をずっと応援してくれてて、大学生の時に知り合ったんですけど、その時は文句一つ言わなかったし」
「その時は?」
「卒業したら、彼女、就職して稼ぐようになったんです。それに甘えちゃってたんでしょうね。彼女にお金があるからって怠けるようになって、同棲してたんですけど、家事も任せっぱなしでした。いつしかミュージシャンになることもどうでもよくなってて」
「ひどい彼氏さんね」
「そうですよね……ごめんなさい、こんな話して。引きましたよね」
「ううん、そんなことない」
聞けば聞くほど晴斗との生活の話であるため、むしろその共通項の多さに引いていた。
「でも、何で彼女さんとは」綾は少し言葉を詰まらせた。核心に触れていく緊張感と恐怖心が、彼女の決心を揺るがし始めている。しかし、ここでためらうわけにはいかない。綾は水を一口飲んで続けた。「そんなに優しい彼女さんなのに、何で別れちゃったの?」
「理由、ですか?」
「答えにくいこと聞いてごめんね。言いにくかったら答えなくてもいいから」
「いや、それが……」
このタイミングでオムライスが運ばれてきた。話は一旦中断された。陽一は案の定、テーブルに置かれている醤油を使い切らんとする勢いでかけまくっていた。一瞬にして卵の淡い黄色に薄い茶色が染み込まれた。
タイミングを逸した。恋人と別れた理由という、ただでさえ訊くのも憚られるような質問は、一度中断されると中々訊き返すことができない。ましてやこちらから「言いにくかったら答えなくてもいい」と言ってしまっている。だが決心した今の彼女なら、強気に出て改めて問い質すこともできたはずである。いざという時になって、彩の心理が揺らぎ始めているのだろうか?
「上原さんのお話ってそれだけですか?」
陽一からのパスで、彩は再び身を引き締めた。変に遠回りせずに、直接尋ねよう。
「話っていうのはね、あなたの正体について訊きたかったの」
「正体、ですか?」
陽一は怪訝そうな顔をしている。綾は一息吐いてリラックスしてから話を続けた。
「実は私、この店に来たことあってね」
「ここ、ご存じだったんですか」
「そう。しかも中本君と同じ。私も元彼と来たの。デートの時の昼食か夕食はいつもここだった」
「そうだったんですね。やっぱりここ美味しいですよね」
「本当に。元彼と別れてから一回も来てなかったけど、全然変わってない。あの時のことを思い出すくらい」
陽一はそれを聞くと申し訳なさそうな顔をした。綾は首を横に振って否定した。
「気にしないで、中本君を攻めてるつもりじゃないの。むしろ訊きたいことのきっかけになったから」
「このお店が関係あるんですか?」
綾は陽一の前にある茶色に染まったオムライスを指さした。
「その元彼もね、中本君みたいに何にでも醤油をかけるような人だったの。量もこれくらい。中本君に会うまで、元彼以外にそんな人がいるなんて思ってなかった」綾は肘をテーブルについて手を組み、その上に顎を乗せて陽一を見据えた。その様は地図を広げて作戦を練る軍隊長のそれだった。「あなたって、本当に中本陽一なの?」
「何が言いたいんです?」
「醤油のこと以外にもあなたと元彼の共通点が多すぎるの。共通点なんてもんじゃない。人生そのものがまるで晴斗の生き写しみたいで……」
「晴斗っていうのが彼氏さんの名前……」
「下田晴斗、これが元彼の名前。答えて、あなたの本当の名前は何? 何の目的で私に近づいたの?」
綾の表情は冷静に見えたが、内心の情熱が目の奥でぎらついていた。陽一も彼女を見つめる。長い沈黙。それを破ったのは陽一だった。急に吹き出すと、堪えきれなくなった笑い声を出した。
「ちょっと笑わないで、こっちは真剣なのに」
「ごめんなさい、急に変なこと聞かれるからびっくりしましたよ。サスペンスドラマかと思った」陽一は落ち着くために水を飲んだ。「そんなわけありませんよ。僕は中本陽一です。本当ですよ」
「本当に?」
「当たり前ですよ。冷静に考えてください、入社した時に偽名を使ったままなんて聞いたことないでしょ? それに僕は免許をっ持ってるんです。名前の変えようがありませんよ。ほら、これが免許です」
陽一が取り出した免許には、はっきりと『中本陽一』の名前が書かれていた。生年月日は晴斗と同じだったが。
「じゃあ、あなたの人生も趣味も嗜好も性格も、晴斗とそのままだったのは、全部偶然?」
「分かりませんけど、そういうことでしょうね」
綾の疲れがここにきて一気に来た。陽一の言う通りだ。もう少し冷静になっていれば、いくら偶然過ぎる偶然が重なったからと言って、日常に支障をきたすような偽名を使うなどとは考えにくい。何か過去にしこりのある人間は、悪い変な方向へ想像を働かせてしまうのだろうか。
「偶然か……全部私の考え過ぎ……?」
「上原さんならもう少し冷静になれそうなのに」
「本当ね、何考えてるんだろ。気分悪くしちゃってない?」
「大丈夫です、びっくりはしましたけどね」
綾はそれからオムライスをかなりのスピードで食べた。肩の荷が降りて身が軽くなる、という体である。
食べきってから、綾は陽一に確認してみた。
「さて、私はさっきので話したいことは全部喋ったつもりよ。あとは中本君の方。むしろそっちが本題でしょ?」
疑問から解放されてしまうと、自分でも分かるくらいべらべらと喋れているように感じる。陽一は一体何のために綾を呼んだのだろうか?
「僕の話は大切な話なんです。だから僕が大切にしている場所でしてもいいですか?」
「ここから別の場所に行くの?」
「構いませんか?」
「良いよ。最後まで付き合ってあげる」
殺人犯は、必ず現場に戻るという。誰が言い始めたことかは分からないが、今の綾の状況はこの言葉がぴったりと当てはまる。陽一が車を走らせているこの道は、あの運命の日に走った道と同じ道、もっと言えば、進行方向すらも同じだった。
「これ、どこに向かってるの?」
思わず綾は尋ねた。
「素敵な場所です。楽しみにしといてください」
車は街を外れて段々と人家がまばらになっていく。間違いない、あそこに向かっているのだ。
「本当にこんな場所に何かあるの?」
この辺りのことを知らないというアピールのために、綾は何度も質問した。
「ありますよ。もうすぐなんだけど……あ、ここここ」
周りは田畑だらけで家もない、冬の夜は閑静を通り越して無音ともいうべき場所である。ここから山に入る入口がある。あの時と全く同じ入り口が――。
「この山の上が展望台になってるんです。行きましょう」
自分が晴斗を誘った時と同じセリフ!――本当にここに展望台があるのか? 綾は陽一を呼び止めた。
「本当にここ登るつもり?」
「大丈夫ですよ、僕の傍から離れないように」
陽一は綾を自分の隣につかせ、片手に懐中電灯を持ち、もう片方で彼女の肩を抱きしめて離れないようにした。これでもう綾が逃げることはできない。
「彼女と別れた時の話ですけどね」
突然陽一は、先程の洋食屋で中断された話を持ち出してきた。
「実はどんな理由で別れたのかとか、どういうシチュエーションで別れ話になったのか憶えてないんです。人って嫌な記憶には蓋をしてしまうらしいですけど、そうしちゃうくらい壮絶な別れ方だったんですかね」
ここでなぜ陽一はこの話を持ち出してきたのか? 彼は別れ話の記憶がないという。いくら嫌な記憶だからと言っても、そんなことが有り得るのか? 綾は嫌な予感がしてきた。一度否定されたあの疑惑が、再び首を擡げ始めた。
やがて『立入禁止』看板が現れた。あの時の綾のように、陽一も悠々と越えていく。
「ちょっと、立入禁止って……」
「心配いりません、管理人が整備を面倒くさがってるだけで、登る分には問題ありませんから」
陽一の歩みは止まらない。肩を持つ力は強くなっていく。綾を守るためか、それとも逃がさないためか――。
そして、懐中電灯の照らす先に、左手に急坂、右手に腰掛岩のある広い道が現れた。ついに殺人犯が現場へと戻ってきたのである。綾の心音が早くなる。三年前とは違う緊張で。
「ちょっと休憩しましょう」
綾は驚き確信した。陽一はやっぱり自分を殺そうとしている!
「もう一気に行きましょうよ、何時だと思ってんの」
「まだもう少し歩かないといけませんし」と言いながら陽一はスマートフォンを開いた。「夜景が綺麗に見えるにはまだ時間も早いですから」
「夜景なんていいわ、早く帰りたいの。中本君の話もまだでしょ?」
「僕の話は……展望台じゃないと意味がないんです」
綾は緊張の限界に達した。全てが陽一の――もとい晴斗の嘘にしか聞こえなかった。
「もういい加減にしてよ!」
綾が突然激昂したため、陽一は慌てた。
「ご、ごめんなさい。分かりました、一旦戻りましょうか」
「あんたの嘘なんか全部丸分かりよ! そうやって三年前の事件を思い起こさせて何しようっての!」
「何言ってるんですか? 三年前って……」
「とぼけないで! 私を殺そうとしてるんでしょ? あんたと同じように!」
綾は一人で戻ろうとした。陽一は引き留めようと近づいた。
「一人は危ない!」
「来ないで!」
綾は武器になるようなものは持っていない。素手で陽一の顔を殴るしかない。陽一は彼女から拒絶されても、綾を一人にしないように手を取ろうとした。
どれくらい二人は揉みあっていたのか。ほんの十数秒くらいだろうが、綾はその間に足下に煉瓦サイズの石を見つけた。絶命させるにはちょうど良いサイズだった。
わずか一瞬の出来事だった。綾はわざと抵抗を止めて地面に倒れた。陽一は急な事でたじろいだ。綾はその石を持つと急いで立ち上がり、彼の頭の上に振り下ろした。
声もなく、陽一は頭を押さえてふらついた。頭から血が流れている。前も周りも見えていないのだろう、後ずさりしたそのまま、坂を滑り落ちた。
二人目かどうかは分からないが、少なくとも二度目の殺人を犯した綾には、もはや冷静さの欠片もなかった。綾は階段の存在を忘れていた。彼女は陽一を殴った石を持ったまま坂を滑った。
埋めなきゃ!――綾の頭の中はそれしかない。石を持ったのもスコップ代わりにするためである。土で汚れようが擦り傷を負おうが気にしていない。とにかく今は陽一を、晴斗を埋めなければならない。
三年前と違うのは、懐中電灯を持っていないことである。綾は手探りで晴斗を埋めていた場所を探し出した。場所はすぐに見つかった。年月も経ち、形は変わってはいたが、あの小高い山が残っていたのだ。
綾は懸命に掘り始めた。もう一度ここに晴斗を埋めて、平穏な生活を取り戻さねばならない――だが彼女はもっと疑問を持つべきであった。なぜ一度埋められた人間が出てきたのに、山が残ったままになっているのか?
掘り始めてすぐに、ガッ、という何かにぶつかった音がした。綾の手が止まった。石を置いて、慎重に手で掘り進めた。
「いやあっ!」
ぶつかった物を見た瞬間、綾は絶叫した。そこには墓標のように立てられたナイフの柄――晴斗に刺さったままの、あのナイフの柄が出現したのだ。
後ろから話し声が聞こえてくる。どこかへ電話しているらしい。陽一なのは間違いない。綾は急いで懐中電灯を探し当て、声の方へ当てた。案の定陽一が電話をしていた。彼は立つ気力もなく、うつ伏せの状態で頭に手を当てて傷口を気にしている様子だった。彼は最後の力を使って助けを求めているのか?
「ダメ! 切って!」
綾は再び石を手にして陽一の頭を殴った。二度、三度、完全に絶命するまで殴り続けた。そしてスマートフォンを拾い上げて通話相手を確認した。
声を聞いた綾は、一瞬で全てを悟った。絶望の体でスマートフォンを落とすと、その場に座り込んであらぬ方を見遣った。
画面に表示されているのは『110』――通話はまだ続いている。
「もしもし、どうしました? 何かあったんですか? 今からスマートフォンの位置情報を確認して……」