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<9>霧久保部長への査問

 門脇は総務部の自席に戻ると、専務の菅崎から言われたとおり、録音をイヤホーンで聞きながら、地下室での出来事をパソコンに打ちこんだ。周りでは、忙しそうに株主総会の準備作業に追われている者たちが、ときおり、この時期に勝手なことをしていやがるというような、敵意に溢れた視線を門脇に浴びせてくる。

 株主総会は四週間後に迫っていた。取締役員の人事は株主総会で正式に決定するが、その前に取締役会で人事の内定が行われる。そのため、明日の午後、臨時の取締役会が開催されるという。しかし、例年ならばもっと早い時期に、役員人事の内定が行われている。株主への総会開催通知も、すぐに発送しなければ間に合わない時期に来ている。その遅れている理由には、さまざまな真偽のはっきりしない情報が社内で流れている。その中でも度々耳にするのが、社長の中目黒が自らの勇退時期を決めあぐねているというものだ。

 中目黒が大株主の銀行からいきなり社長としてやって来てから八年になる。中目黒が来る前のD化学の業績は、言わば乱高下で、好調な翌年には必ずと言っていいくらい赤字に転落するという有様だった。それが、銀行から社長を迎えなくてはならない最大の理由だったのだが、それにしても、数字で見る限り業績の好転は見事で、中目黒が社長就任後二年目以降は、リーマンショックの影響も最小限に止め、常に対前年増収・増益を続けている。経済誌などには、「元々高い技術力のあったD化学を、経営手腕によって開花させた中目黒」という特集記事が載るほどだった。社内では、経営手腕というよりも、単に幸運だったに過ぎないと陰口が聞こえるが、誰も中目黒に逆らえないのは、その業績から考えて致し方ないと門脇は思う。

 中目黒が勇退時期を決めあぐねているというのは、自分の後を誰に任せるのにせよ、安心できるものにしたいということだろう。

 中目黒が最も信頼しているのが専務の菅崎であるのは、日頃から総務部長の山瀬が言っていることだが、それは間違いないだろう。取締役員は副社長が二人、専務がひとりに常務が五人、それに社外取締役が二人いる。社長の下の副社長は事業本部長が兼ね、コーポレートガバナンスの担当として専務という布陣になっている。副社長が二人とも事業本部長なのは、何と言っても会社で収益を上げているのは事業部であることを考慮しているからだが、副社長は中目黒が就任以来、任期は例外なく二年で、その後は比較的大きな関連企業の社長に転出するのが常だった。それを踏襲すれば、菅崎が次期社長で問題なく進むと考えられる。しかし、二人の副社長のうち、ひとりが次期社長に意欲を示しているという噂があるのだ。二人のうち、森川という名の副社長は石油化学本部長で、こちらの方は自分は社長には向かないと公言しているのだが、もうひとりは高機能製品事業本部長とさほど大きくはないいくつかの事業本部の本部長を兼職している渋沢という男で、事業本部系の執行役員から人望があり、担ぎ上げられているらしいのだ。それに、中目黒も渋沢の能力を認めていないわけではないのだが、問題はその年齢で、渋沢は六十三だった。中目黒が六十五だからほとんど変わらないのだ。高齢の社長が二代続いては、会社のイメージが悪い。しかし、事業本部系の役員たちの意向も無視するわけにはいかない。

 役員たちを若返らせたいとも、中目黒は常々口にしているらしい。実際、今の社外を除いた取締役たちは全員五十を越えている。仮に菅崎が社長に就任すれば、全員年長の役員が社長を支えることになる。この時代に年齢は関係ないという意見もあるだろう。しかし、企業の創業家出身の若い社長ならいざしらず、お互い出世を競い合ってきた社員同士、上が自分よりはるか後輩だというのは内心面白いわけがない。それが内紛の種にならないという保証はない。

 菅崎が、社長は霧久保を取締役に入れたいらしい、と言っていたが、若い霧久保を役員に入れて、菅崎を社長になった時の、菅崎を支える布陣にしようとしているのではないか。霧久保以外にも、今の取締役より下の世代を取り入れようと考えているのかもしれない。恐らく、そんなところで中目黒は勇退次期を決めあぐねているのだ。

 それにしても、会社所有の霧久保のノートパソコンに、監物の遺書の文面が残されていたのは、どういうことなのか? その文面の保存時刻は、監物の自殺の数時間前だという。監物本人がわざわざ霧久保のノートパソコンに、遺書の文面を書きこむことはあり得ないだろう。紺野の見立てによれば、何者かが監物の死を予見し、かれの自席のパソコンに偽装した遺書を書きこむために、予めその文面を作成した。それが何らかのミスで、削除した積もりが残っていたというのだ。「死を予見し」というのは、普通に考えれば、その後に殺害するつもりだったということだ。紺野はそこまでは言っていないが、そういうことになる。もしそうであれば、霧久保のノートパソコンをその時刻に使用していた者がやったということになる。会社所有のノートパソコンは、起動時に貸与された者のパスワードが必要で、霧久保以外の者が使用していたとは考えられない。その点については、紺野の見立てはもっともなものだ。霧久保は、一週間ほど前に監物と言い争いまでしている。霧久保を疑う要素は充分にあるのだ。霧久保が殺人を犯したと断定することはできないかもしれないが、自殺に追い込むというようなこともあるのかもしれない。それについては、紺野はまったく触れていないが、いずれにしても、解明すべき疑惑であることは間違いない。警察は念入りな調査の結果、自殺と断定したとはいえ、これは警察に知らせるべきことではないのか? 専務の菅崎はそれはできないと言う。株主からの投書でもあったように、殺人事件の噂は会社の外に出つつある。さらに、警察の再調査にでもなったら、会社のダメージは計り知れない。確かに警察の調べでは、ひとりで転落したのを疑う余地はないし、その前後に他には誰もいなかったという。また、次期社長とも目されている経営の幹部としては、そんなことにはしたくないというのは自然な発想なのかもしれない。専務にそのように言われたら、そうせざるを得ないが、しかし、疑惑をそのままに終わらせるわけにはいかないだろう。

 門脇が、周囲でわざとらしいとも思えるほど騒々しく振舞っている同僚たちを無視して思いにふけっていると、いつの間にか後ろに山瀬が立っていた。

「ペーパーはできたのか?」

 門脇が頷くと、山瀬は総務部室の奥にある小会議室に向かって歩き出した。

「ドアを閉めろ」

 山瀬は、門脇が小会議室に入るや否や、語気を強めて命じた。

「専務のところに行く前に、頭の中を少し整理しておきたいんだが……」

山瀬は、門脇が差し出した、地下室でのやりとりを記録した紙に目を通しながら言った。

「セキュリティセンターの紺野は、これは殺人事件だと言っているように、おれには聞こえたが、お前はどうだ?」

「私にもそう聞こえました」

「そうだよな。そして、霧久保部長が怪しいと……」

「そうです。それに、霧久保部長と監物さんは、言い争いがあったそうです」

「言い争い?」

「研究開発部の部員から聞いたんですが、開発した技術に関する見解の相違から、日頃穏やかな監物さんが大声を挙げたことがあったそうです」

 門脇は、睦月から聞いた話を大まかに伝えた。

「そんなことがあったのか。一応、それも菅崎専務の耳に入れておく必要があるな。しかし、霧久保部長が殺人犯などという馬鹿げたことは絶対にないと思う。紺野は霧久保という男がどういう人物か知らんのだろう。おれも霧久保について何でも知っているというわけではないが、言い争い程度で殺人を犯すほど愚かではないということは、間違いない。殺人どころか、暴力に訴えるということもしない男だ。彼は物事を行う前に、すべて計算して行動に移すタイプの人間だ。D化学の諸葛亮孔明などという渾名がついたぐらいだからな」

 それについては門脇も頷きざるを得なかった。そもそも、犯罪は割りに合わない行為なのだ。ある目的のための犯罪は、それによって得られた利益以上の不利益を自分に課すことになる。多くの犯罪は結局露見するし、仮に結果的に露見しないとしてもその保証はないのだから、不安に長い間おそわれることになるからだ。ものごとを深く考える人間ならば、犯罪になること以外の手段を考えるだろう。霧久保部長ほどの人間が、そんなことをするはずはない。誰でもそう思う。だからこそ、あの若さで取締役に就任させるという社長の意向も分からずではないのだ。

「明日の取締役会では、役員人事はすんなり決まりそうもないでしょうね?」

「ああ、そうだろうな。今の話を聞いて、すべて社長がどう判断するかにかかっているが、場合によっては、すんなり決まらないどころか、社長の人事構想は白紙に戻さざるを得ないからな。役員人事を決める取締役会の直前に、こんなことになるなんて夢にも思わなかった。明日、人事を発表するとマスコミに伝えてある。今回の人事は大胆なものになるから、経済誌の記者をいつもより多く呼ぶようにと社長から命令されていたから、余計、取締役会を延期するわけにもいかん。ただでさえ、人事の内定が今年は遅れているから、延期しようものなら、社内で内紛があるんじゃないかと疑われかねん」

「今年の役員人事の内定が遅れたのは、やはり、渋沢副社長のことに加えて役員を大幅に若返らせたいという社長の意向があったからですか?」

 門脇は、先ほど思いついたことを訊いてみた。

「渋沢副社長か。お前の耳にも入っているか。確かに、事業本部の部長級以上は渋沢さんを押しているらしい。しかし、渋沢さんの実力は誰でも認めているが、菅崎専務と比べれば、会社経営という観点から見劣りする。それに、年がいっている。社長が専務を押せば、事業本部の連中も仕方がないと考えるだろう。それよりも、役員の若返りが一番の問題らしい。社長は、半分ぐらいの取締役を四十代にしたいと考えていると菅崎専務が言っていたよ。今は全員が五十以上だからな。人事の内定が遅れたのは、四十代の役員候補を選定するのに時間がかかったということだろう。専務の言うには、言葉は悪いが、みんなどんぐりの背比べで、霧久保を除いては、飛びぬけて優秀という人材が見当たらないからだということだ。三十八の霧久保部長を、思い切って取締役に入れるはその目玉らしい。だから、記者をいつもより多く呼べと言ったんだと思う」

「社長の人事構想は、現在の取締役の中でも若い菅崎専務を社長に就任させ、それを支える役員全体を若返らせ、安定させたいということなんでしょうか?」

「そうだな。社長としては、盤石な体制で次の社長にバトンを渡したい、そう考えているんだろう。だから、次期社長はもとより、取締役員も執行役員も、これで良し、と言える人事を残して引退したい、そう考えているんだと思う」

「なるほど……」

「遺書の文面が何でこんな時に出てくるのか、分からんが、まあしかし、明日、霧久保が出張から帰ってくれば疑問は解決するだろう」

 山瀬はそこまでしゃべると立ちあげった。山瀬の頭の中はいくらか整理がついたらしいが、門脇の方は混乱するばかりだった。霧久保は非常に怪しいが、そんな愚かなことをするとは思えない。果たして、霧久保の話を聞いても疑問は解決するのだろうか?


 翌日、門脇が出勤すると、株主総会の準備のために早朝から出てきている総務部の同僚が、顔を見るなり言った。

「さっき、部長が来て、十八階の役員会議室に来るようにと伝言があった。あんたも偉くなったもんだな。朝から役員会議室でお仕事とはね」

 今朝、霧久保が海外出張から戻る予定なので、社長を交えて事情を訊くと聞いていた。それがこれから始まるということなのだろう。

 門脇は、同僚の嫌味に反応している暇はないと思った。黙ったまま、総務部を後にして、エレベーターホールに向かった。

 殺人事件の噂を聞いたという株主からの投書が元で、専務と総務部長に呼ばれて以来、門脇はこの件でセキュリティセンターの地下室へも呼ばれている。門脇を呼べという指示を出しているのは、おそらく専務なのだろうが、門脇を職務上関係する社員として考えているからなのだろう。しかし、これは役員人事に関係する話なのだから、その席に必要なのは、総務部長と役員秘書室長を除けば取締役員たちだけだろう。そんな席に門脇が入るのは、言うなれば身分違いというものだ。門脇は気後れを感じながら、役員会議室の前までやってきた。

 軽くノックをしてドアを開けると、黒く磨きあげられた上質のテーブルの奥の正面に社長の中目黒が座り、少し離れた向かい合わせの右に専務、左に霧久保部長の姿があった。手前には専務からひとつ席を開けて総務部長がおり、その横にセキュリティセンター長の紺野が下を向いて座っていた。意外にも、他の取締役員も、役員秘書室長の姿もなかった。

 門脇は、霧久保がどのような顔で座っているのかと目をやったが、まっすぐ前を向き、至って平静な顔をしていた。

 正面に座っている中目黒は、それまで眠っているかのように目を閉じていたが、門脇が紺野の横に腰を下ろすなり目を開け、じろりと全員を見渡すと口を開いた。

「これで関係者全員だな。話があまりにも妙なので、副社長も含め、他の役員は呼ばなかったが、専務、これでいいか?」

「結構です。とにかく、話を広めたくないので、既に知っている者だけの方がよろしいかと思います」

「そうか、では始めてくれ」

 菅崎は背筋を伸ばし、相対して座っている霧久保を見下ろすような姿勢でゆっくりと話を始めた。

「霧久保部長、あなたに関係することで、実に奇妙なことがあります。海外出張から帰って社長に業務報告をしたばかりで、こんな話をしなければならないのは、いくらか恐縮ですが、事実関係を確認しなければなりませんのでこの場をつくりました。お疲れのところ申し訳ないが、疑問を解決するために少々時間を取らせてください」

 菅崎の口調は丁寧だが、あたかも裁判の検事のように冷厳なものだった。それに霧久保は静かに頷く。

「これはあなたの使用していたもので間違いないですか?」

 菅崎はノートパソコンをテーブルの前方に差し出した。霧久保はパソコンの側面に記入されている番号に目をやった。

「番号から考えて、会社から貸与された私のパソコンです。修理に出す前まで使用していたものですが、何か?」

「そうですか。間違いないですか。では、このような文章がなぜあなたの使用していたパソコンに存在しているのか、教えてください」

 菅崎はパソコンのキーを数回叩き、画面を霧久保に向けた。

「これは遺書のようですね。監物さんのものと思われますが、私には身覚えがありませんね。修理に出す前にはなかったものです」

 霧久保は特に表情も変えずに答えた。

「あなたの言うとおり、自殺した監物くんの遺書と文面がまったく同じものです。遺書は、他に極短い同僚に宛てたものがありましたが、こちらは母親宛に書いたものです。これはあなたが書いたものではないんですか?」

「いえ、私が書いたものではありません」

「そう断言できますか?」

「勿論です」

「そうですか。この文章は、このパソコンのプログラムファイルの中に紛れ込んでいたものです。それをF電機のエンジニアが、偶然に見つけたのです。では、なぜこのようなものが、あなたのノートパソコンにあるのか、見当がつきますか? 例えば、自殺した監物くんに一時的に貸したことがあるとか、そのようなことはなかったですか?」

「このノートパソコンを他人に貸すというようなことはしませんので、監物氏が使用したというようなことはあり得ません」

「ふーむ。最も可能性があるのは、監物くん自身が書きこんだということだと思いますが、それは絶対にないということですか。すると、やはりあなたが書いたものということになると思いますが、どうですか?」

「私がそれは書きこむことは不可能です。監物氏が、自身のパソコンに遺書を残したという話は聞いていますが、私は遺書そのものは見ていません。ですから、まったく同じ文面を書くことは不可能です」

「そうですか。ところで、四月二十六日の深夜、研究開発部の監物グループリーダーが研究開発棟から転落死した時ですが、その時、あなたは会社にいましたか?」

「あの日ですか。あの日は、前日からの書類の整理やら何やらで遅くなり、そのまま会社にいました。明け方になって、ソファーで仮眠をとっていると、外から車の音がしたので、窓から目をやるとパトカーでした。それが監物氏の自殺によるものだと知ったのは、他の社員が出勤してからです」

「会社にいたのですね?」

「ええ、いました」

「あの日、監物くんに会っていますか?」

「いいえ、あの日は私は研究開発棟に行っていませんし、彼も海外営業本部に来ていません」

 霧久保は落ち着きのある、適度に抑揚をきかせた言葉で答えた。門脇には、まるで優れた俳優の演技のようにも聞こえた。

「うーん、そうですか。あなたが書きこんだのではないとしても、こういう意見があるんですよ。ある者が、監物くんの死を予期した。予期した、とは意味深長な表現ですが、それはまあ良しとして、その者が遺書をあなたのパソコンで作成した。そして、その遺書の文面を監物くんの死の直後、彼の遺書として彼の自席のパソコンに書きこんだ。なぜそうしたかと言えば、あらかじめ文面を考えておいて、死の直後に速やかに書きこむためです。会社の同僚宛の方は簡単なものにして、頭の中で考えた。しかし、母親宛の方はもう少しリアリティをもたせるために、文章を推敲する必要があると考えた。そのために、パソコンで打ってみた。そして、それを削除するつもりが、周りの目を気にするあまり慌てたのか、過ってプログラムファイルに落としこんでしまった」

「やはりそれが、私だと?」

「いいえ、そうは言っていません。あなたがその辺のことを、何か説明できることを知っているのか、訊いているだけです」

「私は自分の使用していたパソコンに何が入っているかは、専門的なプログラムソフトは除き、すべて把握していますから、修理に出す前は、これがなかったということは断言できます。また、私は自分ノートパソコンを他人に使わせることはありませんし、自席を離れる時は必ず終了させます。パソコンの起動時には、パスワードが必要ですが、そのパスワードを他人が知ることはあり得ません。したがって、修理に出した以後、私の管理を離れた時に何らかの操作が行われて書きこまれたものだと思います。そして勿論、私にはどのような経緯で、また、どのような理由でこれが私のノートパソコン上にあるのかは分かりかねます」

 霧久保は一語一語区切るように言った。すると、菅崎は相手を睨みつけるような顔つきになり、さらに質問を続けた。

「修理に出した後に、誰かが書きこんだということですか。しかし、この文面の保存時刻は監物くんが自殺した数時間前の二十三時四十五分になっているのですが、それについては、どうですか?」

「文章の保存時刻が自殺の直前、ということですか。その時間に、確かに私はこのパソコンを使用していたと思いますが、私が書きこんだという事実はありません。それに、保存時刻を書き換えるソフトもあると聞いていますから、その時刻がまったく正しいとは言い切れないでしょう」

 菅崎はむっとした表情を浮かべ、紺野と門脇の方を向いた。

「そんなものがあるのかね?」

「まあ、あるかもしれません」

 紺野が曖昧な言い方で答えた。

「しかし、時刻を変更したとするとその痕跡が残るんじゃないか? その辺は調べなかったのか?」

「私は専門家ではないので、それについては分かりませんし、調べてもいません」

と紺野は不服そうに応じた。

「そうか、いずれにしても、変更が可能ということであれば、保存時刻には意味はないということか。ふむ、そうか、そうか。しかし、もうひとつ、修理の後に書きこまれたのではないという理由があります。監物くんの遺書を見ている人間は誰か、ということです。遺書は遺体のスーツの内ポケットにありました。それを取り出したのは警察です。その後すぐに、彼のデスクにあったパソコン内にも遺書が残されているのを発見したのも警察です。その後警察の事情聴取で、遺書のペーパーを見せられましたが、それを見たのは、その場で立ち会った、私、総務部長、それから労務担当の門脇くん、それだけだったはずです。そうだったね? 門脇くん」

「はい、そうです。遺体を発見したセキュリティセンターの菊池主任によれば、警察が調べる前に、遺体に触れた人はいないということです。その後、警察から返還された遺書は、同僚宛のものは研究開発部長に渡し、母親宛のものは私が母親に届けました」

 門脇は少し興奮ぎみにそう答えた。

「誰かがパソコンから遺書である電子データをコピーできる可能性はどうだね?」

「あり得ません。警察が発見する以前に研究開発部の部員の中で、監物氏のパソコンに触れた者がいないことは、警察が確認しています。その後は、パソコンを警察官が保護している間に、私がデータを完全に消去しました」

 門脇はそう答えながら、専務の言うとおりだと思った。遺書の文面を見た三人と警察、それから遺族、そこから流出しない限り、事故の後、今頃になってパソコンに書きこむことなどできない。この中では、遺族からの流出の可能性が考えられるが、遺族との交渉は門脇があたっている。会社の人間が接触すれば、そのような気配は門脇にはすぐに分かる。だからそれもあり得ないのだ。 

「ということは、やはり遺書の文面がこのノートパソコンに書きこまれたのは、遺書が発見される前だと考えるのが自然でしょう。監物くんのパソコンから遺書データがコピーされていない以上、修理に出した後に書きこまれたということはあり得ないのです」

 菅崎は一時興奮気味になった口調を冷静なものに戻すかのように、ゆっくりと言った。全員が霧久保の顔を見つめた。霧久保は何も答えなかった。

数秒後の沈黙の後に、菅崎は次の質問に移った。

「では、次の質問ですが、監物くんの自殺について、あれは他殺によるもだという噂が流れているようですが、聞いたことがありますか?」

「え、自殺ではないという噂が? それは驚きですね。勿論、聞いたことはありません」

「噂が流れているというのは本当だ。それに、霧久保くん、きみは監物と言い争いになったことがあるというじゃないか。殺したなどとは言わないが、自殺に追い込む原因を作ったとか、何かあるんじゃないか?」

 それまで二人のやりとりを黙って聞いていた山瀬が、専務の加勢をするように口をはさんだ。

「言い争い? ああ、あの時のことですか。確かに、ありました。しかし、よくご存じですね」

 霧久保は、なぜそんなことまで知っているのか、という目付きで山瀬を見た。

「日頃は穏便な監物が、かなりの大声を挙げたそうじゃないか。何があったんだ?」

「監物氏とは、約二年にわたり仕事をしてきました。彼は研究技術者の立場、私はその研究を売りこむ立場としてです。あれは、そのことからくる若干の見解の相違です。特別なことでなく、よくあることだと思いますが……」

 門脇が研究開発部の睦月から聞いたことと、霧久保の説明は同じだった。霧久保は、特に隠す気はないようだ。

「監物氏の自殺に関して、他殺だという噂が流れている。自殺の当日には、セキュリティに影響するシステムエラーも起きたそうです。そのような状況で、私の使用していたノートパソコンに監物氏の遺書と同じ文面が残されていた。私と監物氏は言い争いもしている。監物氏と私との間にトラブルがあって、殺害したのか、あるいは自殺に追いこんだのか、私に疑いの目が向かれている、そういうことでよろしいのでしょうか?」

 霧久保はざっと話をまとめてみせた。その物言いは、憤るというようなものではなく、冷静でどこか他人事のようだった。

「いや、確かにそういうことになるが、私たちは、そんな馬鹿げたことがあるわけはないと思っている。むしろ、霧久保くん、きみが何もしていないことを証明したいのだよ。だから、本当のところはどうなのか、それを知りたいだけなんだよ……」

 菅崎は、少し慌てような素振りを見せた。

「いずれにしても、私に疑惑が生じているということでしょうが、私と監物氏との間に大きなトラブルはなかったし、パソコンの件についても、私は何もしていないとしか申しようがありません」

 と霧久保が、なおもきっぱりとした口調で言った時、それまで無言で、時おり目を閉じて聞いていた社長の中目黒が、かっと目を大きく開けた。

「分かった。腹は決まった。ここまでだ。大事な社員がひとり死に、それにまつわり、奇怪なことがことが起きた。しかし、真相はこの場では分かりそうもない。そうではないか? 専務」

「あ、はい、確かに……」

「その辺の真相は、調べて後日報告してもらうことにしよう。そうだな、誰がいいか。そうだ、総務部長、きみが調べろ」

 山瀬が頷くと、菅崎が何か言いかけたが、すぐに押し黙った。

「専務。まだ、何か言いたいことがあるのか?」

「いえ、社長がそうおっしゃるなら、それでよろしゅうございます」

「そうか、それではこれで解散だ。専務と総務部長は私の部屋まで来てくれ」

 中目黒は立ち上がり、すたすたと会議室を後にした。これには残された全員は立ち上がり、頭を下げて社長を見送る外なかく、テーブルを挟んで顔を見合わせた。皆、一様に釈然としないといった表情だった。疑問は何も解決していないが、社長がここまでだと言うのだから致し方ない。

「腹は決まったとおっしゃいましたね。役員人事のことでしょうけど、どう決めたんでしょうね?」

 山瀬が菅崎に顔を近づけて、口を開いた。

「分からん。しかし、相変わらず社長の決断は早過ぎるぐらい早いな」

 菅崎は、言い足りないという不満が残るっているのか、不服そうに言った。

「まあ、来いというのだから、社長室に行けば分かるだろう」

 菅崎がドアに向かうと、山瀬はしぶしぶ頷き、菅崎の後に続いた。

 問題の張本人である霧久保は下を向いて、何か考えている様子だった。霧久保は、なぜ自分のパソコンに遺書の文面が存在しているのか、まったく分からないと言う。悪事が発覚した時のような動揺を見せない霧久保の表情からは、本当のようだとも思う。

「他殺だという噂があると専務がおっしゃっていましたが、私が突き落としたというような噂なのでしょうか?」

 霧久保がふと顔を上げて、門脇に訊いてきた。

「いえ、誰がというように人を特定しているわけではありません。非常階段から落ちたということから、誰にだか分からないけれども、突き落とされたのではないか、というふうになっているだけです。もちろん、警察はそれを否定していますが」

「そうですか。そういう噂が社内で流れているということですか。そんな状況で、私のパソコンにあんなものが……。困ったものですが、私にはどうすることもできませんね」

 霧久保はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、テーブルの上のノートパソコンに手を下ろした。

「で、これは私が引き続き使用してもよろしいのですか?」

「すべて正常に作動することを確認してますから、かまわないと言えば、かまいませんが……」

 と紺野が答えて、門脇の方を向いた。

「遺書の文面を消去してから、私が部長のところにお持ちしたいと思います」

 門脇がそう言ったのは、霧久保に訊いてみたいことが残っていると思ったからだった。社長が「ここまでだ」と言い、専務も総務部長も出て行った後で、門脇がここで質問を続けるわけにもいかない。しかし、パソコンを届けるついでなら、二、三質問してもそれ程おかしくはないだろう。

「分かりました」と霧久保は言って、静かに部屋を出て行った。

「霧久保部長以外に、書きこむことができる人間はいてへんと思えるんやけど……」

 霧久保がドアの外に出ると、紺野が近寄ってきて、門脇の耳元で関西弁で呟くように言った。

 門脇は黙っていた。

「といっても、本人が否定していることやし、真相は分からんということで終いやな……」

 そうかもしれない、と門脇も思った。監物の転落死と同時に起きたセキュリティーシステムのエラー、その後の妙な噂、そして今度のパソコン内の遺書の文面といい、何ひとつ真相は明らかになっていない。システムエラーは落雷のせいなのかはっきりしないし、噂は出どころは掴めない。霧久保のパソコンの問題も同じことだ。本人は何もしていない、なぜだか分からないと言う。それこそ、警察が指紋を調べるなどの本格的な捜査でもしない限り、真相は掴めないのかもしれない。

「門脇さんがパソコンを届けてくれるというのは、実にありがたい。どうも私は霧久保部長みたいに優秀な人が苦手でねー。しかし、これからもっと偉くなる人だから、なるべく接して胡麻を擂っておいた方がいいんでしょうけど」

 紺野は薄ら笑いを浮かべたが、門脇が視線をそらして固い表情のままでいた。すると紺野は「世の中、何が起こるか分かりまへんなあ。門脇はんも気いつけや」と、また関西弁の言葉を残して部屋を出て行った。


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