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<2> 役員応接室で

 コンプライアンスメール受信室を出ると、ビルの正面玄関側にあるエントランスホールに向かった。そこには四基のエレベーターがあり、その内三基は十六階止まりで、十七階以上に行くには一番奥の役員専用のものに乗らなければならない。手前のエレベーターの前には一般社員が何人も並んでいた。門脇はその社員たちの間をすり抜け、役員専用エレベーターのボタンを押した。

 エレベーターに乗り込み、扉の横の壁に手を伸ばしたが、目の前には行き先階を押すボタンがなかった。門脇が周りを見渡していると、扉が閉まり天井から女性の声が聞こえてきた。

「何階にお止めしますか?」

 自動音声装置の声だった。勿論、こんな装置は一般社員用にはない。

四十一歳になる門脇がこのエレベーターに乗るのは入社以来、三回しかなかった。ひとりで乗ったことがないので、今まで自動音声装置があることに気づかなかった。門脇が行き先階を告げると、「かしこまりました」と静かに上昇を始めたが、その動きもいやに滑らかに感じられた。

 門脇の役職名は、チームリーダーというものだった。三年前に、門脇が総務部労務担当課で課長職に推薦されたのと同時期に、D化学工業では組織改正があった。組織のスリム化という名目で、中間管理職である課長職が廃止され、それに相当する役職がチームリーダーと名づけられた。超勤手当てが無くなり管理職手当てが支給されているので管理職には違いないが、部下がいなかった。担当する仕事を率先してこなし、ついでに後輩の面倒もみるという文字どおりリーダーの役割が課されただけだった。課長昇格を心待ちにしていた妻は、それでも祝いのケーキを買って来た。妻は、お父さんはきょうからチームリーダー、偉くなったのよと、小学二年生の息子ににこやかに言った。すると息子は、踊りながら喜んだ。

「ワーイ。チームリーダーだって、僕と同じだ。僕もお父さんと同じチームリーダーなんだよー」

 妻は、息子が学校の兎飼育チームのリーダーになっていたのを忘れていたのだ。以前は兎班長と呼んでいたが、カタカナの方が聞こえが良く、チームリーダーという名称に変えたのだった。門脇は無邪気にはしゃぐ息子の姿を、エレベーターの中で思い出し苦笑した。おれはついに息子に並ばれたか。チームリーダーの上は部次長または、室長だが、ポストの数からいえば、チームリーダー五人にひとりの割合になる。おれにはこれ以上昇格するという保証はない。息子の学校では学級委員長という名称もクラスマスターに変わった。いずれ息子もその地位に就くのかもしれない。リーダーよりマスターの方が誰が聞いても上だから、おれがチームリーダー止まりだとすれば、役職名ではその内息子に抜かれることになる……。

 エレベーターを十七階で降りると、絨毯が敷かれた廊下の手前に役員秘書室があった。そこには既に女性秘書が待っていて、門脇に役員用応接室に行くよう告げた。門脇は柔らかい絨毯の毛並みを靴の底で感じながら、入社以来、未だに行ったことがない廊下の奥へと進んだ。

 役員用応接室に呼び出されるということは、総務部長の山瀬がいっしょだとしても、当然、菅崎専務の方に用があるということだ。専務は労務の責任者でもあるから、用件は門脇の日常業務に関することだろう。ということは……。門脇はあることを思い出して、思わず足が止まった。呼び出された理由はあのことに違いない。

 日常業務の中には、労働組合との交渉という労務担当者には欠かせないものがある。たとえば、会社は労働組合と労働協約を締結しなければならないが、それにあたっては、まず実務担当者同士が、概略から詳細にいたるまで十分に事前交渉を行い、最後に双方の代表者が締結文に署名捺印をするという形をとる。その実務担当者にあたるのが、会社側は労務担当で、組合側は書記長以下賃金対策部長やら、業務対策部長などといった名称の専門委員たちだった。

 D化学の労働組合は、同じ産業の組合間でも穏健で物わかりの良いことで知られていた。門脇はほとんどの組合の幹部たちとはうまくわたりあい、交渉もスムーズに運んでいた。しかし、この四月に組合幹部の改選があり、地方組織から中央本部に上がって来た新書記長とは、初めからそりが合わなかった。門脇より五つほど若いこの書記長は、労使は対等だというのが口癖で、組合幹部の自分は会社の経営幹部と対等なのだから、労務担当の社員など相手にしないといわんばかりの態度を門脇にとっていた。組合委員長は社長に、書記長は総務担当役員に相当するというわけだ。

 三日前、超勤手当に関する労働協約の部分改定のための事前説明の席上だった。書記長がいささか無理な要望を出し、門脇が「そんなことはちょっと……」と口ごもった言い方をしたとたん、相手は机を叩いて席を立った。

「そんなこととは何だ。組合側が真剣に考えていることにそんなこととは何だ。大体あんたの説明では会社の誠意が伝わってこない。もっと上の役職者が出てこない限り、おれは話を聞かんぞ」

 門脇には分かっていた。この席には組合側に書記長と三人の事務局員、その他に書記長の出身地方組織の役員が四人オブザーバーとして入っていた。この四人は休暇を取って東京見物に来ていたのを、わざわざ書記長が勉強のために見ていけと呼んだのだった。要するに、おれは偉くなったのだというところを以前の仲間の組合員に誇示したかったのだ。

 あの男なら、担当者を替えろと総務担当役員に、つまり菅崎専務に直接訴えかねない、と門脇は思った。何しろ、書記長という役職は総務担当役員に相当すると日頃口走っている男だ。そういう主張が組合側からなされれば、労務担当者として門脇は不適格という烙印を押されかねない。菅崎専務から呼び出されたのは、このことに違いない。どういう態度で組合幹部に接しているのだと、重役から詰問されるのだ。門脇は、いつも正面を向かずに横目で相手を見つめる癖のある書記長の顔を思い出し、「あの野郎」とつい口走ってしまった。

 重厚な扉のついた応接室はすぐそこだったが、足が進まなかった。門脇は詰問に対する自分なりの言い訳を考えるために、ひとりトイレの個室にでもこもる時間が欲しかった。出直して来ようかとも思い、後ろを振り返ると、廊下の向こうに先ほどの女性秘書がこっちを見ていた。戻るわけにはいかない。門脇の口走った声が聞こえたのかもしれない。

 仕方なく応接室の前まで行き、ノックして重いドアを押し開けると、部長と菅崎専務が隣り合って座り、門脇に目もくれずに何やら低い声で話し合っていた。門脇の後の新しい労務担当者の人選をしているように思えた。

「まあ、座れ」

 ほどなくして、山瀬が緊張気味に立っている門脇に顔を上げた。

「はぁ」と門脇は応えて腰を下ろしたが、ソファーのあまりの柔らかさに腰が沈み、危うく身体がのけぞりそうになった。門脇が慌てて座りなおすと、菅崎が静かに口を開いた。

「門脇くんだったね。忙しいところ、十七階まで来てもらって済まない」

 その声と物腰は意外にも詰問調とは遠く、柔らかかった。呼び出されたのは書記長の話しではないのかもしれない、と門脇は思った。

「いえ、とんでもありません」

 門脇がおどおどと下を向いていると、山瀬がさっそく用件を切り出した。

「きみを呼んだのは、実はね、先日自殺した社員の件なんだが……」

「ええーっ?」

 門脇はつい大声をあげた。呼び出されたのが監物のことだとは思わなかった。門脇は組合書記長のことで頭がいっぱいになり、つい先ほどのメールの件を忘れていたのだ。大声が出たのも、詰問されるわけではなさそうなので気持ちが緩んだせいだ。

「何だ、どうしたんだ?」

「はあ、実は今朝」

「何だね?」

「コンプライアンス事務局宛に、監物くんは殺されたのだというメールが。いえ、正確に言うとそういう噂があるというメールがありまして……」

「何っ」

 と今度は山瀬と菅崎が同時に大声をあげた。

「そんな馬鹿げた噂があるとは思えないのですが、こ、これです」

 門脇はふたりの顔を上目づかいで見ながら、コンプライアンスメール受信室で印刷したメールをテーブルの上に置いた。先に菅崎がメールを一瞥し、その後で山瀬が懐から老眼鏡を取り出し、しげしげと見つめた。そのしぐさは、門脇にはやけに年寄りじみて見えた。門脇は、用件が自分の仕事の失態を責められることとは別のことだと分かり、目の前のふたりを観察する余裕ができた。部長の山瀬は専務の菅崎より年長で、二人並んでいると年の差が際立って見える。だが考えてみれば、五十代半ばの山瀬が部長として特別に高齢というわけではなかった。他にもの同年齢の部長職は何人もいる。山瀬が高齢というよりも、専務の菅崎の方が若いのだ。

 菅崎進は、四十三歳というD化学工業始まって以来の異例の若さで取締役に抜擢された。理由はD化学の社員なら知らない者はいないだろう。菅崎は営業職についていた若手社員の頃から成績は常にトップクラスで、部長職に昇進したのも同期の誰よりも早かったという。部長昇進後も、担当した部門の業績はすべて好転させた。石油化学事業グループのフィルム事業部長の時には、それまで十数年赤字続きで、撤退を余儀なくされつつあったものを単年度で黒字化した。それは菅崎マジックと呼ばれたほどだ。

 どんなやり方をすればそのようなことが可能なのか、門脇には見当もつかなかった。単にラッキーなだけだと妬む者も多かったが、経営トップがその手腕を見逃すはずはなかった。現社長の中目黒雄二は、八年前の、菅崎の部長昇進とほぼ同時期に大株主である銀行からやって来た。中目黒が社長に就任する以前のD化学の業績は、好不調を著しく繰り返していたが、中目黒の代になって安定した高成長を続けている。この高成長に、少なからず菅崎が貢献したと考えるのは当然ともいえる。社長の中目黒の強い引きで常務取締役を兼ねる事業本部長に、そしてすぐにコーポレートガバナンス総括担当の専務取締役に任用され、その後三年が過ぎ、いずれ社長にまで昇るのは確実だというのが、門脇に限らず、ほとんどの社員が予想していることだった。

「このメールを読むと、先ほどの投書も納得がいきますね」

 と山瀬が老眼鏡をはずしながら、菅崎専務に向かって言った。

「うーむ。今度は社内で噂を聴いたということだからな」

 菅崎が答えた。

「はあっ? どういうことでしょう?」

 門脇は意味が分からなかった。

「実はな、同じような投書が届いているんだよ」

 けげんな眼差しの門脇に山瀬が言った。

「これと同様に殺人事件の噂があるというメールがですか?」

「メールではなく、封書で郵送されてきたんだが、……」

 と山瀬は言いながら、菅崎の方に視線をやった。

「見せてもかまわんよ」

 という菅崎の言葉を得て、山瀬はテーブルの上のメールの横に、封筒と一枚の便箋を置いた。宛名は社長、差出人は一株主となっていて匿名だった。便箋にはペン習字のお手本のような達筆な文字がびっしりと並んでいた。門脇は投書を手に取った。

《私は貴社の一株主ですが、ごく最近、株主として看過できないことがありましたので、ひとことご注意申し上げるべく筆をとりました。先日、仕事帰りに居酒屋でひとり杯を傾けている時、近くの席から信じがたい話が漏れ聞こえてきたのです。何んと、会社の中で、殺人事件があったにもかかわらず、それが自殺として処理されたという話が聞こえてきたのです。自分の耳を疑いながらも、声のする方向を見ると、四人組のサラリーマン風の男が、まるでミステリィドラマのような話をしていました。ひそひそ話をしているのですが、酒のせいか、時々大きな声になってしまうという具合でした。突き落とされたんじゃないか、という言葉が今も耳に残っています。私は目を細め、この男たちを凝視しました。すると、四人とも背広の襟に同じバッジをつけていました。DにCの文字が斜めに重なったマークです。私にはそれに見覚えがありました。D化学工業の社章にまちがいありません。なぜなら私は長年にわたる株主ですから、貴社の広報誌やホームページに載っている社章は見慣れているのです。七、八年前から、貴社の業績はそれまでの長期にわたる低迷から一転して好調に推移し、それに伴って株価も上昇を続け、今年には上場以来の最高値を記録しました。しかし、このようなとんでもない話が世間に知れ渡ったら、どうなるでしょう。実際に殺人事件があったなどと私も思いませんし、誰もそうは考えないでしょう。しかし、世間は面白半分に噂話をしたがるものです。社内で殺人事件が会ったなどという噂がマスコミにでも出たら、会社の評判を傷つけ、株価は転がるように下がってしまうのではないでしょうか。一株主として、心配でなりません。是非、善処されたく、お願い申しあげます》

 門脇は、総務部長の山瀬が「先ほどの投書も納得がいきますね」と言った意味が分かった。コンプライアンス委員会へのメールは、門脇が考えたような単なるいたずらではなかったのだ。社内で殺人事件という噂が流れているというメールがあり、その噂話をD化学の社員が酒席でしていたという株主からの投書が届いた。メールには「先日、飛び降り自殺した社員」、投書には「突き落とされた」という言葉が入っている。両方とも監物秀明の転落事件に関することで、二つは符合している。

「社長宛の郵便物全部に目を通すのは総務部長の私の役目だ。その中の特に匿名の投書には、嫌がらせや単なる勘違いのものも少なくない。だから、全部の郵便物を社長にお見せするわけにはいかない。この投書の場合も、社章を他の会社のものと見間違えたという可能性もあるとは思って、専務のご意見を伺っていたところだ。しかし、同じ内容の社内メールが届いたからには、間違いなくわが社のことだ」

山瀬が溜息混じりに言った。

「そういうことだね」

 と、菅崎が相槌をうち、門脇の方に視線を向けた。

「きみは労災の担当者だったね? 事故の事務処理担当者のきみなら噂を聞いたことがあるんじゃないかと思ってここに呼んだんだが、どうだね? 聞いたことはあるかね?」

「いえ、私はまったく初耳です」

「そうか、きみでも聞いたことはないのか。勿論、山瀬さんも私もこんな噂があるとは夢にも思っていなかった。我々の見聞きできないところで、社員たちは困った噂話に興じているということだね」

 と言う菅崎の口調は、門脇に初めに話しかけた時と変わらず、穏やかなものだった。門脇がコンプライアンス委員会宛てにもメールが来ていることを告げた時には、さすがに大声をあげたが、それ以外は表情も変えない。門脇にはそれが、並はずれたスピードで出世する男の鷹揚さだと感じられた。

「飛び降り自殺をした研究員、つまり監物秀明が何者かに殺されたという噂が社内で流れているということは間違いない。ということは、警察も自殺と断定した事故を、殺人だなどと吹聴している社員がいるということになる。なぜ、何の根拠でそんなことを言いふらすのか、できれば、直接そのけしからん社員に問い質したい。その糸口として、メールの送信者に会って話を訊きたいんだが、アドレスから送信者は分からんのか?」

 と、山瀬が憤りを隠せない表情で門脇に訊いた。

「いえ、それが分かりません。このアドレスには、人物を特定できる要素がまったく含まれていません。というのは……」

「分かった。おまえが分からんというなら、分からんのだろう」

日頃からITが苦手な山瀬は、門脇が説明しようとするのを遮った。

「投書をしてきた株主にも勿論、話は聞けない。社内の噂を調べるからといって、組織だって調査をするわけにもいかん。各部長を呼んで、こんな噂があるようだがと尋ねれば、かえって噂を広めることになってしまう。それに、来月には株主総会も控えている。そこで、噂を聞いた株主から質問でも出たら、とんでもないことになる。うーん、困ったものだ」

 山瀬は唸るような声を出し、宙を睨んで腕を組んだ。

「ところで、監物秀明くんに関係する事務処理はどこまでいっているのかね? きみを呼んだのは、その辺も訊きたかったからだ」

 菅崎が門脇におもむろに訊いた。

「そうだ、肝心の労災関係はどこまでいってるんだ? 会社は労災の認定について争わないことを決めているのだから、早く終えてしまえばいい」

 山瀬も、門脇に訊いてきた。このところ門脇は労働組合対策が忙しく、部長の山瀬に監物秀明に関する途中経過を報告していなかった。直属の上司である山瀬は、部下の仕事を把握していないと思われてはまずいと考えたのか、いくらか慌てた様子だった。

「遺族が労基署に労災の請求書を提出すれば、後はスムーズに進むと思いますが、まだ、提出されていません」

「そうか。だったら、社会保険労務士の資格を持っているおまえが代理で申請すればいいじゃないか」

 労災は本人または遺族の申請を原則としているが、社会保険労務士や弁護士も代理申請ができることになっている。しかし、この場合はそうはいかない。

「いや、あくまで私はD化学の社員で、言ってみれば利害関係者ですから、それは無理です」

「確かに、それはそうだな。しかし、申請の手助けはできるだろう。監物くんの遺族は、確か、栃木に暮らしている母親だけだったな?」

「はい、彼は独身で、父親を早く亡くしてますから、労災の請求権があるのは母親だけです」

「母親ひとりでは請求書を書くのは大変だろう。是非、手伝ってやれ」

「はい、そのつもりです。近々、母親の元へ行こうと考えていたところです。労災の申請さえ出れば、労基署が認定して、後は所定の手続きに従うだけです。残っているのは、退職金と亡くなった月の給与月額を、今月の給与支払日に合わせて遺族に支払うことだけです。」 

 門脇は、ここで自分の言った「給与月額」という言葉から、ふとあることを思い出した。亡くなった月の給与月額には、超勤手当、俗にいう残業代も当然に含まれる。その超勤手当は社員の出退勤記録から、コンピュータシステムで自動的に計算される。それが、監物が自殺した日にシステムエラーがあり、当日の出退勤記録が消えてしまったのだ。総務部の若い給与担当者が、先日、門脇に訊きにきた。

「亡くなった当日の監物さんの超勤時間のことですけど、どうすればいいでしょうか?」

「どうすればいいって、システムエラーで出退勤記録が消えたのは全社員分だろう。ほかの社員と同じことだろう?」

 門脇はぶっきらぼうに答えた。

「ほかの社員には自己申告してもらっていますが、監物さんにはそれが無理です」

「そりゃそうだな。死んだ人間が自己申告できるわけがないか。それじゃあ、警察は午前一時から三時の間に転落死したと言っているから、一時まで残業していたことにしておけばいいんじゃないか? それで特に問題が起こることもあるまい」

「わかりました。そのようにしときます。でも、今のコンピュータシステムを導入してから三年間、エラーなんて起きなかったのに、監物さんが自殺した日に起きるなんて、なんか変ですよねえ。それも、システムに障害が起きた時刻が午前三時頃なんて、偶然なんでしょうかねえ?」

「偶然でなかったら、何なんだ?」

「監物さんの怨霊が、会社のコンピュータにとり憑いて……」

 若い給与担当者は、冗談とも本気ともとれぬ顔つきで言った。

「くだらないことを言うな」

 と叱責した門脇は、今どきの若い者は何かにつけ心霊現象を持ち出したがると思っただけでそのときは気にも留めなかった。

 門脇が専務と総務部長を前にして給与担当者の言葉を思い出したのは、監物の転落死の日に起きたシステムエラーが、殺されたという噂と関係しているのではないかと思ったからだ。給与担当者は「午前三時頃、システムの障害が起きた」と言っていた。自殺とシステムエラーとは因果関係があるとは考えられず、それはまさに偶然にすぎないだろう。しかし、給与担当者が言っていたように、特に若い社員たちは、その二つが同時刻に起きたということから、何か超自然的なものを感じ、それが愚かな噂に結びついたのではないか。

 門脇はシステムエラーが起きたそもそもの原因を聞いていなかった。門脇の自宅で使っているパソコンは時々フリーズ状態になり、なぜなのかは分からないが、しばらくすると正常に戻る。コンピュータというものはそういうもので、時としては不具合を起こすものだという漠然とした思いが強く、敢えてその原因を知ろうとは思わなかったのだ。

 もし、システムエラーが噂と結びついているのだとしたら、起きた原因が分かれば噂の出所も見当がつくかもしれないと思った。コンピュータシステムの担当部署は情報統括室だ。監物の自殺以後、会社を挙げて残業縮小へ取り組むことにし、すべての部門に計画書の作成を義務づけたのだが、それを取りまとめ、報告するのが門脇の仕事だった。他のすべての部門は提出されているのだが、情報統括室だけが未提出のままだった。それををきょうにも取りに行くと予告してあるのでちょうどいい。ここの話が終わったら早速行ってみよう。

 このところつまらないメールばかりが続き、仕事も組合の書記長のことのような、うんざりすることが多かった。メールが単なるいたずらでないことが分かった今、調べてみるのも悪くない。会社は組織だって調査できないが、個人が動くのだったら問題はないだろう。もし、くだらない噂を初めに流した社員が分かれば、とっちめてやるのも会社のためだ。門脇は久々に霧が晴れたような気分になった。

「ほかに何かあるのか?」

 山瀬が、視線を逸らし考え事をしていた門脇に言った。

「いいえ、特にありません」

 門脇は思いついたことを言わないことにした。ここでそのことを言うより、少し調べてみて、何か分かったら報告すればいい。

「そうか、できるだけ早く、事務的なことは終わらせろ」

「はい、分かりました」

 と門脇が答えると、菅崎が

「会社としては、監物に関係する事務処理を早く終わる以外にすべきことはない。事務局に同様のメールが届いていても同じことだ」

 と総括するように静かな口調で話し始めた。

「私はつまらない噂は無視していいと考えている。どんな噂も噂にすぎない。いずれ時間がたてば消えてしまうものだ。会社としては、今後、自殺者など決して出さないように、事実上青天井だった残業を厳しく制限する制度も作ったし、精神科の産業医も毎日常駐させている。それに、会社に多大な貢献をしてくれた監物くんのご遺族には、特別に慰労金を出す準備を進めているところだ。会社としてできることをすべて終わらせれば、つまらない噂もじきに消えてしまうだろう」

「私もそのように思います」

 山瀬がいくらか大げさに頷き、菅崎に合わせた。

「門脇くん。したがって、できるだけ早く事務処理をして欲しい。私からは以上だ」

門脇はもう一度「分かりました」と言って頭を下げた。立ち上がり、ドアノブに手をかけた時、菅崎の声が後ろから聞こえた。

「ああ、それから、新しい組合書記長のことだが……」

 門脇は心臓が止まるかと思った。やはり、担当を替えろと専務に言ってきたのか。門脇は恐る恐る振り返り、菅崎の顔を見つめた。

「きみとは交渉がしやすいと、彼は言ってたよ」

「はああ?」

「きみとは馬が合いそうだとね。組合役員が替わると労働組合対策も苦労が多いと思うが、門脇くん、よろしく頼むよ」

「ああ、はい。書記長がそう言ってましたか。私にとっても、やりやすい相手です。全力で取り組みます、はい」

 門脇は首をかしげながら、役員用応接室を出た。専務が言った書記長の言葉は予想してたものとは正反対だった。門脇が思っていたより案外、相手はおとなで、会社側と波風を敢えて起こしたくないと考えているのかもしれない。だとしたら、門脇にとってこれほどやりやすいことはない。ここのところ、書記長の態度がずっと頭から離れなかったが、当分の間、組合のことは横に置き、自殺した監物のことに専念することにしよう。


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