<1 > 会社は社員のあなたを監視している
門脇洋一郎は出勤すると自席のある総務部を素通りして、廊下の最も奥まった部屋の前まで行った。他の部屋には、ドアの上部に総務部や営業部といった部署を示す表示があるが、ここにはそれがなかった。門脇はドアノブを廻しロックがかかっているのを確認すると、あたりを見まわした。人に見られて困るというわけではないが、この部屋に入るときには無意識に人の目を気にしてしまう。門脇は手早く上着のポケットから社員カードを取り出し、ドアノブの横のスリットに差しこんだ。ロックが解除される金属音が微かに聴こえた。
部屋の中は薄暗かったが、門脇が足を一歩踏み入れるとセンサーが働き、明るく無機質な照明が点いた。この部屋は、社内のほとんどの文書が電子化される以前に書庫として使われていた。広さは二十メートル四方もあり、天井まで届くスチール製の書架が何台も並べられている。書庫として使われていた当時は、企画書やら会議用資料やら伝票やらの社内文書が、ダンボール箱に収められびっしりと積み上げられていたものだが、今はがらんとして、ところどころ錆びついたスチールの柱と横板がそこらじゅうに見えるだけだった。書架に挟まれた通路の行き止まりに、壁に接して机と椅子があり、そこに一台のパソコンとプリンタが置かれていた。
門脇は椅子に腰を下ろし、パソコンの起動ボタンを押した。数秒待つと、パソコン画面にはマイクロソフト社のロゴーマークに続いて、「社員の本人認証が必要です」という文字が表れる。門脇は手に持ったままにしておいた社員カードを、パソコン下部の識別装置に差しこんだ。カードは機械内部に音もなく引きこまれる。すると間をおかず、今度は「パスワードを入力してください」と四桁の暗証番号を要求された。門脇はキーボードに手を伸ばしたが、すぐにその手を止め、手帳を取り出した。暗証番号は毎月変更され、三日前に新しくなったばかりで、まだ正確に記憶していなかった。入力を一度でも間違えると社員カードは無効になり、再発行しなければならない。門脇は手帳を見ながらパスワードを入力した。画面は「門脇洋一郎 総務部労務課チームリーダー アクセス可」と変り、「D化学工業株式会社 コンプライアンス事務局」というタイトルのページに移動した。
D化学工業株式会社は石油化学製品、つまり、合成樹脂、合成繊維、合成ゴム製品を中心に、ありとあらゆる化学製品を製造している総合化学メーカーだった。D化学連結グループ全体の売上高は一兆二千億円、従業員は一万五千人を超える。門脇はD化学の本社総務部に在籍していた。
画面中央に電子メールの受信トレイがあり、今朝は二通溜まっていることを示している。最近は週に一、二通ぐらいのペースだから、日に二通あるのはめずらしい。受信時刻は一通目が昨日の十八時十五分、終業時刻のすぐ後だ。
門脇はこれらのメールを開くとき、いつもいくらか自分の鼓動が速くなるのを感じる。見てはいけない他人の手紙をこっそり覗こうとしているような、なぜかそんな後ろめたい気分を味わう。そしてすぐに、これは仕事なのだと気持ちを落ち着かせ、意識的にゆっくりとマウスをクリックする。
《ひとにぶつかって、その拍子にそのひとの持っていたパソコンを壊し、その修理を会社の経費でやっている社員がいます。私用のパソコンを社内に持ち込むことは禁止されていますので、そのひとが持っていたノート型パソコンは会社のものだと思いますが、壊した原因がぶつかった社員の落ち度にあるのですから、個人の責任で賠償すべきだと思います。それもこの社員は、いつも部下には経費の節減を口やかましく命令している管理職なのです。そもそも、この社員がそのひとにぶつかったのも、若い部下のささいなミスに突然大声で怒り出し、腕を大きく振り回したからです。そこをたまたま通りかかった人の抱えていたパソコンに、腕が当たったのです。その怒り方があまりにも異常で、ぶつかった拍子に落ちたパソコンを、この社員ははずみで蹴っとばしました。パソコンは二メートルぐらい飛んで床に落ち、中から部品が飛びだすほど壊れてしまいました。若い部下の方が慌てて拾い上げると、この社員は、ぶつかった人に一応謝りましたが、悪びれることなく、若い部下にセキュリティセンターで修理してもらうよう命令していました。その部下は、可愛そうに壊した責任が自分にあるかのようにパソコンの所有者に謝り、部品が飛び出さないように抱えながら、おずおずとセキュリティセンターに向いました。ということは会社の経費で修理したに決まっています。修理代は壊した人が払うべきです。是非、このような社員にひとこと注意をしてもらいたいと思います》
門脇は一通目のメールを読み終わって、近頃はこんなメールばかりだと溜息をついた。このメールは署名のない匿名だったが、メールアドレスを見ると、会社の略号があった。社内のパソコン端末から送信されものだ。調べれば社員の名前も特定できるが、その必要もないだろう。送信者は文面から考えて、上司に対する不満が相当溜まっている女性社員に違いない。「経費の節減に口やかましい」のはその部下でしか分からないことだから、パソコンを壊した社員とは送信者の上司だろう。「若い部下」とは彼女が思いを寄せるイケメン社員なのかもしれない。確かに厳密にいえば、会社の備品を不注意で毀損した場合はその社員が自費で賠償すべきだが、故意でもない限り、誤って毀損した場合には会社の経費で修理するのが社内の慣習のようになっている。送信者もそういう実情はわかっているのだ。その証拠に、個人名も挙げず、長い文章の最後に、「ひとこと注意をしてもらいたい」という言葉だけで締めくくっている。現実に会社が調査に乗り出して、賠償させることまで期待してはいない。管理職である上司を、「この社員」と書いているのは、上司と思いたくないほど、嫌悪しているということだろう。要するに、日頃の不満をコンプライアンス事務局宛のメールで発散させているのだ。女性社員が昼間の休み時間にコーヒーショップで、「ねえ、聞いてよ、うちの上司ときたらまったく……」と社内では吸わないたばこをふかしながら、悪口を言い合っているのと同じ類だ。一応、報告書には載せるが、放って置いていい。
企業の不祥事が頻繁にマスメディアで報道される昨今では、コンプライアンス、つまり法令や規則の遵守はどこの会社にとっても、ますます重要な課題になっている。どんなに業績がいい会社でも一度不祥事が起きれば、業績など吹き飛んでしまい、最悪の場合は会社の存亡にもかかわるからだ。
D化学工業株式会社には、監査役の下に監査室があり、会計と業務の内部監査を行っている。規則違反があれば摘発し懲戒処分の対象としている。しかし、監査室の室長を除く常勤八名は、一度退職した社員の嘱託に過ぎない。その他の室員は業務に精通した社員が所属する部署と兼務で、年二回の調査計画が実行される時のみ、召集されるのだ。彼らはベテランなのだが調査に対する意欲が乏しく、形式的でおざなりのもので終わるのは日本の多くの会社と同様である。
そこでD科学では不祥事を未然に防ぐために、社員からの内部告発を大いに奨励した。不祥事とは、公になって初めて不祥事になるのであり、規則違反であれ、法律違反であれ、外部に漏れる前に社内で処理できれば、不祥事がなかったことと同じと考えたのだ。そのためには、できるだけ小さな不正の段階で情報を掴む必要がある。それが、コンプライアンス事務局への告発制度の目的だった。
当初は、告発を電子メールだけに限定したわけではないが、発足当時から、電話や郵便等は皆無だった。恐らく告発者は匿名を好み、電話では自分の声を聞かれ、郵便では筆跡や発送地域が分かってしまうことを嫌ったためなのだろう。
この制度は功を奏したと言っていい。ここ数年間、D化学工業ではマスメディアに騒がれる不祥事は一度もなかったのだから。D化学工業株式会社のコンプライアンス組織は監査室とは別に、人事・総務部門を統括する取締役役員を委員長に、各事業本部や事務系の部門の部長で構成されるコンプライアンス委員会があり、その下に事務局を置いている。事務局は、事務局長が総務部長で、総務、人事企画、法務、財務の四部からそれぞれ二、三人ずつの社員が日常業務とは別の仕事として携わっており、総務部労務担当の門脇もそのひとりだった。事務局は、日頃は社内規則や法律の解説などのいわゆる啓蒙活動をおこなっていたが、効果があるのは、やはりこの告発メールだと、門脇は思っている。
半年前の神奈川県の工場からの告発の例では、小型船舶用の合成樹脂を製造する工程で、一定以上の不純物が混入した不良品は、社内規定では処理業者に委託し廃棄することになっているが、ある社員が廃棄すべき不良品を自らトラックに載せ、どこかに運んでいるというものだった。告発メールを送信してきたのは新入社員だった。そのメールによれば、《その社員は、該当する作業工程のリーダーで、処理業者とは別の業者に売り飛ばしているようです。そのことを管理者である製造部長に告げても見て見ぬふりをしている》という。
コンプライアンス事務局へのメールを読むのは、総務部の門脇だけではなく、他の部の事務局員三人との輪番制になっている。この告発メールのときは、財務部の社員が最初に読み、すぐに事務局長の総務部長に報告した。総務部長、山瀬泰三はコンプライアンス委員長である担当取締役役員に連絡すると同時に、直属の部下でもある門脇を従え、その日のうちに神奈川県の工場に向かった。
現場に着いた総務部長と門脇は、工場長を通じ関係者を一同に集め実情を訊いたが、話しは唖然とするものだった。不良品をどこかに運んでいた作業工程のリーダーは課長職に相当するベテランで、そのやり方に口出しできる者は製造部長以外にいなかった。その課長相当職にある者が、処理業者と感情的トラブルを起こし、腹いせに処理業者の工場の裏山に不良品を投げ捨てていたというのだ。しかも、この不良品には人体に極めて有害な重金属が混入しているという。部下の監督を怠った製造部長は、その理由を問われると一時間以上も押し黙ったままだった。技術畑をこつこつと歩み続け、退職を来年に控えた工場長が、「一緒に辞表を出そう」と泣き声混じりで迫ったとき、製造部長はやっと重い口を開いた。製造部長はその社員に個人的秘密を知られてしまい、それ以来、秘密をばらされるのを恐れ強く出ることができなくなったというのだ。そして、その秘密とは、実は製造部長の女装趣味で、社内の個人ロッカーに女性用の衣類をしまっていたことを、その社員に知られたのだという。
総務部長と門脇は顔を見合わせて苦笑しながらも、すぐに善後策を講じた。投げ捨てたという現場を調べさせると、幸いにも、この不法投棄に処理業者はまったく気づいていないことがわかった。また、密閉容器から不良品が漏れ出した痕跡もないという。
投棄された密閉容器は四個で、ちょうど樹木に覆われ周囲からは視線が遮られた場所にあった。総務部長と門脇は念のために夜中になるのを待って、数名の工場の社員とともに容器を素早く回収した。容器には社名が大きく刻印してあった。このまま放置されて、社外の者の目に触れ、警察や行政当局に通報されたら取り返しのつかないことになるところだった。なぜベテランの技術者がこのような愚かな行為をしでかしたのか? 結局、それはわからなかった。人間は時として、ふと何かに憑かれたように異常な行為に走ることがあるものだという感慨に、門脇はただ浸っただけだった。
最近は、こういう告発メールが非常に少なくなった。一通目のメールのように、壊したパソコンを個人の費用で修理させろというような、些細なことを通報してくるものばかりだ。それは会社にとっては、この告発制度の効果が現れているとも言え、問題を起こすような社員が減っているということは非常に好ましいことではある。しかし、こういう業務に携わる者にとっては、大きな声では言えないが、退屈でつまらないことなのだ。重大な結果を招くようなことを時として行う社員、そういう社員がいてくれないとコンプライアンス推進業務に従事しているおもしろさは、正直に言えばない。
門脇は、次のメールもどうせつまらないものだろうと、冷めた気分になって二通目のメールを開いた。しかし次の瞬間、突然、門脇はパソコン画面に向かって「何っ」と甲高い声をあげた。門脇の眼に初めに飛び込んできた文字が、「殺人」という単語だったからだ。新聞の社会面でもあるまいし、社内に殺人などということがあるはずもない……。門脇は思わず身を乗り出し、画面に顔を近づけた。
《社内で殺人事件の噂が流れていることをご存知ですか? 昨日、私がトイレの個室で用を足していると、ドアの外からふたりの男性社員のひそひそ話が聞こえてきました。どうせ、上司の悪口だろうと黙って聞いていると、驚くべき話でした。先日、会社のビルから飛び降り自殺をしたと思われている研究員は、なんと、実は突き落とされたというのです。目撃者もいるが、特別な事情があって名乗り出られないとまで言っていました。それに、もうひとりが、おれもその話は聞いたことがあると応えていました。私は話の真偽を確かめようと、慌てて衣服を整え個室を出ましたが、既に二人はいませんでした。二人の声に聞き覚えがありませんので、どこの部署の社員なのかも分かりません。社内で殺人事件があったなどという噂が流れているとしたら、大変なことです。勿論、社内で殺人などありえないことで、悪質な噂を誰かが流しているのだろうと思います。こんな話を同僚に訊くわけにもいきませんので、是非、コンプライアンス委員会で悪質にもほどがある噂を流している人物を探し出し、罰してください》
門脇は画面から眼をそらし、宙を睨んだ。
二週間前の深夜、本社敷地内の研究開発棟の六階非常階段から、ひとりの研究員が転落死した。あの日、労務担当の門脇も早朝から電話で呼び出された。眠い眼をこすりながらタクシーで会社に着くと、既に警察の現場検証が始まっていた。警察に立ち会っていたのは、本社の警備を担当しているセキュリティセンター長の紺野晴男だった。その脇に遺体の第一発見者の、同じくセキュリティセンターのシステム担当主任菊池規正が岩のように固い表情でつっ立っていた。門脇が警察官に身分を名乗りながら近づくと、コンクリートの上に、真っ赤というよりも黒々とした血だまりの中に頭を突っ込み、うつ伏せになった死体が見えたのが忘れられない。
転落死したのは、研究開発部の素材研究グループリーダー監物秀明三十四歳だった。監物は、昨年炭素繊維素材の画期的な製造法を開発し、その検証実験などで、死の数ヶ月前から毎日のように残業が続いていた。警察は本人のスーツの内ポケットから、会社の同僚と母親に宛てた二通の遺書を発見した。その遺書は自席のパソコンで転落死する直前に作成されたものであることも確認した。さらに、念のために司法解剖も行われ、血液中から抗鬱薬トレドミンを検出した。会社はそれまで把握していなかったことだが、本人の自宅近くの精神科に通院していた事実も判明した。それらの結果、警察は転落死した一週間後に、過労による鬱症状から起きた自殺と断定した。自殺というのは、誰が考えても疑う余地がないことだと思われた。
社員が業務に関係して死傷したときは、労働基準監督署に「労働者死傷病報告書」を提出することが労働基準法で義務付けられている。D化学工業でこの役目を負っているのが、労務担当で社会保険労務士の資格も持っている門脇だった。「労働者死傷病報告書」は速やかに提出しなければならないので、警察の自殺の断定後に既に提出していた。この報告書の「災害発生状況及び原因」という欄には、社内の上層部の意向にそって、門脇が「過労が原因による自殺」とはっきりと記入した。社内で起きた事故が労災に該当するか否かを決定するのは、無論、労働基準監督署だが、会社側が自殺と業務に因果関係ありと素直に認めた形だった。会社は従業員の安全に充分配慮しなければならないが、「安全」には精神の領域も含む。転落死した監物が、鬱症状で通院していた事実を把握していなかったことを、会社は重大な落度と認識した結果だった。
監物の自殺の原因となったと考えられる長時間労働は、D化学では特に部長級、課長級の中間管理職で極めて多かった。これは上司は率先して働くという会社の伝統のようなものの影響もあるのだが、管理職は昨今の人員削減により、以前は部下に任せていた仕事を上司自らやらざるを得なくなったのだ。それに、管理職は何時間残業しても数字として記録されることがない。一般社員の残業に支払われる超勤手当は経営上厳しく管理されているが、管理職のその代わりに支払われる管理職手当ては定額なので、管理職の残業が何時間あったのかは問題にされることはなかったのだ。深夜勤務については、管理監督者にも労働基準法上、二十二時から翌朝五時までの間の深夜勤務手当てが発生するが、それも会社にいたとしても休憩時間として扱えば深夜勤務には該当しない。その場合の休憩なのか勤務なのかを判断するのは管理職自身なのだが、部門毎に細かく賃金コストと業績が評価されているので、ほとんどの者が自分の手当てを増やし賃金コストが上がるようなことはしないのだ。業績が上がれば、さらに上のポストに就けるのだから、そこは我慢するしかないというわけだ。そのような事情から、郊外に自家を持った管理職は、通勤時間を省略するために会社に泊まりこんで仕事をするという悪習が一部であったのだ。自殺した監物もその中のひとりということだった。監物の死後、会社はすぐに管理職を含め長時間労働を抑制する措置を講じた。原則、会社の泊まり込みは禁止になったし、週一の残業をしない日も制定した。そういった改善は、常に犠牲者が出た後に成されるのが世の常なのかもしれない。
門脇は送信者に直接会って話を訊いてみたいと思い、改めて画面を見直した。しかし、このメールも一通目と同様に匿名で、メールアドレスは社内のパソコン端末や会社が貸与している携帯電話のものではなかった。会社所有の通信機器は、メールアドレスや電話番号が登録されているので、誰のものから発信されたのかが分かるようになっている。このメールのには、アドレスの末尾にIT企業の使用するYで始まるアルファベットがあった。Yメール、これはWebメールと呼ばれるもので、インターネットに接続できる環境さえあればアドレスをいくつでも取得でき、送受信が可能だ。これでは警察が強権を発動して捜査にでも乗り出さない限り、送信者を特定することができない。
送信者は、なぜ特定されるのを嫌っているのか? 送信者の不利益になることは何もないのだから、名前を隠す必要はない。そもそもこういう重大な問題は、本来はメールでなく、直接コンプライアンス事務局に来て話すことではないのか? 噂を流している人物をコンプライアンス委員会で探し出し罰してくださいとあるが、手がかりがなければ探しようもない。
門脇はこのメールはいたずらではないかと思った。会社の正式な組織にいたずらメールを送るというような行為は社員ならありえないと思われがちだが、実際に過去にあったのだ。二年ほど前、同僚が使い込みをやっているという告発メールがあったが、調べてみるといたずらだった。送信した社員は、特に悪意はなく、退屈しのぎにコンプライアンス委員会がどう動くのか見たかっただけだという。当然、この社員は減給処分された。呆れた話だが、現実には様々な人間が会社にはいるのだ。今回のメールもそんな類なのではないか。いたずらなら、発信元を隠してもおかしくはない。
門脇がとりあえず報告用にメールを印刷しようと、プリンタの電源を入れた時、スーツの内側ポケットの携帯電話が鳴った。総務部長の山瀬泰三からだった。
「門脇くん、今どこにいる?」
山瀬の声はいつものゆっくりとした口調とは違って、妙に早口だった。
「はあ、一階のコンプライアンスメール受信室ですが……」
「そうか。悪いが、すぐに十七階まで上がって来てくれないか。隣に菅崎専務取締役がいらっしゃる」と言うなりこちらの都合も聞かず、山瀬は電話を切った。
上司である山瀬から電話で呼び出されることは日常的によくあることだが、十七階に呼び出されるのは初めてだった。そこは取締役員執務室や応接室のあるフロアーで、総務部の一部員に過ぎない門脇には業務上無縁の世界だった。その十七階で、総務部長の山瀬は専務取締役の菅崎進と同席しているという。門脇には呼び出される理由が思い当たらなかった。菅崎専務といえばコーポレートガバナンス担当役員、つまり人事・総務担当の総責任者で、当然、その職掌の中に労務も含まれている。労務課の門脇にとって上司ともいえるが、直接、業務に関する指示や命令を受けるわけではないので、今まで口をきいたこともない遥か上の存在だった。
「とりあえず、行くか?」
門脇はひとりごとを言って立ち上がった。