93.結婚式の夜に(2)
ジルと入れ違いで、イサク様が私の部屋に入ってきた。シルクのガウンを身に纏い、前髪を下ろしているためか、いくぶんかくつろいで見えた。昼間の結婚式の時のかっちりとした正装とは、ずいぶん印象が違う。
立ち上がって礼を取った私を見たイサク様は、少しホッとした顔をした。
「すでに寝ているかと思ったが、元気そうだな。疲れていないか?」
まどろっこしい挨拶をすっ飛ばして単刀直入に話を始める癖は、出会った時と全く変わらない。私は微笑んだ。
「……本日はお疲れさまでした。本日のスケジュールは少々ハードでしたが、私なら大丈夫ですよ。それより、髪が濡れたままです! まずはタオルで拭かせてくださいね」
「む、すまないな。コリンが寝る前に早く寝室へ来ようとして、焦ってしまった」
「ふふふ、そんなに焦らなくても良かったんですよ。イサク様のご準備がいくら遅くなっても、起きて待っているつもりでしたもの。さあ、こちらの椅子に座ってください」
私は、来客用の椅子に座ったイサク様の後ろに立った。よっぽど急いで来たらしく、燃えるような緋色の髪はしっとりと濡れている。
私は気合を入れてワシワシとイサク様の髪を拭き始めた。
「イサク様は次期皇帝であらせられるお方なのですから、ご自愛くださいな。風邪の一つでもひこうものなら、親愛なる帝国民が皆心配することになりますよ」
「今後気を付けるとしよう。……しかし、こうやって遠慮なくタオルで拭かれていると、なんだか犬にでもなった気分だな」
「こんなに威厳のあるわんちゃんのお世話をさせてもらって、とっても光栄です」
私はクスクス笑う。
大人しくされるがままになっていたイサク様は、ふと頭を後ろにそらせて私のほうを見る。私を見つめる目の縁が、少しだけ赤い。
「……結婚式の時は言えなかったが、今日のコリンは、その……すごく綺麗だった」
「えっ」
急な褒め言葉に、頬が上気するのを感じる。この人は、いつだって発言が急だ。
「あ、ありがとうございます。ファビュラス三姉妹にすべて一任していたので、ドレスもアクセサリーも、少々派手だとは思ったのですが……」
「そんなことはない。全て似合っていた。教会でコリンの姿を見た時、一瞬女神ティテーが入ってきたかと思った」
「ティテーは美の女神ですから、ちょっと大げさかと」
「そんなことはない。それくらい美しかったんだ。誓いのキスの時、心臓が止まりそうなほど緊張した。こんな美しい人にキスをしては、罰が当たってしまいそうな気がして……」
「……そうだったんですか。なんだかあまりにイサク様はいつも通りなので、てっきり緊張していないのかと思っていました」
「そうか。緊張していたのがバレていなかったのなら、何よりだ。コリンは、緊張したか?」
「正直に申し上げれば、私はいつも通りでした。なんだか夢みたいで現実感がなくて……。未だに信じられない気持ちでいっぱいです」
数年前まで、ただの鋳造工房の娘だったのだ。まさか数年後に皇子妃になるなんて、どうやって予測できただろう。
イサク様は不意に難しい顔をして俯いた。
「……すべてを急いでしまった自覚はある。すまなかったな。コリンの侍女には、散々髪の毛が伸びるまで待つように言われていたが、これでもかなり我慢はしたつもりなんだ」
「そんな、謝らないでください!」
私は慌ててイサク様の足元に座って、鋭いヘーゼル色の瞳を見上げる。
「現実感がないのは事実ですが、イサク様と結婚できたのが嬉しかったのも、事実です! 今日の神前での誓いは一生忘れません!」
私は本心からそう言った。
前世からの「幸せな結婚をしたい」という夢は、紆余曲折あって叶えられた。正直、私が身代わり皇女だと帝国内に知られたときには、「もう誰でもいいから結婚して!」と開き直ったのは事実。
でも、結局は大好きな人と結ばれたのだ。これ以上のハッピーエンドはないだろう。天国のオフェリアもきっと祝福してくれているはず。
イサク様は少しだけ目を見張ると、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうか、それならば良かった」
「なんだか、改めて言葉にすると照れますね」
イサク様との結婚を、誰もが祝福したかといえば、嘘になる。皇族に平民の娘を迎えるなどもってのほかだと、貴族派の貴族たちからは強い反発を受けたし、次期皇帝の妃として自分は本当にふさわしいのか、というプレッシャーで思い悩み、なかなか寝付けない日もあった。
でも、イサク様と一緒にいられると思えたからこそ、耐えられたのだ。
第一、思い返せば、あの教会で死にかけた時、最後に一目会いたいと思ったのがイサク様だったのだ。だから、私は、今度こそ愛する人を信じ、進む道を選んだ。イサク様の手を離す気は毛頭なかった。
「……しばらくは忙しい日々が続くが、全てが落ち着いたら、ハネムーンに出かけよう」
「ん? ええっと、国内視察ですか……?」
「……まあ、そう堅苦しいものでなくても良い。まずは昔約束した、ビブリニュスに行って、神話の本を買おう。それから、ボスリン山のトンネルを通って、チルガに行き、オフェリアの墓参りをする。それから、バスティガ村も案内してくれ。せっかくだからコリンの故郷を、見てみたいんだ」
「わあ、良いですね!」
私は手を合わせて歓声をあげた。きっと、楽しい旅になるだろう。
話をしている間に、イサク様の髪はすっかり乾いていた。
「はい、これで髪の毛は乾きましたよ」
「そうか。ありがとう」
髪を拭き終わると、いよいよ話すことが何もなくなった。夜もとっぷり更けている。
イサク様はさっさと椅子から立ち上がると、当たり前のように寝台へ向かう。私も逡巡したあと、イサク様に続いた。
イサク様の髪の毛をタオルで拭くのに必死でうっかり忘れかけていたけれど、今日は初夜だ。夫婦となる二人が、初めて寝台を共にする日である。
(ええっと、こういう時はどうしたらよかったんだっけ……)
イサク様が腰かけたベッドの前であからさまにフリーズしてしまった私に、当のイサク様はいたずらっぽく微笑んだ。
「そう緊張するな」
「ひゃっ、ひゃい……」
「……お前が嫌がることは絶対にしないと約束する。俺はお前に嫌われたくはないからな」
「わ、私が、イサク様を嫌うわけないじゃないですか!」
「どうだかな。俺のプロポーズをあっさり振ってどこかに逃げようとした誰かさんの言うことは、あまり信用できない」
「あっ、あれは仕方がないじゃないですか! 私だって身代わりだってバレたって気づいてパニックだったんですよ!?」
「俺のことを信頼してくれれば、万事解決したのに……。あの時の俺は本当に信用されていなかったなあ」
「そんな顔しないで――……、」
しゅん、とするイサク様に、私は慌てて手を伸ばすと、イサク様はニヤッと笑うと、私の手を取るとぎゅっと引っ張った。
「わっ……」
私は気づけば、イサク様の腕の中にすっぽり収まっていた。イサク様が耳元でふふ、と笑う。
「い、嫌なことはしないとさっき言ったのに……ッ!」
「これくらいは許せ。第一、一晩一緒に過ごした仲なのだから、そこまで緊張することはないだろう」
「あっ、あれはだって、ナタリーが、勝手に……」
「お前は面白いな。式ではあんなに堂々としていたのに、こういう時に緊張するのか」
「そりゃあ緊張もします! あんまりからかわないでください!」
私がワタワタしだすのを見て、イサク様はふっと微笑んで私の頭を撫でた。
「ああ、俺はやっとコリンを手に入れたんだな。一目見て、直感でお前が運命の人だと分かった時から、ずっとこうしたいと思っていた」
「…………いま、このタイミングでその告白は、ちょっとずるくないですか」
私はイサク様の腰におずおずと手を回し、ぎゅっと抱きしめる。運命のいたずらのようにもたらされた奇跡のような幸運を、もう逃がさまいと、強く。
完結しました!
ちょっと気持ちが落ち着いたら、ギルジオ視点のお話も追加するかもしれません。
休載を含め、1年半の長期間の連載となってしまいましたが、ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました!別のお話でまたご縁がありましたら、よろしくお願いいたします!





