78.皇子と皇女
翌朝――
小鳥のさえずりで目覚めた私は、真っ先に声にならない叫び声をあげた。
(ベッドの上に、ものすごく見覚えのある誰かがいるんですけど……!?)
しかも、私はその人物の手に抱きついている状況だ。一体全体、どうしてこうなったのか理解に苦しむ。
訳の分からない状態にパニックになる私の物音に気付いたのか、前で寝ていた人物が小さく唸ってゆっくり目を開けた。
「……おはよう、オフェリア」
「お、お、お、おはようございます、イサク様……」
至近距離にあるヘーゼル色の瞳にどぎまぎしつつ、私はぎゅっと抱きしめていた太い手を恐る恐る放した。そう言えば、二度寝する前に枕だと思って何かに抱きついた気がする。まさか人の手だとは思わなかった。
私が驚きのあまり身体を硬直させていると、イサク様は私を見つめて目を細めた。
「よく眠れたようでなによりだ。だいぶ顔色がいい」
「お、おかげさまで……。というか、抱き着いてしまってごめんなさい! 迷惑でしたよね? 痺れたりしていませんか!?」
土下座せんばかりの勢いで謝る私に、イサク様は照れたように微笑んだ。
「別に、お前が良いならいくら抱き着いて枕にしてくれても、俺は構わない」
「それはまた、ずいぶん高級な枕ですね……」
「フフッ、オフェリアは本当に面白いな。それより、お前はなんでここにいるんだ?」
「へっ……」
「ここは俺の部屋だぞ。無防備に男の部屋で寝るなんて、感心しない」
「な、なんですって!? ナタリーの侍女からここに通されて、この部屋で一晩休むようにと……。あっ……」
私の脳裏に、「計画通りですわ」と高笑いするナタリーが浮かんだ。イサク様も一瞬で状況を理解したらしく、大きくため息をつく。
「まったく、兄の寝台に女人を送るとは、わが妹ながら思い切ったことをするな。……すまない。ナタリーには厳しく言っておく」
「そうしてください……」
「しかし、好ましく思っている人が自分の寝台で眠っているのはなかなか良いものだな。昨日はヘトヘトで帰ってきたが、一瞬で疲れも吹き飛んだ」
イサク様はコソコソと寝台の隅に移動していた私をそっと引き寄せると、私を自然に抱きしめた。
「今日は、なんだかいい匂いがする」
「あっ、……えっと、それは、昨晩イヤというほどナタリーに香油を擦りこまれたからですよ。ナタリーもすごく張り切っちゃって……」
「そうか。ナタリーはオフェリアのことを気に入っているようだな」
イサク様はゆったりと微笑んで私の髪に軽く口づける。私はどぎまぎするより先に、昨日のナタリーのスペシャルコースのおかげで、いつもより毛先が痛んでいないことに心底ほっとしてしまった。
(昨日、嫌というほど磨き上げられて良かったわ……)
そういえば、昨日あれほど香油を塗りたくられてべたべたしていた肌も、一晩経てばだいぶ肌になじんでしっとりしている。しかも、イサク様の言う通り確かに良い匂いだ。
こんな展開になることが分かっているのであれば、もっと真剣にナタリーのエステを受けていればよかった気もしないでもない。目をらんらんと輝かせたナタリーに髪の毛を散々引っ張られるのはイヤだけれど。
そのうちに、軽くドアがノックされて、侍女が「朝食の時間ですが……」と顔を出した。イサク様は二人分の朝食を部屋に持ってくるように伝える。
すぐにイサク様の部屋に、侍女たちがなだれ込んできた。
「朝食を用意しますので、そのあいだ皇女様はこちらへ」
侍女頭だろう、年配の侍女が有無を言わさぬ勢いで私を別室に引っ張っていく。
私がイサク様の部屋にいてもさして驚きもしないのを見ると、おそらくナタリーのとんでもない計画を事前に知っていたのだろう。
(まったく、ナタリーの暴走を誰か止める人はいなかったのかしら……。まあ、いないわよねえ……)
私は内心ため息をつく。ナタリーの計画に従った侍女たちには罪はないので、問いただしても仕方ない。ナタリー本人にあとできつく言う必要があるだろう。
そんなこんなで、侍女たちはあっという間に私のネグリジェをはぎ取り、ドレスを着つけた。
袖を通したドレスはナタリー好みの派手なものだったけれど、それでも私に似合っているあたり、侍女たちが気合を入れて選んでくれたのだろう。さすがオシャレに敏感なナタリーの侍女たちだ。
髪はハーフアップにしてもらい、しっかりめの化粧をすると、私は再びイサク様の部屋に戻される。
イサク様は、すでに朝食の席についていて、部屋に入ってきた私の姿をみてはにかんだような笑顔を浮かべた。
「パーティーの時はともかく、昼間のオフェリアはいつも質素ないでたちをしているから、明るいところでそのようなドレス姿を見ると新鮮だな」
「昼間の私は、王族らしからぬ格好をしていますからね」
私は苦笑した。
一日のうちのほとんどを過ごしているオフェリア商会は、物があふれかえっているので、ドレスを着ていると何かに必ず蹴躓いてしまう。そのため、私はここのところもっぱら、パニエのついていない、足首の見える庶民風のドレスを着ているのだ。
時々私の護衛と称して会いにくるイサク様も、私の庶民風ドレスにすっかりなじんでしまったらしい。
改めてイサク様に促されて朝食の席につくと、目の前に座ったイサク様は侍女たちを下がらせたあと、真剣な顔をして私を見つめた。
「……オフェリア、一緒に朝食をとりながら今後について話したいと思ったから人払いしたが、昨日の件もある。毒見が必要なら、誰か人を呼ぶが」
私はハッとした。
イサク様は、ナタリーの成人パーティーで振る舞われたシャンパンに毒が混入されていたのをかなり気にしているのだ。
人払いした意味ははかりかねたけれど、私はとにかく慌てて首を振った。
「お気遣いいただきありがとうございます。でも、毒見は不要です。昨日の件は、イサク様たちを疑っているわけではありませんから」
「そうか。そう言ってもらえてよかった。……昨日は本当に心配した。すぐに駆け付けたかったが、それが難しくてな。身体は大丈夫か? 昨日は毒を飲んでしまったのだろう」
「あの……、私が毒を飲んだと嘘をついているとは、思われなかったのですか?」
「それはない。オフェリアがそんな嘘をつくとは思えないし、それに……」
イサク様は一度言葉を区切り、大きなため息をついた。
「残念ながら犠牲者が出た。オフェリアが毒を飲んだふりをしただけだと主張する騎士派の男爵が、ギルジオが置いていったグラスを皆んなの前で飲んでしまってな。……彼はもだえ苦しみながら昏倒し、そのまま息絶えた」
「そんな……!」
「まったく、馬鹿な真似をしてくれたものだ。……ついにこの権力争いで死者が出てしまった。第一皇女派と第二皇子派の間の亀裂は、これで決定的になったという貴族もいる。こんなの、俺たちはなにも望んじゃいないのに」
イサク様は苛々した様子で前髪をかきあげた。あらわになった額に、できたばかりの真新しい傷が見えて、私は息を飲む。
「い、イサク様、額にお怪我をなさっています!」
「ああ、これくらいなら日常茶飯事だ。騒乱の中、ガラス瓶が飛んできて、避けられなかったんだ。油断してしまった」
「イサク様は、安全な場所にいたはずじゃ……」
「まさか。騒乱の鎮圧しようとしていた。こういう時に、皇子だからと逃げ回っていては示しがつかない。騎士団のヤツと一緒に騒乱を止めようと、暴れる貴族たちを一人一人説得して回った」
「えっ、一人一人……!?」
「そうだ。まあ、あまりにも相手が抵抗する場合は実力行使させてもらうが、騎士派、貴族派、改革派どんな派閥の人間であれ、だいたいは話せばわかる。話し合いの途中から拳で論争する破目に陥る時もあることはあるが……」
あっさりととんでもないことを言いだしたイサク様に、私は驚いて口をあんぐりとあけた。
私がのんびりと安全な場所で身を隠している間、イサク様は貴族たちの間を取り持とうと奔走していたのだ。
(どれだけの貴族たちの相手をしたんだろう……。しかも、皇子が直接鎮圧しに向かうなんて、前代未聞だわ…。護衛の人たちは必死で止めたんだろうけど、イサク様は耳を貸そうとしなかったんでしょうね)
呆れた私は、しばらく黙ったあとに首を振った。
「お言葉ですが、あまり褒められた行動ではないと思いますよ。暴徒と化した貴族に襲われたらどうする気だったのですか? それに、貴族たちと正面から一人一人話し合うなんて、時間の無駄です。どうせ、権力にしか興味のない者たちなのですから――……」
「オフェリア、それは違うぞ」
私の説得を、イサク様はぴしゃりと遮った。
「お前は言ったじゃないか。『身分に関係なく話を聞かねばならない』、と。俺と違ってお前は、平民たちの意見しか耳を傾けず、貴族たちに対しては『話を聞く価値がないものたち』とハナから切り捨ててはいないか。聞けばお前は、貴族のことはオルディアレス卿や第一大公に全て任せ、お前を支持する改革派の貴族たちからすら距離を取っていると聞く」
「あっ……」
図星だ。私はみるみるうちに頬が熱くなるのを感じた。





