70.手を取り合って
(なにかあったら叫ぶこと、なんて。ギルジオったら、イサク様に限って何もないに決まってるじゃない)
相変わらずギルジオは過保護だと、私が心の中でそっとため息をついたのもつかの間、次の瞬間私は声にならない悲鳴をあげていた。私の隣の席に座っていたイサク様が、前触れもなく私を抱き寄せたからだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと、イサク様……ッ! きゅっ、急に、……ど、どうしたっていうんですか……ッ!?」
パニックになる私を、イサク様はますます強く抱きしめる。
「……オフェリア、無事でよかった」
イサク様のくぐもった一言は、今にも泣きそうだった。力強く私を抱きしめる手は、激しい感情をなんとかこらえているように、細かく震えている。
(あっ……、本当に心配してくれていたんだ……)
私は、イサク様の広い背中に手を回しておずおずと抱きしめ返した。
「言ったじゃないですか。私はちゃんと帰ってくるって」
「……うん」
「もしかして私が言ったことが、信じられなかったんですか?」
私が茶化すように言うと、イサク様は急に身体を離し、勢いよく頭を振った。
「そ、そういうわけじゃない! 頭では、オフェリアなら大丈夫だと思う自分がいたのは確かだ! しかし、大事な人が命の危険に晒されていると知っておきながら、心配せずにいられる人間はいない! そうだろう?」
「……ええ、そうですね」
「まったく、皇女自身が敵地に乗り込んでいくなんて、前代未聞なんだぞ。アマラ様も、オフェリアにこんな危ない目に遭わせるなんて、いったい何を考えているんだ! 本当に、この一か月、お前のことを思うと夜も眠れない日々が続いた」
私を見つめるイサク様の目は真剣そのものだった。
よくよく見れば、イサク様は少し疲れたような顔をしていた。眼の下にクマもある。私のことが心配でこの一か月あまり寝られなかったのだろうと思うと、心が痛んだ。
「……心配させてしまって、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。本当に、無事に帰ってきてくれてよかった。お前を喪ってしまうのではないかと、この一か月生きた心地がしなかった」
イサク様は、大きくため息をつき、それからもう一度、今度は限りなく優しく私を抱きしめた。
「改めて、おかえり、オフェリア。少し痩せたか」
耳元で囁かれる、かすれた甘い声に心臓が跳ねる。思わずびくりと身体を震わせ、イサク様の手からなんとか逃げようとする私を、イサク様の大きな手が阻み、ますます近くへと引き寄せる。
「やはり痩せたな。まったく、フォロンはちゃんと、オフェリアを賓客として扱ったのか? ひどい扱いを受けたのではあるまいな?」
「い、イサク様、少し離れて……」
「嫌に決まってるだろう。絶対に離れない」
駄々っ子のような言い草に笑いそうになったけれど、私は首を振る。
「……このままでは、フォロンであったことについてお話ができません」
「うむ、それは確かにそうか……」
イサク様は渋々と言った様子で私を解放した。私はホッとする。あれ以上抱きしめられたら、きっと私の心臓が爆発してしまっていた。
とりあえず、私はイサク様にフォロンであったことを一通り説明すると、ユーチェン姫からもらった和平の手紙を手渡した。イサク様は、長い足を優雅に組んで熱心にユーチェン姫の書いた手紙に目を通し始める。
やがて、手紙を読み終わったイサク様が感心したように一つため息をついた。
「……前回の手紙の内容からは想像もつかないほど、こちらに友好的だ」
「ええ、ユーチェン姫も強権派に操られてあのような内容の手紙をこちらに送ったのです。前回の手紙については、すべて撤回の上、心から謝罪する、とのことでした」
「ユーチェン姫にとっても自分の意志に反してあのようなものを書かされたとは、全くもって不本意だっただろう。まったく、黒魔術とは恐ろしいものだ。だからこそさっさと攻め入ってしまいたいところだったが……」
「アマラ様のご意向は、戦争を回避することでしたから」
「それはそうだ。この手紙を読めば、アマラ様はさぞお喜びになるだろう。和平の内容としては申し分ないからな。しかし、この内容だとユーチェン姫はお前を年に一度フォロンに訪れるように要求しているようだが、それでいいのか?」
「和平のためですから、致し方ありません。お互いの交易を深める意味でも意義深いものになるよう努力いたします」
「この短期間で、オフェリアはどうやらユーチェン姫にすっかり気に入られたようだな。……まったく、気に入らない」
「仕方ないですよ。他国との交流を取り持つのも、皇女としての公務の一部ですから」
「お前は、目を離せばすぐに遠くへ行ってしまう」
眉間に手を当てて、イサク様はため息交じりに呟いて、私の手を握った。まるで、どこにも行かせまいとしているように、強く。
私は、イサク様を安心させるように微笑んでみせた。
「大丈夫です。私はどこに行こうと、ちゃんと帰ってきますから」
「お前の言う『大丈夫』は、まったく信用できないからなあ……」
「まあ、ひどい言い草ですね! そんなことより、戦争を回避したんですから、例の約束の件、お願いします」
「……ああ、そうだった。ボスリン山のトンネル工事に騎士たちを派遣したい、と言う話だな。やはりしっかり覚えていたか」
イサク様は苦笑した。私は大きく頷く。
「ええ、もちろんです。これで工員不足も解消されて、ボスリン山のトンネル工事に着手できるので、本当に嬉しくて! もちろん、騎士の皆さんにはそれなりの見返りをお約束します」
「ボスリン山に安全な交通網ができれば、北西の領土も発展するだろう。お前も、チルガに帰りやすくなる」
「そうなんです!」
チルガ、という懐かしい名前に、私は顔をほころばせた。ボスリン山を越えた先にあるチルガは、かつて厳しい皇女教育を受けた場所だ。しかし、それと同じくして私の第二の故郷でもある。
(ああ、早くマリーとアンに会いたいな。もう2年も会ってないんだもの)
あの二人には、身代わり皇女として立派になった私の姿を見てほしい気持ちも少なからずある。きっと二人は私の成長っぷりに目を見開いて、たくさん褒めてくれるに違いない。
それに、チルガにある今は亡き友人のお墓に花を手向けたい気持ちも少なからずあった。
「カリガルに到着したら、すぐに必要な人員を計算しますね。もちろん、報酬もしっかり提示しますので。ざっと計算すると月あたりの報酬は……」
頭の中でさっそくそろばんを叩き始める私に、イサク様は微笑んだ。
「お前は、あんな偉業を成し遂げた後なのに、休む間もなくもう次のことについて考えているんだな。本当に、お前は強い。しかし……」
イサク様はぐいっと腕をひいて私を引き寄せる。私は強制的にイサク様にもたれかかる形になってしまった。
「い、イサク様、なにを!?」
「今はその時じゃない。少し休んだほうが良い」
「わ、私はこの通り元気です!」
「それなら、その元気はカリガルまで取っておくことだ。今は寝てくれ」
「でも、イサク様!」
私の抗議を無視して、イサク様は微笑みながら私の肩を抱き、ポンポンと一定のリズムで叩き始める。まるで小さい子を寝かしつけるような仕草に一瞬ムッとしたものの、不思議なことにすぐに睡魔が襲ってきた。
(そんな、こんな簡単に寝かしつけられるはず……)
必死で眠気に抗いながら、私はイサク様の手から逃げようとした。しかし、イサク様の手ががっちりと私を掴んでいるのでそれも敵わない。
イサク様の身体は温かく、心地よかった。瞼がどんどん重くなっていく。
(ああ、もうダメ……)
薄れる意識とかすむ視界の中、ふとイサク様が微笑んで何か大事なことを言った気がした。
*
ホーリガルの森を、豪奢な馬車は進む。ふと馬を繰る御者がちらりと振り返り、馬車の中の窓を覗き込むと、微笑んだ。
王族とは、常にいがみ合うものだ。御者は、王族に仕えて長く、王族の醜い足の引っ張り合いを身近で見てきた。
――だからこそ、馬車の中で第一皇女と第二皇子がお互いにもたれかかって幸せそうに眠っている姿は、尊いものだと思わずにはいられない。
第一皇女は知恵に優れ、第二皇子は武勇に優れる。
これは、この国の誰もが知っていることだ。そして、知恵と武勇は時として相いれない存在になりうる。
現に、御者はカリガルに蔓延る不穏な空気を敏感に感じ取っていた。第一皇女と第二皇子の勢力の間には、すでに深い深い溝ができている。
そして、あの年若い皇女と皇子は、望むと望まざるに拘わらず、近い未来、果てのない権力争いに身を投じることになるのだろう。
「この二人が、とこしえに手を取り合ってこの国を統治すれば良いのだが……」
小さく呟いた願いは、騒がしく馬車が走る音にかき消され、誰も聞くものはいなかった。
イサクが口にした言葉は自由にご想像ください!
不穏な終わり方をしましたが、次回から最終章に入ります。
先日のひどい誤字脱字のご指摘本当にありがとうございました!





