58.強かな皇女
離宮についたのは、夜明け前だった。少しずつ明るくなる東の空を見て、私は少し目を細める。先ほどまで泣いていたため、眼の周りがかなり腫れぼったい感じがするけれど、心はかなりすっきりしていた。一緒にいてくれたイサク様のおかげだ。
馬車から降りて玄関のドアをそっと開けると、物音を聞いたジルがまっさきに駆け寄ってきた。聞けば、私とギルジオの到着が遅いことを心配して、夜通し待っていたらしい。
「皇女様! その恰好は、いったいどうしたっていうんですか!? ギルジオさんは!?」
「私は大丈夫よ。それより、商会からの帰り道に襲撃されたの。それで、ギルジオが私を庇って怪我を……」
「しゅ、襲撃された!? オフェリア様がですか!?」
ジルは真っ青になる。無理もない。平和なこの国で、まさか襲撃事件が起こるなんて夢にも思わなかったことだろう。
取り乱したジルがあれこれ質問するのを、後ろからやってきたイサク様が遮った。
「主君を心配する気持ちは分かるが、今は質問攻めにするのは止めてやってくれないか」
「あ……。すみません、確かにそうですね」
いつもの冷静さを取り戻したジルが、私を離宮の中に招き入れる。イサク様はゆっくりと微笑んだ。
「今夜は疲れただろうから、早く休むと良い。後のことは騎士団に任せれば大丈夫だ」
「今日は本当にありがとうございました。イサク様がいなかったら、今頃ギルジオも私も、どうなっていたことか……」
「騎士として当然のことをしたまでだ」
短く答えるイサク様の言葉はどこまでも頼もしく心に響いた。命を助けてくれたのに、恩着せがましさはどこにもない。本当に、当たり前のことをしただけだと思っているのだ。
(こういうところ、本当に敵わないなぁ……)
知れば知るほど、尊敬できるところが増えていく。分かりにくい優しさも、飾ることのないまっすぐな心も、素直でてらいのない言葉たちも。叶うことなら、もっと一緒に時を過ごし、もっと相手のことを知りたいと思ってしまう。
第一皇女と第二皇子という複雑な関係である以上、お互いを知りすぎてしまうと辛くなるだけだ。それならいっそ、相手のことをよく知らないまま嫌い合う関係の方がまだマシだろう。それくらい、わかりすぎるくらいわかっている。
少し目をあげると、イサク様とすぐに目が合った。私をずっと見つめていたのだ。もしかしたら、名残惜しいと思う気持ちは、同じなのかもしれない。
それでも、私には彼を引き留める資格はなかった。
私は優雅に頭を下げる。
「イサク様、それでは良い一日を……」
「あ、ああ……」
イサク様が何かを言いたげに私を見つめ、それから――……
「えっと、ちょっと待ってください!」
前触れなく、ジルが私たちの間に入ってきた。
「もしかして、イサク様はこのままお帰りになる気ですか!?」
「……そうだが、何か問題があるのか?」
「恐れながらイサク様、この時間は、早出の文官たちがすでに王宮に出仕し始めている時間帯ですよ!? 今、貴方様がこの離宮から出て行けば、誰かしらが目撃することになるでしょう。そうなれば、『第二皇子が第一皇女の離宮より朝帰りした』という噂が、すぐに流れます!」
私は唖然とする。そんなこと、全く考えもつかなかった。おそるおそるイサク様を見ると、イサク様も私と同じようにハッとした顔をしていた。
そんな私たちに、ジルが腰に手を当てて大きくため息をつく。
「お二人とも、あまりに王宮の噂に頓着がなさすぎませんか!? もっと慎重になっていただかないと、先々絶対に苦労するんですからね!」
ずけずけとしたジルの歯に衣着せぬ物言いに、私とイサク様は揃って苦い顔をしたあと、顔を見合わせてふきだした。
*
「良いメイドを持ったものだな」
ジルが運んできたサンドイッチを優雅に食べながら、イサク様はゆったりと微笑んだ。窓から入ってくる朝の眩しい光が、イサク様の緋色の髪を一層鮮やかにしている。
私は不思議な気持ちになった。成り行きとはいえ、まさかイサク様と朝食を一緒に食べる日がくるとは思わなかったのだ。――いや、徹夜明けのこれは厳密に言うと朝食ではない気はするけれど。
「ジルは良い子です。利発で、頭の回転も速いし、王宮のこともいろいろ知っています」
「そうか。それはなによりだ」
「すごく、……ふぁ……、ジルには助けられているんですよ」
実際に、この数年ジルにはずいぶん助けられた。ジルは王宮の作法に詳しくない私に懇切丁寧、時には慇懃無礼にノウハウを叩き込んでくれたし、王宮の噂や流行、派閥なんかも適宜教えてくれた。
私の最初の作法の先生がマリーだとすれば、第二の作法の先生はジルだろう。
ちなみに、当のジルは私が昨晩ビリビリにしたドレスをなんとかして修復しようと奔走している真っ最中だ。つくづく頭が上がらない。
私はなかなか止まらないあくびと格闘しながら、サンドイッチをもそもそ食べる。昨晩は夕食を食べ損ねてしまったので、実に半日以上ぶりにありつけたご飯だ。それなのに、いろいろなことがあった今、正直なところあまり食欲がわかない。
一方のイサク様はかなりお腹がすいていたようで、あっという間にペロリとサンドイッチを平らげてしまった。
「ああやって、いろいろと指摘してくれる人間は大事にしなければならない。耳の痛い話を聞かなければならないし、腹も立つが……」
「そうですねえ」
そうはいっても、私の周りにはジルのようにずけずけと遠慮なく言ってくる人ばかりの気がする。少なくとも、私のご機嫌を取ってくる人間なんて、胡散臭い契約書にサインさせようとする時のアルボーニさんくらいだ。
寝不足で若干ぼんやりとなりながらサンドイッチを頬張る私を、イサク様は微笑んで見つめていた。
私は首を傾げる。
「……イサク様、食べ足りないようであれば、私のサンドイッチをさしあげますよ?」
「いや、いい。オフェリアが食べるところを眺めていたいんだ」
「それはさすがに恥ずかしいからやめてください!」
私がぶんぶんと手を振ると、イサク様は心底楽しそうに笑う。結局、私がサンドイッチを食べ終わるまで、イサク様は頬杖をついて私を見つめていた。
ジルがいれてくれた食後のお茶を飲みつつ、私は首を傾げる。
「イサク様は、眠くないんですか?」
「問題ない。夜警はよくやるからな」
「イサク様自ら、夜警を!?」
私はすっとんきょうな声をあげる。イサク様は笑った。
「夜警は騎士団の仕事の一つだ。俺が皇子だからと言う理由で免除にはならないからな。それに、夜警は臣民を守る大事な仕事だ。地味な上に大変な仕事であるが、絶対に疎かにはできない」
「……そうですね。昨日だって、私はイサク様に助けられましたし」
「そうだな。俺が騎士で良かっただろう?」
「ええ、本当に」
私は心から頷いた。
「……騎士たちのおかげで、この国の平和は守られていたんですね。私、騎士たちのこと、誤解していたかもしれません」
「まあ、今は平和な時代だからな。俺たち騎士団のことを、国庫を蝕む穀潰したちだと言ってくる奴らもいるのも分かる。……だが、いざとなった時に、この国は絶対に騎士団の力が必要になるだろう。だから、俺たちは、どんなに蔑まれようと、備えて、力をつけておくんだ」
背筋をピンと伸ばし、堂々とそう話すイサク様の目には、一片の迷いもなかった。私はそれを眩しい気持ちで見つめる。
「この国で平和に商売ができるのはイサク様たちのおかげですね」
「ふふ、逆に騎士は商人のおかげでうまい酒を飲めている。持ちつ持たれつ、だろう」
「あら、オフェリア商会でも、良いお酒を取り扱っておりますので、どうぞよしなに」
私は営業スマイルで微笑む。この場面においても商魂たくましい台詞が口から飛び出してしまうのだから、私は根っからの商人になってしまっているらしい。
「ふむ、近々オフェリア商会にも顔を出そう」
イサク様は興味深そうに頷くと、ふと窓の外に目をやって、声をひそめた。
「オフェリアは、今回の襲撃があっても街へ出るのをやめる気はないんだな?」
私は一瞬逡巡した。確かに、昨日の襲撃はショックだった。思い出すと身体が震えだしてしまうのも事実だ。
しかし、オフェリア商会に行くことを止める気は毛頭なかった。
「……ええ。恐怖に屈してしまってはあの不気味な男たちの思う壺ですもの」
私は重々しい口調で答える。絶対にあんな卑怯な脅しには屈したりしない、という決意表明でもあった。王位継承権を放棄することはもちろん、日常を変えてやる気もない。
イサク様は、しばらく私を見つめていたものの、ややあって小さく吐息をついた。
「まったく、あんなに震えて泣いていたのに、それでもなお意志を貫くつもりなのだな。お前は本当に強かだ。そういうところを好ましく思っているのだが、心配にもなる」
「ご心配には及びません。なにしらの対策は取ろうと思っています」
「……なあ、オフェリア。一つ提案があるのだが」
「提案……?」
「しばらく、俺の近衛兵をオフェリアにつけるというのはどうだ?」
「えっ、イサク様の近衛兵を?」
私は驚いて目を丸くする。
「そうだ。あいつらはとにかく腕が立つ。それに、信頼できる。安心してもいい」
「それは……。その、いいんですか? イサク様の御負担になりませんか?」
「なるわけがないだろう。それに、お前のためなら、多少の負担も厭いはしない」
イサク様はきっぱりと答える。
「元はといえば、俺の派閥のヤツらがお前を襲ったんだ。責任は俺にある。だから、俺の近衛兵を派遣するくらい、大したことでは――……」
「それはならぬ」
急に、後ろから声が降ってきた。
私がふりむくと、そこにはジルを連れた第一大公が立っていた。どうやら、音もなく部屋の中に入ってきていたらしい。
「おじいさま!?」
私がぎょっとして声をあげると同時に、イサク様はさっと立ち上がって深々と頭を下げた。
「これは、賢王のご尊父、第一大公様。お久しぶりです。相変わらず、お元気そうで」
「フン、小童め。だんだんあの忌まわしい父親に似てきおって。それに、話を聞いていればオフェリアのそばにお前の近衛兵を置くだと!? 冗談じゃない! お前の近衛兵など、信用できるわけがなかろう!」
普段のボケボケの姿からは想像もつかないほどの第一大公の厳しい口調に、私は驚いて硬直した。
しかし、臆することなくイサク様はすぐに反論する。
「しかし、第一大公、オフェリアをこれ以上危険に晒すわけには――……」
「ギルジオが放った伝令から、すでに話のあらましは聞いておる。貴様、オフェリアをこれ以上危険に晒すことは許さん。お前の身内の恥はお前がなんとかしろ。二度目があったら許さぬぞ」
ギロリ、と第一大公はイサク様を睨む。イサク様は何かを言いかけたものの、すぐに頷いた。
「御意」
まるで臣下であるかのように、イサク様は第一大公に大人しく従った。――いや、従わざるを得なかったのだろう。第一大公は、それほどまでに凄まじい剣幕で怒っていた。
(イサク様は確かに政敵ではあるけれど、さすがにいくら何でも怒りすぎよ! そこまで言わなくても……)
私は戸惑いながら第一大公をなだめた。
「おじい様、そんなに怒っては身体に障りますわ。それに、イサク様は私を助けてくださったんですよ。そんなキツい言い方をしなくても……」
「オフェリア、お前はこの男に対してどうも甘すぎる。全てこの男が仕組んだことかもしれないのじゃぞ!」
「イサク様はそういう方ではありません。それに、近衛兵の件だってご厚意によるものですし……」
「オフェリア、お前が死んで一番喜ぶものは誰だ? お前が死んだら、誰が皇帝となる?」
普段のあの優しい第一大公から発せられたとは考えられないほど冷たい一言に、私の心臓がさっと冷える。イサク様も顔を強張らせた。
第一大公は長く、重いため息をつくと、私の頭を優しく撫でた。
「オフェリア、お主もさぞかし怖い思いをしたなあ。もう大丈夫だ。疲れているじゃろうて、部屋に戻りなさい。ジル、オフェリアを部屋へ」
「承知いたしました」
ジルは短く返事をして、問答無用で私の腕を掴む。
「えっ、ちょっと待って……」
「お嬢さま、ここは大人しく撤退なさいませ」
ジルは切羽詰まった顔で私にささやく。どうやら、第一大公をこれ以上怒らせるな、と言いたいらしい。
(でも――……)
第一大公はイサク様のことを大いに誤解している。それに、イサク様に対しても、もっと話したいことがたくさんあった。
しかし、色々な気持ちを飲み込んで、私は頷いた。ここで余計な反抗をしないほうが良いと本能が告げている。なにより、第一大公を説得できるだけの証拠が私にはない。
私は立ち上がると、イサク様に頭を下げる。
「イサク様、最後までおもてなしできず、申し訳ございません。これにて失礼いたします」
「……ああ、疲れているのに付き合わせてすまなかったな。ゆっくり休むと良い」
「はい」
イサク様のヘーゼル色の瞳から逃れるように、私は踵を返す。第一大公に言い返せない自分が情けない。結局、客室のドアが閉まる最後まで、イサク様と目を合わすことができなかった。
ブックマーク、誤字の指摘等ありがとうございます!
気付いたら100ブクマいただいていたのでびっくりしました。今後もなんとか精進します!





