29.日常の終わり
この城に来て3か月。
私は相変わらず、慣れないドレスに袖を通し、数多の家庭教師にありとあらゆる知識を叩き込まれ、合間にマリーに毒づかれ、ギルジオからげんこつを食らい続けていた。
とはいえ、多少変化もある。
毒入り紅茶の一件以降、廊下を歩けば必ず聞こえてきた侍女からの私の陰口は止み、少しずつ私とすれ違う時に頭を下げる侍女も増えてきた。侍従たちも小馬鹿にした態度を改め始めている。
(少しずつではあるけど、この城の人々に受け入れられ始めた気がするな)
そう感じ始めた矢先、決定的な変化が私に訪れた。
始まりは爽やかな風の吹く初夏の夜。
私は落ち着かない気持ちで椅子に座っていた。首都から帰ってきたライムンドが珍しく私の部屋を訪れたのだ。
「ライムンド、首都の様子は変わりなく?」
私は急な来訪者に驚いた素振りを見せないように、慎重に微笑んだ。城に来て三か月も経てば、オフェリアの真似も板についてくる。
そんな私に、ライムンドは満足げに微笑んで恭しく頭を下げた。
「オフェリア様。ご機嫌麗しゅう。首都は相変わらずです。第一大公も忙しく過ごされております。それから、毒入り紅茶の一件。ギルジオから報告が届きましたが、まさか真実がわからずじまいになるとは……。残念でなりません」
最近ライムンドは私に対して丁寧な言葉遣いをするようになった。オフェリアに話すような口調だ。
私をオフェリアの身代わりに仕立てた張本人のくせに白々しい、と私は鼻白んだ気持ちになったもの、表情には出さない。
「雑談はともかく、貴方から私を訪ねてくるなんて珍しいですね。なにか重要な要件でも?」
「ええ」
中性的な顔立ちにつかみどころのない笑みを浮かべ、ライムンドは一枚の紙を差し出した。ツヤのある紙は、見るからに高級なものだとわかる。
「これは……?」
「女皇アマラ様より直々に、そろそろ出仕せよと御命令が下りました」
来たか、と私は思わず生唾を飲んだ。
イフレン王国の王位継承者たちは、皆18歳になれば王宮に出仕する。そこで、皇帝の側で帝王学を学ぶのだ。
オフェリアは現在18歳。秋になれば19歳となるため、タイムリミットは迫っていた。すでに出仕していないとおかしい時期だ。
私は受け取った紙を眺めながら頷いた。
「わかりました。出立はいつにしますか?」
「1週間後に。私も同行します」
「それは、……ずいぶん急ですね」
「仕方ありますまい。アマラ様の命令ゆえ」
直々の皇帝の命令、と言われてしまうと反論の余地はなかった。皇帝の命令はこの国では絶対だ。
私はギルジオを呼んで、即座に首都に移る用意をしてほしい、と伝えた。ギルジオは驚いた顔をしたあと、すぐに頷く。
こうして、慌ただしく出立の用意が始まった。
*
ギルジオの的確な指示のおかげで、出立の準備は慌ただしくもよどみなく進んだ。
私は、眠い目をこすりながらトランクに必要なものを手あたり次第詰めていく。昼間は意外とやることが多く、荷物をまとめる時間はもっぱら夜しかないのだ。
開け放した窓から、柔らかな潮騒の音が聞こえた。昼にちょうど染めたばかりの髪が夜風に揺れる。顔を上げると、亜麻色の髪の、上等なシルクの服を着た私が、窓ガラスに映っていた。最近やっと見慣れてきた姿だ。
「あーあ、せっかくこの城の生活にも慣れてきたと思ったんだけどな」
なんとなく同じ部屋で荷造りを手伝ってくれているマリーとアンに話しかけると、マリーは私を一睨みした。黙って手を動かせ、ということだろう。アンは苦笑する。
私はそんなマリーの無言の圧力にも負けず、私は話を続けた。
「このお城でやっと迷子にならなくなったのに」
最初は幾度となく迷子になった広いマレーイ城は、もう私の庭のようなものだ。
「私、絶対この城の魚料理が恋しくなると思うんだ」
この城に来てしばらくはテーブルマナーに気を取られて味わう余裕もなかった料理も、最近は味わう余裕が多少出てきた。チルガは漁業が盛んな街で、この城の魚料理はどれも絶品だ。
「それから、チルガ産の果実がたっぷり入ったケーキも恋しくなるなぁ。あとね、私はこの部屋の窓から見える景色も、嫌いじゃなかったのよ。それから……」
「いつでも、帰ってくればよろしいじゃありませんか」
唐突に、トランクに丁寧にタオルを詰めていたマリーが口を開いた。返事を期待していなかった私は驚いてぽかん、と口を開ける。
「ここはオフェリア様の城。好きな時に戻ってくればよろしいのですよ」
「えっ、マリー……?」
呆然とする私をマリーは正面から見つめる。相変わらずマリーの表情は硬く、眉間の皺は深い。けれど、私を見つめる目は慈愛に満ちていた。
私は困惑する。
「マリーが優しいなんて、私、夢見てるんじゃ……?」
思わず口をついて出てしまった言葉に、マリーはいつも通りイヤミなほどに大きなため息をついた。
「夢ではありません。あれほど指摘してなお、最後まで失言癖が直りませんでしたね。私がいなくても、言動には十分気をつけなくてはいけませんよ。まったく、これから先が心配でなりません」
「えっ、どういうこと? マリーは、一緒に王宮に行ってはくれないの?」
「ライムンド様より、事情を知っている者は、この城に残るように言われております」
「事情って、私の正体のことよね? それじゃあ、アンも一緒に行けないってこと……?」
アンに目を向けると、アンも悲しそうに頷いた。
「そんな……。二人がいないなんて……」
「ギルジオ様も、この城に残ると聞いていますよ」
「ギルジオも!? まあ、オフェリアがこの城にいる限り、ギルジオはこっちにいるか……」
当たり前に私のことを支えてくれた人たちが、首都に行けばいなくなってしまうらしい。首都に行っても少なくともアンとマリー、そしてギルジオとはずっと一緒にいられると思っていた。
(三人がいなくても、慣れない王宮でオフェリアとして私はやっていけるのかしら……)
私は不安で胸がいっぱいになる。そんな私を、アンがそっと近づいて気づかわしげに肩を抱いてくれた。マリーは私を安心させるように、大きく頷く。
「いささか心配な点はありますが、オフェリア様ならきっと大丈夫。あれほどまでに大変な日々を乗り越えたのですから、自信をもって堂々としていればよいのです」
私の皇女としての振る舞いはまだまだ未完成で、きっと言いたいことは山ほどあるだろうに、マリーは優しくそれだけ言った。
アンもポケットから鉛筆と紙を取り出し、いつもの整った字で『大丈夫ですよ』とだけ書いて微笑む。
私は、鼻の奥がツンとするのを感じた。この城での日々が、走馬灯のように脳裏をめぐる。大変だったけれど、楽しい思い出も確かにある。故郷を離れたのはつらかったけれど、ここはもう第二の故郷だ。
私は、思い切り二人に抱きついた。
「二人とも、本当にありがとう。大好きよ!」
「お、オフェリア様! これはあまりに品位に欠ける振る舞いですよ!」
急に抱きつかれたマリーが抗議の声をあげた。私は気にせずに抱き着く腕に力をこめる。アンが恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「すぐにまた帰ってくるね。それに、もし許可が下りたら、二人をすぐに首都に呼び寄せるから」
「首都勤めなんて勘弁してくださいな。私はもう年なんですよ」
口では文句を言いつつも、マリーの表情はまんざらではなさそうだ。
私たちが笑みを深めた時、ふいにドアの外で侍従の焦った声が響き渡ったのが聞こえた。ドアの向こうがにわかに騒がしくなる。
私は二人から身体を離した。
「なんですか、騒がしい……」
そう言って、怪訝な顔をしたマリーが様子を見にドアを開くと、そこにギルジオが蒼い顔をして立っていた。急に現れたギルジオに、マリーが驚いて小さな悲鳴を上げる。
ギルジオの目は虚ろで、いつもの気迫が感じられない。いつから私の部屋のドアの前に立っていたのかは分からないけれど、何か大変なことが起きたのは一目瞭然だった。
私が要件を訊く先に、ギルジオが口を開く。
「オフェリアの容態がいきなり悪化した」
私たちは驚いて言葉を失う。
(オフェリアが……!?)
オフェリアとは二日前に会ったばかりだ。あの時は、確かに元気だった。またね、と言いあって別れたはずだ。
私の心中を代弁するかのように、どうして、とマリーがため息をつくように呟く。
「『最期の願い』を聞き届けに行くぞ。来い」
それだけ言うと、ギルジオは踵を返した。





