fragile 9
それから2~3ヶ月たったある朝、私は新聞の片隅に北条家令嬢失踪という見出しを発見した。
「智!」
慌ててまだ寝ていた彼を起こし、その記事を見せる。
すると智は
「大丈夫だって。
籠の中の鳥が、無事逃げ出せたって事だから」
とニヤリと笑い、窓から見える雲1つない空を見上げた。
結局、あの後「1回一緒に暮らしてしまうと、また元の生活に戻るのが勿体ない」というよく分からない理由で、彼は私の部屋に——表現は悪いが——転がり込んできた。
何がどう「勿体ない」のか疑問は残ったけれど、もう今までのように気楽な…けれど寂しさの付きまとう1人暮らしには、私も戻れそうになかった。
問題は…もちろんある。
会社へはひた隠しにしている私達の関係。
1部の人達にはバレバレで、かなり今更な気もするのだけど、ともかくも今まで通りあくまで同僚という事にしておきたい、という前提に変わりはない。
その為にも家を出る時は時間差で出なければならないし、帰りだって駅からは少し離れて歩く事に決めた。
それにしても社に提出する書類等、現住所の欄に智はなんて書く気なんだろう?
彼が今まで住んでいた部屋は出る時に処分してしまったというのに。
そう訊ねてみると
「俺に任せとけ」
と下手な詐欺師みたいな事を言って智は笑った。
そして、一緒に暮らすのであればもう少し広い部屋の方が…という私の意見は却下された。
彼曰く
「こじんまりとしたこの部屋の方が、私が何処にいても常に存在を感じられて良い」
のだそうだ。
彼が越してきた事によって、私の部屋も多少様変わりした。
まず、今まで使っていたセミダブルベッド。
それなりに体格の良い私達が寝るには少しばかり窮屈なので、彼の部屋にあったクイーンサイズのベッドと入れ替えることにした。
そして智が専らビールと冷凍食品の保管用として使っていた大型の冷蔵庫。
これもよく食べる彼に合わせてうちの小さい冷蔵庫と入れ替えられた。
忘れてはならないのが、エスプレッソ兼用のコーヒーメーカー。
これは智が新しく作ってくれたカウンターの上にでんと鎮座している。
けれど総じてみれば意外なほど智の荷物は少なかった。
無駄なものは一切なく、必要最低限の衣類に生活用品がほんの少し。
本やアルバム等の私物は全く見当たらなかった。
* * * * * *
あの時記憶を失い、そして幸いにも又取り戻した私は、すぐにお世話になった病院へ検診方々お礼に出向いた。
土曜の朝1番という事もあって静かな院内は比較的空いていて、すぐに診察の順番が来た。
ドアを開けると担当医と斎藤婦長がそこにいた。
「その節はお世話になりました」
2人揃って頭を下げると婦長は黙って私の肩を抱いてくれた。
問診と検査の結果、異常なしとお墨付きを頂いたので、もう一度お礼を言って診察室を後にする。
その足で私達は社へと向かった。
土曜だから殆どの人間は休みの筈だけど、電話で確認したところ、那月に野口君、田島君、美里に何故か江藤君も休日出勤にお付き合いしているという。
久しぶりの出社。
たった1週間休んだだけなのに、もう随分長い事仕事していないような気がした。
同時に来週から又忙しくなるぞ、と自分に喝を入れる。
「悠香さん!」
フロアに入るなり美里に抱きつかれ、私は途中で買ってきた差し入れのケーキを落としそうになった。
すかさず智がその箱を受け取って、空いていた机に置いてくれる。
「悠香さん、お帰りなさい」
その後ろで他の4人も微笑んでいた。
「皆…ありがとう。
ごめんなさいね、色々と迷惑かけて」
「なに言ってるんですか、悠香さん。
迷惑なんて、そんな事ないですよ」
迷惑かけてない筈ないのに笑顔で言いきってくれる美里や
「どうしても、と言うんだったら貸しにしておきますよ」
冗談ぽく笑い流してくれる皆の心遣いが、涙が出そうなほど嬉しかった。
1週間の休暇は事故に遭い2~3日入院後、自宅療養という事になっているらしい。
事実その通りなので、これについては言い訳に困らなくても良さそうだ。
「ほんっと良かったです、悠香さんが元気になって」
人数分紅茶を淹れてくれた美里がそれぞれにカップを配っている。
その横で那月が買ってきたケーキを紙皿に移してくれていた。
全員のケーキが行き渡った所で智が立ち上がった。
「では、紅茶じゃイマイチ締まらないけど折角原沢が美味しく淹れてくれた事だし。
とりあえず悠香の回復を祝って」
「乾杯!」
* * * * * *
結局どういうコネを駆使したのかは未だに謎だが、梓さんとその母親・婚約者の3人は彼女のお披露目及び婚約発表の前日に、謎の失踪を遂げた。
少なくともそう発表され、方々手を尽くして大掛かりな捜索が行われたらしい。
けれどもその行方は杳として知れず、そのうち世間から忘れられていった。
けれど私は知っていた。
彼らの失踪劇に智と…安藤さんが関わっている事を。
もちろん誰にも言うつもりはないけれど、それでも最初のニュースのすぐ後に智に訊ねた事があった。
「何とかと鋏は使いようって事さ。
ほら、よく言うだろ、蛇の道は蛇って」
「…?」
よくは分からなかったけれど、どうやら安藤さんの伝手らしいという事だけは分かった。
というか、やっぱりただの喫茶店のマスターという訳ではないのね、あの人。
智の旧友という事以外何も知らないけれど、時折見せる謎めいた表情と厳しい…冷徹と言っても良い表情。
何となく普通の人ではない気がしていただけに、今更驚いたりはしないけど…。
その「裏」ルートとやらで、彼女達は全くの別人に成りすまし、新たな戸籍と名前で新天地で暮らしていくのだそうだ。
「親父しつこいからな、やるからには徹底してやらないと。
見つかって連れ戻されたりなんかしたらそっちの方が可哀相だろ?」
——過去の全てを捨て、新たに生きてゆくという事か。
それはそれで可哀相な気もするけれど、彼らの選んだ道なのだから…と私は軽く頭を振った。
「それよりさ、悠香」
いつの間にか後ろに立っていた智が両腕を回して抱きついてきた。
「梓に会った時、悠香の様子がおかしかったような気がするんだけど…。
何かあった?」
もう随分前の事なのに、未だに覚えていたのかと彼の半端じゃない記憶力に舌を巻く。
…もっとも、こっちにとってはあまり思い出したい事ではないので、正直忘れていてくれた方が良かったのに、と思ったりもしたが。
「…何でもない」
「何でもないって顔じゃなさそうなんだけど?」
あの時の事を思い出すと、未だに顔から火が出そうなほどの恥ずかしさに襲われるのだ。
「じゃあ忘れたって言ったら…?」
「え?…だって覚えてるんだろ?」
訳が分からない、と言う風に顔を覗きこんでくる智から視線を逸らすと、両手でやんわりと顔を包み込まれ優しく元に向けさせられる。
「…で?」
にこやかな催促に、私はこっそり溜息をつきながら、ややぶっきらぼうに答えた。
「…私が馬鹿だったって事よ」
「ナニそれ?」
目をぱちくりしながら何度も聞いてくる彼に、結局全てを白状させられる。
「分かったでしょう?
馬鹿って言った意味が」
殆どヤケクソ気味に智を睨むように見つめると
「ホント馬鹿だなぁ、悠香は…」
と智は笑いながら私の頭を撫でた。
「ごめんなさいねぇ」
膨らませた頬を智は指で突付いて、それからやたら嬉しそうに私を抱きしめた。
「…妬いてくれるって事は、それだけ俺の事が気になってるって事だろ?
だったら嬉しいけどな」
「……ホント?」
『もっと俺の事を信用しろよ』とか
『ナニ馬鹿なこと言ってる訳?』とか。
そんな事は一切口にせず、笑いながら抱きしめてくれる智を上目遣いに見あげる。
「だって…すごく馬鹿みたいじゃない、私。
何も知らないで勝手にヤキモキ妬いて…」
「可愛いから許す」
優しい口調とは裏腹な、何か企んでいる時に見せる表情でニヤリと笑うと
「それとも許してもらう為なら何でもする…?」
と智は私を挑発した。
「…事と次第によるわ」
——なんか、ものすごーく嫌な予感がするんですけど。




