視線の先
迂闊にも、俺は今まで今西 悠香という女性を知らなかった。
聞けば経理の国枝(こっちも面識はないが)と共に社の野郎共の人気を2分しているという、ナイスバディな綺麗どころだというではないか。
おまけに本人には内緒らしいがファンクラブなる物もあると聞いて、ほんの少しだけ気を引かれた。
「あの今西さんを知らないなんて、もぐりですよ」
「悪かったな。
で、どれが今西さんとやらなんだ?」
そんな別嬪がなんだって今まで、俺の「センサー」に引っ掛からなかったのだろう。
しかしながら、その今西とやらが男の庇護欲を刺激するような、儚げで可愛らしいタイプに違いないと勝手に思い込んでいた俺は、指差された女性を見て正直あ然とした。
女性にしては高い身長に、割あいしっかりとした体つき。
決して太っては見えないし、出るトコは出ていてそれでいてキュッとくびれているウエストなんかは、どう見たって女性でしかないのだが。
それにしたって髪をひっつめにし、化粧も控えめ。
おまけに油まみれ。
男顔負けの大声を出しながら作業している彼女が、わが社のアイドルだとは…俄かには信じられなかった。
「あの…つなぎの人が今西さん?」
「彼女、技術系ですからね。
今も部品の組み立てだとかであんなかっこしてますけど、見てくださいよ、あの胸。
それに彼女の笑顔ときたら…もう絶品ですよ」
「…ふーん」
その時はその程度の印象しかなかったのだ。
しかし後日、矢野本部長に引っ張られ参加したあるプロジェクトにて、改めて顔を合わせた時
——おや?
と思った。
以前見たつなぎ姿ではなく、グレーのスーツ姿の今西さんは、確かに服装が違うだけで受ける印象もずいぶん違っていた。
前に見た時はひっつめていた髪の毛も、ちゃんと手入れされているし、サラサラして触り心地が良さそうだ。
化粧は相変わらず地味だが、ベタベタ塗り重ねていない分、好感が持てる。
何よりも、矢野本部長と雑談している時に見せる屈託のない可愛らしい笑顔。
癒し系だと聞いてはいたが、なるほどそうかもしれない。
それがいつの間にか…
「心配で仕方ないって顔に書いてあるけど。
惚れちまったかい?」
「惚れる?勘弁してくださいよ。
そんなんじゃないですって。
ただ…なんてーの?
そうだなぁ、騎士道精神みたいなヤツ?
か弱い女に、何でもかんでも重荷をしょいこましちゃならないってね」
既に顔馴染みであった技術部・根岸部長とのいつもの軽口。
「ボランティアか?らしくない」
「…ですよねぇ、全く」
何だってこんなにも気に掛かるんだろう?と我ながら不思議でならない。
一緒に仕事をするようになってまず目に付いたのが、彼女の不思議なアンバランスさだった。
優しそうな見た目とは裏腹に、そん所そこらの野郎よりも肝が据わっていて、何事にも動じないのだ、彼女は。
かといっていわゆる「無神経」な人種では決してない。
むしろ誰よりも細やかな心配りを見せ、それが押し付けがましくない所がまた良い。
更に技術系なだけあって、商品の知識は誰よりも深く、何を訊ねても的確に答えてくれる。
仕事一筋で何の面白みもない真面目人間かとも思ったが、いつだって彼女の周りに人が集まっている所を見ると、どうやらそれも見当違いのようだ。
しかし密かに男共の視線が集まる豊かな胸と、優しい笑顔から誤解されがちだが、彼女は意外とガードが固い。
技術系なんて男社会の最たる部署で、開けっぴろげと言えば聞こえは良いが、デリカシーの欠片もない連中の中で、うまく立ち回っているらしい。
その手の輩をあしらうのもなかなか上手く、少しでも気を抜けばセクハラの嵐が吹き荒れる中、何を言われても平然としている。
もっとも、それで調子に乗って手を出すヤツにはきっちりと「仕返し」をして、二度とバカな気を起こさぬよう撃退しているらしいが。
気がつくと、俺はいつも彼女の姿を探していた。
* * * * * *
「あぁ北条君、今日の晩はあいてるかね?
昼からの商談が先方の都合で19時半からになったのだけれど、生憎私は都合がつかない。
今西君1人を行かせる訳にもいかんし、君に代わりに行ってもらいたいんだが」
廊下で矢野本部長に呼び止められ、断る間もなく時間と、この近辺でも有名な高級料亭の名が告げられる。
「俺、いや、自分でよろしいのですか?」
プロジェクトに参加させてもらっているとはいえ、部外者の俺が何故?と首を捻っていると
「君でなければ務まらんのだよ。くれぐれも頼むぞ」
…何がくれぐれなのか、取引先が到着後すぐにわかった。
時間通りにいそいそと現れた先方の部長は、俺も同席しているのを見て、僅かに眉を顰めた。
しかし今西さんが、俺を矢野本部長の代理だと紹介すると、違う意味で眉を顰めた。
敢えて口には出さなかったが、「管理職でもないこの若造が本部長の代理だと?」と思ったであろう事は容易に想像がついた。
こんな時、営業1課主任の名刺が意外に役に立つ。
「初めまして。
営業1課主任北条 智と申します」
肩書きが全てだとは言わないが、海千山千の1課の名を出しただけで相手の態度が変わるのだから。
肩書というのも、時と相手にはよって便利なものだ。
案の定、舐めきった視線はやや改められ、様子見という雰囲気が漂う。
そして、商談とは名ばかりの親睦会が始まり、普段ならお目にかかれないような手の込んだ料理が次々と運ばれてきた。
当然上手い料理には旨い酒が付き物だ。
それはいい、仕事でなければなおさらだが。
しかし、初めこそ「紳士」の化けの皮をかぶっていた部長も、酒が進むにつれてその本性を表しだした。
営業スマイルで(さすがにそう長くはない付き合いながら、今西さんの作られた笑顔と本物の笑顔くらい見分けがつくようになっていた)酌をする彼女の手を取り、自分の横へつけとしきりに催促する。
お水関係ならまだしも、取引先の担当者にそれはないだろう、と内心呆れつつ今西さんの顔色をそっと窺ったが、彼女は笑顔でそれをあしらっていた。
結局、2人がかりで酔い潰した先方の部長をタクシーに乗せ、なんとか送り出す。
矢野本部長にメールで報告し、個室に戻ると今西さんは縁側に座って月を見ていた。
「お疲れさん。
大変だね君も…色々とさ」
「そーなんですよ。
おかげでお酒、強くなっちゃって」
と言って今西さんはけらけら笑った。
——よく笑えるな、あんな露骨なセクハラの後で。
無理しているのか、図太いのか…。
一瞬判断に迷い、率直に聞いてみる、
「こんな事、よくあるの?」
「よく…ではないけれど、ごくたまに。
いつもは矢野本部長か根岸部長が居て下さるから、大丈夫なんですけれど」
「…上職がいない時は?」
「今日みたいに酔い潰しちゃいます」
あっけらかんと言う今西さん。
あまりにも平然としているから、セクハラ如き堪えていないのか、と勘違いしてしまいそうになる。
「危なかった事とか…ないの?」
「ありますよ、1回だけ押し倒されかけた事が。
でも股座蹴っ飛ばして逃げちゃった。
それからいくら飲んでも、他所では絶対に酔っ払わなくなったんです。
意識なくすのが…1番怖いから」
その時の事を思い出したのか、ブルッと身体を震わせた今西さん。
しかし、次の瞬間には笑みを浮かべ
「そんな事より呑み直しましょう」
と宣言した。
「まだ呑むの?」
正直、どんな神経?と思わなくもないが、断る理由もない。
「あら、もう帰っちゃうんですか?
こんなに月が綺麗なのに、お月見お月見」
あれほど呑んだにもかかわらず、全く危な気のないしっかりした足取りで部屋に戻り、徳利とグラスを持ってくる。
「全然北条さんにお注ぎ出来なかったから。はいどうぞ」
グラスを渡され、仕方なく胡坐をかいて横に座ると冷酒が注がれる。
「こんな美人のお酌で呑めるなんて、贅沢だよな」
「あら、お世辞言ってもこれ以上は何も出ませんよ」
フフッと笑いながら月を見上げる今西さんの横顔は、やはりアルコールのせいでほんのり桜色に染まっていて、これまで見た事がないくらい綺麗だった。
ついボーっと見つめていると
「こっちじゃなくてあっち!
今日は満月なんですから」
と頬を両手で挟まれて、ぐりっと顔を向けさせられる。
中秋の名月とやらではなかったけれど、確かに今日は空が珍しく澄んでいて、丸い月がよく見える。
「どんなに頑張ったって所詮私は「女」なんですよねぇ」
突然、ポツリと今西さんが呟いた。
「女性が人の上に立つって、結構大変な事なんですよね。
特にこういう分野では。
舐められない様に厳しくすると反発されて。かといって甘い顔してると付け上がられて。
女だからの1言で担当外されたり陰口叩かれたり…色々あるんですよ」
ハァ…と溜息をついて俺からグラスを取り上げると
「なんか呑み直したい気分。注いでいただけます?」
「仰せのままに、お姫様」
さっきみたいに加減して呑むんじゃなく、今西さんはクイッと一気にグラスを煽った。
「ちょっと気を抜くとセクハラの嵐だし。
おまけに油断する方が悪いだの、お前だってまんざらじゃないんだろうだの…。
冗談じゃないわ!」
グラスを強く握りしめ、俯いてしまう今西さん。
やば…。
泣かれてしまったらどうしよう?と少々焦ったが
「お代わり!」
にゅっと鼻先にグラスが突きつけられた。
「はいはい」
内心ホッとしながら酒を注ぐと、今西さんはまたも一気に飲み干した。
こんな時は何を言っても下手な慰めにしかならない事は分かっていたから、黙って空いたグラスに注いでやる。
1人で飲ませるのもなんだから、グラスと徳利をもう2~3本取ってきた。
ついでに座布団も取ってきて、今西さんに渡す。
俺の横に座りなおすと、今西さんはグラスになみなみと注いでくれた。
「…分かってるんです。
全部が全部、そういう人ばかりじゃないって事は。
だけど立場が上だからとか、得意先だからとか…。
そういうのを悪用するなんて卑怯です!」
俺がいなかったら、あの部長もあんなもんじゃ済まなかっただろう、と今更ながら沸々と怒りが込み上げてくる。
「北条さんが居て下さって本当に助かりました。
あの、本当にご迷惑をおかけして…」
怒りを隠そうと無表情になった俺の様子を誤解したのか、今西さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「あぁ、いや。
迷惑なんかじゃなかったから、それは気にしなくていいんだ。
むしろ俺がついてこれて良かったと思ってるから。
2人きりだったら君、かなり危なかっただろうし、そうならなくて良かったよ」
「でも…何か不機嫌そうに見えたんですけど?」
「同じ男としてあの部長にやり方に、ね。
俺でもそりゃないだろうって思ってたからさ、あの部長の君に対する態度には。
女を何だと思ってるんだか」
「あら、北条さんでもそう思われるんですか?」
心底そう思っているらしい口調に、若干へこみつつ
「君ね…俺の事なんだと思ってるの?」
わざとらしく肩を落とすと、いたって無邪気に切り返された。
「だって北条さんの「武勇伝」は耳に入ってきてますから。
女と見れば、まず口説くのが女性に対する礼儀だって公言して憚らない、とか。
誰にでも優しくて、その気があると思わせといて絶対自分からは誘ってくれない、とか」
ある事ない事を尤もらしく言うのがその手の噂だ、と分かっていても…。
今西さんに「そういう目」で見られるのも癪なので反論を試みる。
「公言なんかしてませんって。
それに、誰にでもその気があると誤解されるように接してる訳でもないしさ」
…何言い訳がましいこと言ってんだ?俺。
別に彼女でもなんでもない、ただの同僚に。
ふとそう思ったが、やっぱり今西さんに誤解されたままも嫌だったので、最後まで言い切った。
「向こうが…その、勝手に誤解してるだけで俺から誘ったりはしないぜ」
「でも優しいのは事実ですよね。
今日だって急だったのに来てくださったし、色々心配とか協力とかしてくれて」
これまた本心から言ってるらしい様子に、何だかくすぐったくなってしまい話を逸らす。
「でもどうして俺だったんだろうな、矢野本部長の代理。
くれぐれも頼むって念を押されたんだけど」
「あぁ、私がお願いしたんです、本部長に」
それってどういう事?と視線で続きを促すと今西さんは何故か顔を赤らめた。
「北条さんだったら、ああいうの見ても変に誤解も便乗もしないと思ったんです。
それに色んな意味で場数踏んでそうだから…実際そういう噂もよく耳にするし。
とにかく何かあっても丸く収めてくれそうかなって」
…でしょ?と笑いかけられて、少しばかり複雑な心境になる。
「便利な用心棒って事?」
「あら、頼りにしてるって事ですよ」
頼りにしてる、ね。
それって「保護者」って事か?と思ったが、あえて全く違う事を口にした。
「頼りになるついでに、家まで送らせていただきましょうか?姫」
「また今度お願いいたしますわ」
間髪いれずに爽やかな笑顔で返され、やっぱあしらうの慣れてるよなぁ、と心の中で両手をあげた。