fragile 1
みんなの「北条さん」でいる時の彼と、私だけの「智」でいる時の彼は、態度も表情も180度といってよいほど違う。
「北条さん」でいる時の彼は、隙がなくてよく気がついて、愛想が良い大人の男性だ。
それが「智」になった途端、甘えん坊で独占欲が強くて我儘で…要するに少々子供っぽくなる。
そのギャップに最初は戸惑いもしたが、今ではそれら全部ひっくるめて彼なのだと受け入れている。
むしろ彼がそんな顔を見せてくれるのは私だけなのだ、と誇らしくさえ思っていた。
それに決して自惚れる訳ではないけれど、「愛されている」という自負もあった。
事実、彼をよく知る人達からも、彼が私を見る目が他とは違うというような事を会うたびに言われていたので、やっぱり…どこかで思い上がっていたのかもしれない。
「さ…」
外出先で偶然見かけた智に声をかけようとして私は凍りついた。
通りを挟んで視線の先にいるのは智、そして見た事のない綺麗な女性だった。
しかもその女性が突然智に抱きついた。
その細い背に智の手が優しく回った。
その後の事は分からない。
だって…私は堪らずにその場から逃げ出してしまったから。
* * * * * *
「合コン?」
「えぇ、どうしても面子が足りなくて。
悠香が合コン好きじゃないのは知ってるけど…お願い助けて。
座っててくれるだけでいいから」
トイレでばったり会った同期の亜里沙に、いきなり顔の前で両手を合わされる。
「相手は医者に弁護士に、後は会社経営って人もいたわね。
とにかく身元のしっかりした人ばかりだし、ね、お願い」
「…分かった、でも今回だけよ」
「ホント?ありがとう、助かるわ。
本当に座っててくれるだけでいいから。
じゃあ18:45に月虹で」
…合コンなんて本当は全然興味なかった。
今まで誘われても、何かと理由をつけて断り続けてたのだが…今日は1人で家にいたくなかった。
誰でもいいから、大勢で賑やかにお酒でも飲んで盛り上がりたい。
そんな安易な考えが過ちの元だった。
月虹というカジュアルレストランにて、6対6の合コンが始まったのが定刻通りの19:00ちょうど。
医者に弁護士、会社経営、そして将来を嘱望されている一流企業のエリート社員etc。
確かに肩書きも見た目も、なかなかのレベルだと思う。
けれど多彩な顔ぶれの男性陣にも私はさして興味がなかった。
座ってるだけでいいと言われたし、別に自分を売り込みたい訳でもなかったので自己紹介もそこそこに箸を取った。
「今西さんとおっしゃいましたか」
向かいに座っている会社経営の…何という名前だったか?そんな事さえ今の私には興味がなかった。
とりあえず、その男性がしきりに話しかけてくるのにも、失礼のない程度に受け答えしながらジョッキを空けていく。
そこそこ賑やかでそこそこ構われてと思っていたのだけど、合コンというのはやはりまずかったかもしれない、と気がついたのは割とすぐだった。
なんと言ってもやはり「出会い」を求める場なのだ、という事を迂闊にも考えに入れていなかった。
おざなりの、どちらかといえば気のない応対にもかかわらず、向かいの男性は熱心に話しかけてきた。
「失礼、ちょっと化粧室に」
少しばかり相手をするのに疲れてきた私は、亜里沙をトイレに誘い
「もう義理は果たしたでしょ、そろそろ帰っても良い?」
と打診する。
「あら、でも折角盛り上がってきたところなのに。
それにあの人、向かいに座ってる島本さん、あなたの事狙ってるみたいよ。
彼なら見た目、肩書き、学歴共に問題なしで良さそうな人じゃないの。
それともあなた、ああいう人好みじゃないの?」
そういう事が問題ではない、と言おうとして私ははたと気がついた。
私と智…北条さんが付き合っているという事は公然の秘密であり、知らない人の方が多いのだという事を。
営業1課とごくごく限られた人達―いわば私達の味方―以外は知らない筈。
あんな現場を目撃した後だと言うのに、そういう問題ではないと、智に義理立てしている自分がひどく滑稽に思えて、苦笑が漏れる。
「好みとか好みじゃないとかそういうのじゃなくて…。
ちょっと疲れちゃったの」
それをどう取ったのか、亜里沙は
「そうね、あなた初めてですものねぇ」
などと少し納得したように頷いている。
本当は疲れたなんて口実に過ぎない。
だけど実際、胸がきりきりと締め付けられてるようで苦しい。
お酒を飲んでごまかして、強張った笑顔で取り繕って、心の中に吹き荒れる嵐を必至に隠している。
信じたい。
あれは「事故」なのだと。
智はもてるから、押しかけてきた女の人に抱きつかれて困っていたのかも…。
でも彼は、あの時自分から女性の背に手を回していた。
それだけなら、まだ何とか自分を納得させる事が出来たかもしれない。
少々苦しいけれど、躓いた女性を抱きとめただけとか。
あぁ……だけど、あの時の智の表情。
私やごくごく限られた相手にしか見せない、素の顔だった。
他の女の子達に見せる愛想の良い、けれど本心を隠した営業用の顔ではなく、プライベートな顔。
私の知らない他の女性にあんな顔を見せるなんて…。
それも往来で抱き合ったりして。
俯いてしまった私に慌てたのか、亜里沙は
「そんなに疲れたの?
なら適当に帰ってくれていいわよ、後は何とかするから。
ごめんね悠香、無理強いして」
と申し訳なさそうに言う。
——しまった。
話の途中だったのに、自分の思いに囚われて気を遣わせてしまった。
とはいえ、疲れたのは事実。
申し訳ないけれど、もう帰らせてもらおう。
「ううん、こっちこそごめんなさい。
じゃあ、そっと抜けるから後はお願いね」
時計を見るともうすぐ22時。
少し早いけれど、家に帰ったらシャワーを浴びてもう寝てしまおう。
そんな事を考えながらそっと店を出た。
——ふう。
やっぱり疲れたかも。
ある程度覚悟してたとはいえ、控えめながらも値踏みするように見られたり、イロイロと質問されるのをのらりくらりとかわすのは疲れるものだ。
私は今日何度目か分からない溜息をついた。
「今西さん」
と、その時つい今しがたまで私の目の前に座っていた彼が、追いかけるように店から出てきた。
「もうお帰りですか?
よろしかったらもう1軒付き合っていただけませんか?」
…確かに、見た目は悪くない。
なかなか整った甘い顔立ちだし、話し方も丁寧でそつがない。
服装だってブランド物だけど嫌味のないスーツを着こなして、落ち着いた色柄のネクタイをきっちり締めている。
…誰かさんと違って、ネクタイを緩めたりワイシャツの袖を捲ったりなんかしていない。
どちらかといえば今時珍しい礼儀正しく紳士的な人のようだ。
そんな人をこれ以上、変に期待させるのも申し訳なくて正直に打ち明けた。
「ごめんなさい、私はサクラだったんです。
数が足らないから頭あわせの為に出ただけで…」
けれど彼は意外にも
「やっぱりそうでしたか。
なんとなくそんな気がしていたんです」
とあっさりと頷いた。
「そう、見えましたか?」
だとしたら私もまだまだ修行が足りないわね、等と心の内で苦笑しながら聞いてみる。
「見えた…というか、雰囲気が。
他の方とは違うなって思ったんです。
そう…、積極的に自分を売り込もうとはなさらなかったから、ですかね」
——確かに。
「ごめんなさい、そういう訳ですので」
とはいえここで立ち話をする気も、またこれ以上付き合う気もなかったので、軽く会釈して立ち去ろうとする私を彼は引き止めた。
「よろしかったらお送りします。
ずいぶん飲んでらしたし」
「そんな、結構です」
「こんな綺麗な方を、夜遅くにお1人で帰すなんて事、出来ませんよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
押し問答になりかけて、何て言ったら納得してもらえるかと眉を顰めながら考え込んだ。
これくらい呑んだうちに入りません、じゃただの酔っ払いの強がりにしか聞こえないだろうし。
かといって恋人がいるんです、というのも…いかにもとってつけた様で、納得してはくれないだろう。
万が一本当にいるなら呼んで来い、と言われるのも厄介だ。
かと言って、善意の申し出(下心も多少は含んでいそうだけど)を無碍に断るのも…。
「さあ、行きましょう」
半ば強引に腕をとられ、このままでは本当に…と焦った瞬間、私の横に1台のタクシーが止まった。
「乗りますか?」
天の助けとばかりに乗り込み、続いて乗り込んでこられないよう、助手席の後ろに座ったまま頭を下げる。
すかさず運転手がドアを閉めてくれたので、私はホッと安堵の溜息をつきながら、背もたれにもたれかかった。
「大丈夫でしたか?
で、どちらまでいかれます?」
走り出して、そういえばまだ行く先も行ってなかった事を思い出し、少し考えて家の近くの駅名を告げる。
「助かりました。
でもどうしてあんなタイミングよく?」
「ずっと近くで客待ちをしてたんです。
いえね、じっと見てた訳じゃないですよ。
たまたま何気なく見たら、おかしな雰囲気だったもので。
お困りではないかと思いましてね」
「そう…だったんですね、ありがとうございました」
運転手の機転をありがたく思いつつ、私は軽く目を瞑った。
「お客さん、つきましたよ」
次に運転手に声をかけられた時、私は半分以上意識が朦朧としていた。
やはり呑みすぎてしまったのだろうか?と軽く頭を振って眠気を振り払う。
「大丈夫ですか?
なんならお宅の前まで回りましょうか?」
商売っ気7割、心配3割といった様子の運転手に
「大丈夫です。すぐ近くですから」
と言い、代金を支払って車から降りる。
商店街の端にあるコンビニで明日の朝食を買い、信号が赤だったので店の前の交差点で立ち止まる。
この通りを渡ればうちはすぐそこだ。
信号が変わったので、さして何も考えずに歩き始めた。
次の瞬間、キキーッと耳を劈くような嫌な音と眩い光、そして全身を襲う鈍い痛みに襲われる。
そしてその後は…。




