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仲違い〜悠香〜


彼を…北条さんを怒らせるつもりなんてなかった。


けれど私と彼の主張は、傍で聞いていたら感心するであろうという位、ものの見事に平行線を辿った。


お互い自分の意見が正しいと思っているし、私も少々感情的になりすぎてしまい、頑として譲らなかった。



「そういう所、お2人ともそっくりですねぇ」

と半ば呆れつつ、那月が溜息混じりに言った台詞に、2人同時に「どこが!」と抗議した事を唐突に思い出した。



ヒートアップしていく口論に終止符を打ったのは私の方。


「もういいわ。これ以上話す事はない」


素っ気なく言い、叩きつけるような勢いで千円札をテーブルに置いて、振り向きもせずに出てきた。


店を飛び出してすぐ雨が降ってきたが、頭を冷やすにはちょうどいいと思い、ぶらぶらと夜の街を歩く。



それにしてもこんなケンカは初めてだ。


基本的に、私が北条さんに対して文句を言う事はあっても彼がそうする事はない。


たとえケンカになりそうになっても、大抵彼が先に謝ってくれるので、今までは未遂で済んでいた。


あれほど愛想が良くて優しい北条さんが、不機嫌面を隠そうともせずにむっつりと黙りこくってしまう所を、私は見た事がない。


そう気付いた瞬間、急に取り返しのつかない事をしたのではないかという不安に襲われ、私は雨の中立ち尽くした。


あんなに強情を張るのではなかった、という後悔の念が波のように押し寄せてくる。



そう思ったら何だか堪らなくなって、私は踵を返すと彼のマンション目指した。


どうしたら許してもらえるか、なんて謝ったらよいのか、なんて見当もつかないまま、ひたすら歩く速度を上げる。


しかし彼のマンションの前についた途端…体が竦んで、どうしても中に入る事が出来なくなってしまった。


せめてエントランスに入って待っていれば…。


そんな事さえ思いつけず、ひたすら雨の降りしきる中、彼の帰りを待ち続けた。



冷たい雨が頬から顎を伝って落ちる。


額に貼付く髪が鬱陶しくて何度となくかきあげるが、結局また貼付くだけなので諦める事にした。


そのうちにまた一段と雨足が強まってくる。


6月とはいえ雨の振る夜の空気は肌寒く、濡れた身体から容赦なく体温を奪っていく。


30分とたたないうちに歯の根があわないほどの震えがきて、通りすがりの人が胡乱気に見つめていくのを俯いてやり過ごす。


自分のしてる事が恥ずかしいとかみっともない、なんて思いもしなかった。


ただ北条さんに会いたい。


ひたすらその思いだけで彼を待ち続けた。



「悠香!」


焦がれるほど待ち望んでいた彼の声。


あれほど会いたかったのに、いざとなると怖いなんて。


矛盾する気持ちに心を乱されながらゆっくりと振り向くと、心配そうに見つめる北条さんと目があった。



——あぁ良かった…それほど怒ってないみたい、と安心したのも束の間。


私の肩を抱いた彼は明らかに眉を顰め、強い口調で


「とにかく上がろう」


と言い、そのままマンションの中に入った。



——やっぱりまだ怒ってるのかしら?


チラリと盗み見た北条さんの顔は、唇を引き結び怖いくらい強張っていた。


彼のそんな表情に再び胸が痛みだす。



——やっぱり会わない方が良かった?

今からでも帰った方が…?


そんな私の逡巡など気付かないらしく、北条さんはドアを開けると


「ちょっと待ってて」


と言い、慌しく中に入って行った。


そしてすぐに戻ってくると、手にしていたタオルで私の頭を拭き、バスタオルを肩に掛けてくれる。


「上がって」


「…濡れちゃうわ」


尻込みする私の肩を抱き、強引にバスルームまで引っ張っていく。


「タオルはこれ使って、今着替え持ってくるから。

とりあえず風呂に入って温まる事!

分かったな」


言うだけ言ってバスルームを出て行こうとする手を咄嗟に掴んでいた。


「…悠香?」


「さっきは…ごめんなさい」


今、謝っておかなければ機会を逃したまま、この後また気まずい思いで顔をあわせなければならない。


そうなれば、おそらく彼が折れてくれるのであろう事は経験済みだけど…今回は自分も言い過ぎたなぁって、そう思うから。


上目遣いに見上げると、苦笑一歩手前の複雑な顔をした北条さんが私を見つめていた。


「北条…さん?」


その表情からは彼が何を考えているのかさっぱり読み取れなくて、心配になった私は


「まだ怒って…る?」


と訊いてみた。



「怒ってる」


少しだけ怖い顔をする北条さんの眼差しに、体が竦む。



「こんな雨の中、タクシーも拾わず傘も買わずに、しかも自分ちにも帰らずに外で、ずぶ濡れになりながら俺のこと待ってるなんて。

風邪でも引いたらどうするつもりなんだ」


問答無用で抱きすくめられる。


けれど彼の腕の強さが、そのまま私を心配してくれてた思いの強さだとわかり、心の底から嬉しさがこみ上げてきた。


「…濡れるわよ」


「じゃあ、悠香と一緒に風呂に入る」


一体何が「じゃあ」なのかはわからなかったが、有無を言わさずブラウスに手を伸ばされ、少々焦った。



「ちょっ…!北条さん!

そんな事、自分で出来るわ!

というか1人で入れるから!」


叫ぶように言うと、何か悪巧みしているような笑みを浮かべ


「じゃあゆっくりどうぞ」


とおとなしく引き下がってくれた。



彼の気が変わらないうちにバスルームから追い出し、フウッと一息をついて肌に張り付く服を剥がしていく。


かなり冷えきっていたらしく、ずいぶんぬるく設定したシャワーでも肌に刺さるようで、最初は我慢を強いられたのだけど。


こちこちに強張った体を優しく擦りながらシャワーを浴び、洗髪を済ませボディソープで

洗っていく。


そしてやっとバスタブに浸かると生き返ったような心地がした。


「悠香、湯加減はどう?

ぬるかったら「熱く」のボタン押したら少しだけ熱くなるから。

あと着替えここに置いといたから。

君の服はもう洗濯してるし」


声がかかった途端、あの悪そうな笑顔を思い出し両手で胸を隠したが、彼がそのまま出て

行った事に拍子抜けする。



——拍子抜け?


…ちょっと待って。

それじゃ何か期待していたみたいじゃないの。


確かに付き合い始めて結構たつ。

お互い子供じゃないんだから、そういう関係にいつなってもおかしくないとは思っていたけれど…。



それじゃ、何?

もしかして…このまま彼と「そういう関係」になっちゃうの?



——こ、心の準備が。



さっきまでの不安な気持ちもどこへやら。


急に襲ってきた現実に、私は眩暈がしそうになった。


肩まで湯に浸かり、これからどうしようとそればかりを考えてしまう。


けれど一向に良い考えも浮かんでこず、また少しばかりのぼせてきたので仕方なくバスタブから出る事にする。



いずれにしたって、ずっとこのままお風呂に入ってる訳にもいかないのだ。


なる様になれ、と腹を括って用意されていた着替えに手を伸ばす。


「…」


私には過ぎるほど大きい男物のパジャマの上下。


彼の物だという事は一目瞭然。

それとコンビニで買ってきたらしい新品の下着に、いつの間に?と思いつつもホッと息をつく。


女にしては背の高い方を自認していたけど、袖口や裾を何回か折り返してもまだ長いパジャマに、「異性」を意識してしまう。


その上、パジャマから洗い立てのいい匂いに混じって、仄かに香ってくる彼の匂いに胸がざわつく。


とりあえず、1つ深呼吸してバスルームを出た。



「何か呑む?」


リビングに行くとダイニングキッチンの方から声がかかった。


先に一杯やっていたらしく彼の手にはビールの缶がある。


「そうね、じゃあ同じの貰おうかしら」


よく冷えたビールを受け取り、少し距離を置くためにソファの端っこに腰を下ろしたつもりが、あっさり距離を詰められる。


「取って食いやしないって。

少なくとも今は、ね」


軽く触れるだけのキスを頬に受け、顔をあげるとなにやら含みのありそうな北条さんの笑顔がそこにあった。



「じゃ俺もシャワー浴びてくるから。

ま、テキトーにしてて」


そう言って彼もバスルームに姿を消す。


そういえば…北条さんの部屋の上がるのは初めてだと今更ながら思い出した。


家の前までとかはよくあったし、私の家には何度も彼を入れているのけど…。


改めてリビングをぐるっと見回してみる。


落ち着いて見てみると殆ど物のない殺風景なリビングだった。


このソファとシンプルなTVボード、そしてその上に乗っている大きめのTV。


壁際に作り付けらしいおしゃれな小棚があって、オーディオ機器が乗っている。


後はデジタルの時計が無造作に床に置いてあるだけ。


ちなみにダイニングキッチンには、食器ボードも調理器具の類も見当たらない。


辛うじてやかんだけが乗っているコンロも、おそらく殆ど使われていないらしく新品同様の綺麗さを誇っている。



——炊飯器もないって事は、どうやってご飯を食べているのかしら…?


勝手に開けちゃ悪いかと思ったけれど。


好奇心に負けて独身の、しかも料理をしないらしい男性の持ち物にしては大きすぎるほどの冷蔵庫をそっと開けてみる。


「…ナニ、これ?」


中に入っていたのはミネラルウォーターが3本。

有名なショップのアイスコーヒーが2本。

そして…数え切れないほどのビールの缶だった。


野菜室にはワインが数本転がっていて、冷凍庫にはこれまた呆れるくらい沢山の冷凍食品とロックアイスの山。


溜息をついて振り向くと、苦笑混じりの北条さんが立っていた。



「あなた、一体どういう食生活を送っているの?」


呆れが声に出てしまったことは否めない。


だって、本当に呆れていたから。


なんて生活感のない部屋…まるでモデルルームみたい。


「まぁそれなりに」


お鍋もフライパンも炊飯器もないのに、コーヒーメーカーが、しかもエスプレッソにもできる高性能なヤツがあるのが不思議でならない…。


まぁよく使い込まれているらしい電子レンジが、ここは独身男性の家だと主張しているようで妙に納得、なのだけど。


「こんな冷蔵庫、初めて見たわ」


「…落ち着いたようだな」


忘れていた訳ではなかったけれど、ずぶ濡れになった私を抱きしめた時の力の強さと彼のホッとした様子を思い出し、また胸がチクッと痛んだ。


「さっきはごめんなさい」


北条さんの首にしがみつくようにして肩に頭を寄せると


「謝らないで良いって。

と言うかこっちこそごめんな、俺も言い過ぎた」


相変わらず優しい彼の台詞に、思わず涙が出そうになる。


頭を振ると北条さんは片方の手を背に手を回しながら、もう片方の手で前髪をかきあげて額にキスしてくれた。


「北条…さん?」


何ともいえない切なそうな表情を浮かべて、私を見つめている北条さん。



「…俺はいつまで北条さんな訳?」


そう問いかけられて、ハッとした。


「いや、ここ俺んちだし、人目も気にしなくていいし。

名前で呼んでほしいかな~ってね」


想いを伝え合い恋人同士になったのだから、彼の望みは至極当然なのかもしれないけれど…。


「…」


至近距離で覗き込む彼の瞳が、熱を孕んでいるようで妙にこそばゆい。



「まさか、俺の名前知らない訳じゃないよな?」


「まさか!知ってます。

知ってはいるけど、ハードルが高いっていうか、いきなりはちょっと…」



高校生の頃、2日だけお付き合いをした彼氏もどきはいたけれど、正式にお付き合いをしたのは北条さんが初めてだ。


もちろん下の名前を呼ぶのも…。


「ちょっと…?」


「恥ずかしいというか、その…心の準備が、まだ」


29にもなってなんて言い草だ、と自分でも呆れるけれど。



なのに北条さんは天を仰ぐと


「…じゃあ10数えるから、その間に準備して」


と言った。


「短っ!」



——10秒って!



「それ以上は待てない」


断固とした台詞に冷や汗が出る。



「ほら、いくぜ。1.2.3…」


「ま、待って!」


「待たない。4.5.6.7…。

でもって、呼んでくれなきゃキスする」


焦ってストップをかけるも、更にハードルを上げる北条さん。



——んもう!なんでそんな意地悪なの⁈



「8.9…」


「さ…智、さん」



追い詰められて、緊張しながら囁くように名を呼ぶと、北条さんは片頬を歪めるように笑った。



——とりあえずはセーフか。


安堵の吐息を漏らしたその瞬間…。



全てを奪い尽くすような性急なキスが降ってきた。



  * * * * * *



結局するんかい!(笑)



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