早とちり
まっすぐ帰ろうとロッカー室に向かいながら、ふと先程「聞いた」話を思い出した。
思い出すだけで無性にイライラする。
手当たり次第に殴りつけたい心境、とはこの事だ。
だけど実際に殴りつける訳にもいかず…それで怪我でもしたらバカみたいなので、周りを見渡す。
そしてタバコの自販機を見つけた瞬間。
長い間吸っていなかったのに、何故か無性に吸いたくなって、私は1番軽いやつを選んでボタンを押した。
そのまま喫煙所に行き、中にいた人から火を借りる。
先程、探していた北条さんを会議室で見つけ、声をかけようとした私の耳に偶然こんな言葉が届いた。
「おっさん…じゃなかった、北条さんだってどーせだったら若くてピチピチしてる方が良いだろ?」
「んー?まぁな。
やっぱ20歳かそこらが華だよな。
25過ぎるとちょうど厳しいだろ?」
——若くてピチピチしてる方が…良い?
20歳かそこらが華…?
25過ぎは……厳しい?
咄嗟に私はドアの陰に身を隠した。
「身体のラインといい、肌の張りといい艶といい若い方が良いよなぁ、やっぱ」
「江藤、その言い方おっさんくさいぞ」
「アンタの方がおっさんじゃんか。
あーそれから今日の合コン、遅れんなよ」
男2人のたわいもない女談義、というには些かその内容が悪かった。
…少なくとも、私には。
さっきまであれ程吸いたいと思っていたにも拘らず、火を点けたものの片手で弄ぶだけだったタバコを、適当な灰皿に押し付けた。
そのまま喫煙室を出たところで、軽く溜息をつく。
20歳の頃付き合っていた彼の真似をし、吸っていた時期があったタバコ。
美味しいと思った事は実は1度もなく、その彼と別れてからは吸う事もなかったのだけど。
そんなタバコをじっと見つめて、もう1度溜息をついた。
煮え切らない、曖昧な態度しか取れない自分自身に。
彼が私の事をどう思っているのか。
実際のところ、他の誰よりも知りたいくせにその答えが怖くて、告白も出来ない臆病な自分。
もっと若ければ、当たって砕けようとも自分の気持ちをストレートにぶつけていく気になったのかもしれない。
けれど…この歳で玉砕はさすがに堪える。
かといって、諦めてしまう事など出来よう筈もなく。
同僚という付かず離れずの関係から、進む事も戻る事も出来ないまま、彼の言動に一喜一憂している。
「私ったら…なんかバカみたい」
「誰がバカだって?」
突然北条さんに声をかけられ、私は驚きのあまり手にしていたタバコの箱を取り落としそうになった。
「北条…さん?」
「今西さんってタバコ吸う人だったんだ」
私の手の中からタバコを取り上げ、北条さんは揶揄するように聞いてきた。
たったそれだけの、別にどうってことないセリフ。
責められてる訳でも何でもないのに、悪戯の現場を押さえられたみたいな気分になって
「返してください」
と私は幾分つっけんどんに言い、彼の手からタバコの箱を奪い取った。
「健康上もお肌にも良くないらしいぜ、それ」
親切で言ってるのは疑いようのない事実なのだけど。
それなのに何故か今は北条さんの一言一言に腹が立ち
「ほっといてください!
私がタバコ吸おうが何してようが、あなたの知ったこっちゃないでしょう?」
と食ってかかった。
「一体どうしたんだよ、疲れてんのか?」
気を悪くした様子もなく、むしろ心配げに顔を覗き込んでくる北条さんの顔を睨みつけて、私は低い声で言った。
「大体どうしてここにいるんです。
合コンはどうなさったんですか?」
「あぁ…」
途端に歯切れの悪くなる彼にますます苛立ち、尚も続ける。
「ここでこんな年増相手にしてないで、早く行かれたらどうですか?」
「あのね、自分の事そういう風に…」
「どうせ若くてピチピチしている方がよろしいんでしょう?」
「何の話だよ、そりゃ」
いきなり腕を掴まれ思わず身を強張らせたが、こうなってはもう後には引けない。
「だってさっき江藤君と話してたじゃないですか」
「はぁ?江藤と?
……って、それ、なんか誤解してるって」
「もういいです」
頭に血が上ってカーッとなっている一方で、冷静にこの状況を分析している自分もいた。
——明確な意思表示もしてなきゃ、現在付き合ってるわけでもないのに。
ナニ八つ当たりしてるの。
それって……焼きもち?
自分の行動に自分で突っ込んだ途端、思い当たる節が多すぎて私は言葉に詰まった。
「人の話を聞けよ」
背を向けた私の腕を引っ張って自分の方を向かせると、北条さんは続けた。
「言っとくけど、数合わせのために呼ばれただけで別に行きたくなんかなかったんだ。
ただどうしても今回は断れなかっただけで。
それに、俺はあんな乳臭いお嬢ちゃんやお水のようなお姉様方には興味ないの。
これっぽっちも!全く!」
「その割には、やけに嬉しそうにしてらっしゃいましたよね。
定時で切り上げて帰る時だって、いそいそと準備してらしたし」
ジトッと下から見つめると、北条さんは一瞬言葉に詰まり
「好きなんだ!」
と半ばヤケくそのように言った。
「…合コンが?」
そんなに力説しなくとも、と呆れつつ訊ねてみる。
その瞬間、傍目にも分かるほどがっくりと肩を落とし項垂れた北条さんは、しかしすぐに体勢を立て直し
「違うだろ!
何の為に俺が毎朝駅で待っていたり、毎日時間やりくりして昼までに戻ったり 、必死になって他の奴牽制してたと思うんだよ!」
何をやらせても卒なくこなし弁もたち、人当たりがよくて誰とでもすぐに打ち解ける「大人」な筈の北条さんが。
頭を掻きむしり声を荒げるなんて。
思いがけない展開に付いていけず、あ然としている私に彼は更に言い募った。
「俺が…俺が好きなのは、強情っぱりで鈍感で自分がどれほど魅力的が自覚がなくて… 。
あぁもう、何でわからないかな!」
「…え?」
「君だよ、君!」
がしっと私の両腕を掴み直し、がくがくと揺さぶりながら、開き直ったように叫ぶ北条さん。
「今西さん、俺は君の事が好きなんだ」
「……私?」
「そう、君」
怖いくらい真剣な瞳。
掴まれた腕にも無意識なのだろうが力が篭っていて、それがかえって今の言葉が真実だと告げている。
「でも若い方がいいって…」
そう、でも確かに私はそう聞いたのだ。
「グラビアアイドルだよ。
あの時、江藤と見てたんだ」
——え?
パチパチと2~3度瞬きをし、言われた意味を悟った途端、恥ずかしさとその他色々な感情がごちゃ混ぜになって顔が火照った。
「どうやら誤解は解けたみたいだな」
ふぅー、と長い吐息を漏らし
「これでも地道にアピールしてきたつもりだったんだけどね。
ここまで通じてなかったとは…」
苦笑しながら頭をかく北条さんの横顔を、私は呆然と見つめた。
——だって…北条さんって、社で知らない人がいない位かっこよくて、誰にでも優しくて、皆の憧れの的で…。
そんな…そんな人が私なんて、相手にする筈ないって、そう思ってたのに。
「…ン…に?」
「え?何、もっかい言って」
「ホントに?」
「嘘ついてどうするの。
何なら証拠でも見せようか?」
一体どんな?と思う間もなく抱き寄せられて
「…っ!」
気がついたら唇が彼のそれで塞がれていた。
咄嗟に目を瞑り彼の胸にしがみつく。
初めは触れるだけの優しいキスだったのに、いつの間にか貪るようなものに変わっていて、頭がぼうっとしてくる。
彼が腰を強く抱いて支えてくれなかったら、床にへたり込んでいたかもしれない。
「…これで信じてくれる?」
ぼんやりとしたまま、声がした方を見上げた。
「今西さんってば可愛い」
チュッと音を立てて再度唇を吸われ、ようやく私は正気に返った。
「北条…さん!」
「ナニ?」
至って平然と私を見つめる—しかも至近距離から—彼に焦りつつ
「あのっ…放してください」
情けない事に、自立が極めて困難な状態なので、北条さんに腰を抱えられてどうにか立っている。
しかも腰から下は、隙間なくぴったりと密着しているという有様だ。
「放してもいいんだけどさ、そしたら君立てないだろ」
にっこりと嬉しそうに言ってのける北条さんに、誰の所為ですか!と叫びたいのを堪えて
「いいから放してください。
誰か来たらどうするんですか」
とできるだけ冷静に、諭すように言う。
さすがに、それくらいの分別はついているだろう、なんて期待したのが甘かった。
「んじゃ、こうする」
「…んんっ」
またしても唇を奪われパニックになるのと、誰かの甲高い悲鳴が聞こえたのが同時だった気がする。
「きゃぁっ!…北条さん、何を…」
「見て分かるだろ。
子供じゃないんだから無粋な事聞くなよ」
声のした方を振り向きもせず、ほんの少し唇を離してそう言い放つと、北条さんは再び私をしっかりと抱え込む。
「北条さんっ!」
彼の胸を叩いて抗議するも、後頭部と腰をしっかりとホールドされた状態では大して力も入らず、逆にもっと強い力で抱きしめられる。
彼の背中越しに泣きそうな女の子の顔が見え、それが先日言いがかりをつけてきた受付の子だと気がついた。
見せつける気らしい北条さんの強引なキス。
でも人前で、なんて冗談じゃない。
舌が差し入れられた瞬間、思いっきり噛んで逆襲し、どうにか彼の腕の中から抜け出す事に成功する。
「てーっ。今西さん、何すんだよ」
「あなたこそどういうつもりですか?
人前でなんて信じられない!」
ろれつが回らないのが何とも情けないが、とりあえず抗議しておく。
「あ、人前じゃなかったらいいの?」
「北 条 さん!」
思いっきり睨みつけると、苦笑しながら北条さんは後ろを指差した。
「見せつけとこうと思ってね」
——やっぱり。
「見せつけるって…」
動けないまま、まだそこにいた女の子が悲鳴のような声を上げる。
「あのさ、俺がいつ『年増を相手にする訳ない』なんて言った?
勝手な思い込みで今西さんに失礼な事を言うな。
大体今西さんは年増なんかじゃないし、悪いが君より数倍は魅力的だ。
少なくとも俺にとってはな。
とりあえず、今後俺の今西さんに失礼な事を言ったら許さないからな」
決して大声を出している訳でも、荒々しい口調で言っている訳でもない。
けれど彼女はビクッと身体を震わせ、踵を返すと走り去っていった。
「逃げる前に今西さんに謝っていけっての」
「…誰があなたのですか」
「君が」
なんか…どさくさにまぎれて聞き捨てにならない事を言われた気がして詰め寄ると、言った本人は当然と言う顔をして私を指差した。
「えっと…もしかして迷惑だった?
キスとかしちゃって…その、人前で」
「当たり前です!
誤解されたらどうするんですか?
大体、合意のないキスなんてセクハラ以外の何者でもないじゃないですか!」
「え?イヤだった?あんな縋り付いてきて」
——なぜ、そこで自信満々?
私がセクハラだって騒いだら…どうする気なのよ、全く。
「それに、誤解って…今付き合ってる奴いるの?」
「そうじゃなくて!
あらぬ疑いを掛けられて、お互い困っているのに」
「え、なんで?
俺はちっとも困ってないけど。
むしろ大歓迎」
なんか…話が平行線を辿っている気がして、頭が痛くなってきた。
「あなた、自分が言ってる意味分かってます?」
「じゃあ聞くけど、今西さんはさっき俺が言った事覚えてる?」
「っ!…」
先程の強引なキスのせいですっかり忘れていたけれど…。
そういえばつい今しがた、目の前にいるこの人に告白をされたのだった。
思い出した瞬間カーッと頬が火照る。
多分耳まで真っ赤だろう。
まともに北条さんの顔が見れなくて、視線を逸らす。
「今西さん、こっち見て」
「…無理、です」
とてもじゃないけれど恥ずかしくって、顔を見るなんて事出来そうにないのに。
「悠香、こっち見てくれなきゃもっかいキスするぜ」
なんてからかう様に言われ、反射的に睨みつける。
けれど北条さんは一向に堪えた様子もなく、むしろとっても嬉しそうに続けた。
「悠香ってさ、好きでもない男にキスなんかされそうになったら、何があっても抵抗するタイプでしょ?」
「…あ、の、名前」
いきなり呼び捨てなんて、心臓がもたないからやめてほしい。
「俺、好きな子は名前で呼びたいんだけど…ダメかな?」
一転、眉を下げ縋るような瞳で見つめられる。
そんな目で見つめられると…。
明確な拒否の言葉がないのは了承の証、と取ったのか彼は話を続けた。
「最初のキスは一種の賭けだったんだ。
あれでもしぶん殴られたら、好かれちゃいないって…。
だけど殴られなかったしね。
それって“そういう事”だろ?」
ニコニコと実に嬉しそうに、そんな事聞かれても返答に困る。
「それは…あなたが強引にキスしてきたから逃げようがなかっただけで」
苦し紛れの言い訳だなんて、お見通しのくせに。
「じゃあもう1回キスしてもいい?」
なんて満面の笑みで確認するんだから。
「…バカ」
そんな事聞かないでほしい。
「その答えはYesだと勝手に解釈するぜ」
上目遣いに見上げると大好きな人の顔が近づいてきたので、そっと目を瞑った。




