ある異世界の話
「おかしい……! こんなの絶対におかしいですよ!」
パン屋の隅、レジの前。
私は木で出来たカウンターを、両の拳で強く叩いた。
店内に大きな音が鳴り響く。
「……おかしいのはアンタの頭じゃないのかい?」
店主のおばちゃんはそんなことでは怯まない。それどころか、蔑むような目線を私に向けてきた。
「なんで……! ………………なんでパンの耳が有料になってるんですか!? こないだまで無料でくれたじゃないですか!?」
「小麦の値段が上がったんだよ。それに有料ったって、たったの2ゴールドじゃないか。さっさと払いなさいよ」
「パン屋に来るのにお金なんて持ってくるわけ無いでしょう!? 買う気なんてないんですから!!」
「……アンタ、一発ぶん殴ってやろうか?」
おばちゃんが拳を作る。私はその拳をそっと両手で包み込み、おばちゃんの腰のあたりに戻した。気を取り直して、抗議を続ける。
深く息を吸い、怒りのボルテージを上げ、「パンの耳なんてサンドイッチで捨てる部分じゃないですか!! ゴミですよ、ゴミ! それを売るなんてどうかしてますよ!!」と私は、大人げもなく叫んだ。
「そのゴミを食おうとしているアンタもどうかしてるよ」
おばちゃんの反論だ。揚げ足を取ってきた。まったく、なんて大人げないんだろう!
「ああもう!! ああ言ったらこう言うんだから!!」
「こっちのセリフとしか言い様がないね」
私の頭はヒートアップ。おばちゃんの言い方は毎度毎度カチンと来る。彼女ときたら正論しか言わないのである。だが、彼女の発言がいくら正しくったって、ここで引くわけにはいかないのだ。
なんたって、お金がない。家には食べるものがない。パンの耳を頂けなければ、今日口に入れることができるのは、水と空気。最悪、雑草。……虫も栄養価が高いと聞く。
私の背後には会計を待つ長蛇の列。客たちは『いい加減にしてくれよ。まじで殺すぞ、お前』と言わんばかりの目で、おばちゃんと、主に私を睨んでいた。
「何も買わないんだったらさっさと帰りなさいな。後ろの連中に殺されるよ、アンタ」
おばちゃんが声のトーンを落として言う。
……どうしよう。確かにそれは、なくはない。
客の視線は殺人鬼。または百戦錬磨の殺し屋か。
常人とは思えないほどの鋭い視線だった。
……怖い。怖いですよ、あんたたち。そんなにパンに必死かよ。
命の危険を感じた私は、両手を挙げてゆっくりと店を退場した。
店を出れば、活気あふれる商店街が広がる。
町の名はスルアータ。イニジアと呼ばれる国の南東に位置する小さな港町だ。高層ビルなど見当たらない。代わりに遠くに城が見える。この世に電気などはなく、全てが魔導で動いていた。
町を歩くのは魔法使いや剣士、武闘家にシーフ。日本ではコスプレと間違われてしまいそうな格好の人々がそこら中にいる。
町を歩くのは人だけじゃない。獣人、竜人、リザードマン。エルフ、ハーピー、ケンタウロス。所謂、亜人と言われる者達が装備を固め、何食わぬ顔で街を闊歩していた。
この世界に来てから5年になるが、未だにこの光景は新鮮に感じられる。
私の名前は中原純也。
元の世界では霊能力者を生業としていた。
5年前、正体不明の闇に飲まれ、この世界に訪れることになった。
私を襲った、とても巨大な深い闇。あれは恐らく、こちらの世界の霊魂たちだったのだろう。
この世界で数年過ごし、私はあの闇に呼ばれた意味を少しずつ理解したつもりだ。
この世界では所謂、「霊魂」というものの存在が認識されていない。それ故に、除霊、浄霊と言うものがないのだ。そうなると、魂は救われずにいつまでもそこに留まったままになる。それに限界を感じはじめた霊魂たちが、他の世界の住人に救いを求めたのだろう。
その結果が、今の私だ。
この世界の霊魂たちは、私達の世界の霊魂とは違って、人を襲うことに積極的らしく、アンデットという形になって攻撃してくるようだった。それに対して住人たちは、物理的な、或いは魔導的な攻撃で霊魂の宿った物質を破壊し、退治していたらしい。
しかし、それでは一時的に霊を引き剥がしただけだ。根本的な解決には至らない。引き剥がされた霊は他の拠り所を探し、再び人々を襲い始めるだろう。
本来必要なのは浄霊なのだ。彼らの拠り所を奪うことではない。
そこで私はこの街で、現世と同じく霊能力者を始めることにした。とは言っても、霊という存在が認められていない世界。霊能力者と言ったところで、誰もピンと来ないだろう。
『アンデットバスター』
この世界では、それを生業にして生きている。
この仕事を続けていれば、いつか、現世に帰れる手がかりも見つかるかも知れない。
ギルドと酒場の間、細い道を通って裏道へ回る。薄暗い裏道を奥へと歩いていくと、小さなお菓子屋と食堂が見えてくる。その二つの間に挟まれた、小さな建物が私の事務所だ。
ドアを開けて中に入る。私はすぐさま事務所のソファに体をあずけた。限界だ。……腹が鳴る。丸一日、何も食べていない。食堂もお菓子屋もいい匂いを放ちやがって。安いからってこんなところに事務所を建てるんじゃなかった。
「よう。ナカハラ。珍しく遅い出勤じゃないか。……なんだよ死にそうな顔してさ」
事務所の奥の給湯室から若い女性、ロッタさんが顔を出す。
彼女はアンデットバスター事務所、唯一の従業員のロッタ・カルロッタさんだ。切れ長の目に、主張の少ない綺麗な小鼻。小さな顔に細い顎は、ストイックな彼女の生き様を表しているようだった。身長は160センチ程度で、彼女と並ぶとちょうど頭一つ分私のほうが高くなる。燃えるような赤髪、しかし、かなりのくせっ毛で、長い髪を後ろで縛っているが、縛った先の毛は綺麗に花開いていた。彼女は、代々続く剣士の血筋で、その細い体に似合わず大剣を振り回すことに長けている。
メロンパンをもぐもぐと食べながら彼女は私に近づいてきた。
「メロンパン……メロンパン……ああ……」
私は彼女のメロンパンに向かって手を伸ばす。……いや、いやらしい方の意味ではなく。
「……どうしたんだよ、そんなに飢えて。メロンパンはあげないよ。これ、私の朝ご飯なんだから」
「うう……そんなぁ。ひと欠片でいいので……。こぼれ落ちたカスでいいので……。なんなら表面を舐めるだけでも……」
「……そっちの方が嫌だよ。なんでそんなに飢えてんのさ? 先週にヴァネサ平原のアンデット討伐でがっぽり稼いだじゃないか。その金はどうしたんだよ」
「……もうないです」
「はあ!? あんた、あの報酬10万ゴールドはあっただろ!? 一週間で使いきれる額じゃないよ!?」
「すられまして……」
「すられた!? どこで!?」
「カジノで……」
ロッタさんが大げさに肩を落とし、大きなため息を吐く。
「……そりゃ『すられた』じゃなくて『すった』って言うんだよ。
……ギャンブル馬鹿が。心配して損したじゃないか。で、カジノでどんだけ使ったのさ」
「……全額」
「……こんな馬鹿初めて見たよ」
「待ってください! 聞いてくださいよ! 惜しかったんですよ!? もうちょっとで更なる大金が入るってとこだったんです!」
「……一体何に金を賭けたのさ」
「ポーカーです。あの時の手札は、K、3、5、8、10というアツイ手札で、これは来るなって思ったんですよ」
「……なんで来ると思えたんだよ。ブタじゃないか」
「考えてみてください! あとKが3枚くればフォーカードですよ!?」
「どのカードもあと3枚来ればフォーカードだよ! アホか!」
「とにかく今はお金がないんですよお……。早く仕事の依頼来ないかなぁ……」
「あぁ……。そういえば来てたよ。依頼の電話が」
「マジで!?」
私は嬉しさのあまり飛び上がる。
「まじ。不動産屋のグレイクって男からだ。まあ、例に漏れずアンデット討伐の依頼みたいだ。そろそろその男、事務所に来るはずだよ」
ロッタさんがそう言ってからすぐ、事務所の扉が開く。浅黒い顔の男が顔を覗かせた。
「さっき依頼の電話をしたグレイクだ。中に入らさせてもらうぞ」
男性はガニ股で、ズカズカと遠慮なく事務所の中に入ってくる。背が高く、高そうな紫色のスーツを着こなしていた。首には金のネックレス。腕にはごついブレスレット。指にはカラフルな宝石のついた指輪が、何個も何個も……。
――――間違いない! 金を持ってる!
私は姿勢を正し、背筋をピンと張ってソファに座り直した。最高の笑顔を顔に貼り付け、グレイクさん……様、に顔を向ける。
「いらっしゃいませ! グレイク様! 依頼でしたらなんなりとお申し付けくださいませ!!」
「現金な男だね。まったく……」
ロッタさんが、呆れながら給湯室に入っていった。