DUVET. (201810)
強い光を感じると意識が眩む。
日とは、こんな強いものだっただろうか。
黒ずんだ街の様子は、以前とそれほど変わらない。
いや、そう見えるだけか――あるいは内実こそ変化しているのかも。
歩む人間の群れ。
己が目で世の色を苦悦する者たち。
あるいは、色をも失い、酩酊をもって自らを保崩し続ける者たち。
私は前からずっとそれを見ていたのだろう。
習性となっているのか、いまでも私はそれを見続けていた。
風が吹いている。
いま、それは、どんな温度だ。
香りは深い。
木々と海辺のえぐみの濃さよ。
白くまばゆい小路から空を仰ぐ。
雲と、焦げた山。
……いつかの日、どこかもわからぬ縁日で、誰かがいた。
綿の菓子をねだっていた。
甘すぎると文句を言った。
そうだ、ああ、もう二度と会うことはないだろう。
傘を張って影に入る。
これ以上の光は、毒だ。
もとより毒かもしれないけれど。
***
雨の日はいい。
乾いた身に染み入る水分と音。
終焉の静けさにも似た、断絶の広がり。
この断絶の彼岸には相手がいて、此岸には自分がいる。
断絶だけが繋いでいる。
しかし断絶ゆえに繋いでいない。
ふと、命のことを想った。
それは狭間にて稼働するもの。
ならば、固定されたそれは鬼か。死か。
どちらだとしても、いくらか、見てきたような気がした。
ブザーが鳴る。逃げ遅れた蝉のような音だ。
誰かがこの家に訪ねてきたらしい、雨が強いこんな日に。
護身に棒切れを携えて、玄関にて扉を開く。
雨音が強まる。
濡れ鼠の後輩がそこにいた。
「降られちゃって。雨宿り、いいですか」
「天気予報も見ないのね」
「……オフですよ」
後輩、かつては同僚だった同種の者。
「タオルかなんか、貸してくれませんか」
「いいけど……どうして?」
「だからオフなんですよ。こんなときまで月月火水木金金とか勘弁して、寒いもんは寒いし」
「……?」
舌打ち。
懐かしい音だ、後輩のそれは何度も聞いた。
「このまま上がり込んだら家の中が濡れるでしょ」
「ああ、確かに」
その辺にあった手ぬぐいを渡した。
後輩はそれを顔先に近づけ、怪訝な表情を浮かべたあと、体を拭き始める。
「水を淹れてあげるわ。上がって」
「……いらない」
「そう」
後輩はとても優秀だった。
だから、私はずいぶんと嫌われていたように思う。
住所のことは教えていたが、雨を避けるためとはいえここにわざわざ来るとは。
「退役して、なにしてるんです?」
「生きてるわよ」
「でしょうね」
そう言うと、後輩は舌打ちひとつを残し、台所へ向かった。
勝手にあれこれ漁るらしい。
……本当に後輩だろうか。
こんな不作法なやつだったか。
しばらく経って、警笛のような音が厳しく鳴った。
やかんを火にかけていたようだ。
椀ふたつ、皿ふたつ、盆に載せられて運ばれてくる。
「そんなお菓子あったかしら」
「……奥にあったのよ」
なら、あったのだろう。
「あちっ」
「……?」
椀の中身をすすろうとした後輩が、目を白黒させている。
そそっかしい。
「調子はどうですか」
「見た通りよ」
「あんたの不景気な面からじゃなにも読み取れないんですよ」
「そんな顔はしてないわ」
「また、そうやって……」
後輩が顔をそむける。
少し、自分の顔が緩んでいるのが自覚できた。
「なんか……ないんですか。行きたいとこ、やりたいこと」
「そうね」
あったような、あるような。
ないような、もうないような。
「動物とか植物じゃないんだから……」
***
たまに、庭へ出る。
海の物とも山の物ともつかぬような、草、虫、土に石。
もはや整えきれるものでもないが、それでもたまに弄っていた。
草はたいがい茂っているし、ときには花にも恵まれる。
それがなかなかに心地いいことだったから。
動物と遭うこともある。
目が合った端から逃げるようなやつも、図太く近づいてくるやつもいる。
どちらも同じ動物だ。
逸脱もなく、懸命に生きる。
彼らの生の色はきっと淡く――世界をそのまま捉えている。
それでも生きるのだからたいしたものだ。
植物もすごい。
認知も意思もない彼らの形は、命そのものだろう。
伸びるときは伸び、枯れるときは枯れ、自らをいつも使い切っている。
その強さは、状況次第では星を覆い尽くすに足るもの。
命は繋がっている。
動物の命、植物の命、……人間の命。
いまここで草の根を掴む私の腕は、どこかにつながっているだろうか。
人間は強い。
彼らは物質の塊であるこの地、そこに新たな世を重ねて創設してみせた。
所有・支配といった概念で遍く覆い尽くすことにより、世界を更新したのだ。
結果、人間は霊長となった。
陸海空の存在を差配し、強力に命と関わる巨いなる種族へと成長した。
私たちは軒先を借りたに過ぎない。
……そもそも、私たちの体すら、ほとんど人間から借りたものなのだ。
***
「なにそれ」
「……?」
「なんであんたが不思議そうなのよ。こっちが、でしょう」
後輩がなにを言っているのかわからない。
「顔。……それ、血、ですか。もう乾いているみたいだけど」
「そうなの。鏡を見てないから、わからなかったわ」
「鏡って……」
洗面台へ向かい、すすぐ。
「取れたかしら」
「まだついてる……まったく」
いつの間にか上がり込んでいた後輩が、手ぬぐいでこちらの顔を拭いてくる。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
顔をそむけながら、舌打ちひとつ、後輩が言ってくる。
「あんた、軍舎の方に住めば? こんなあばら家にじゃなくて」
「理由がないわ。除隊済みだから」
「そんなのどーだってなるでしょ。一応は英雄なんですよ」
「覚えがないもの。恩給ぐらいは受け取ってるけど」
「……身の回りのことだって、ちゃんとできてないのに」
そうなのだろうか。
わからない。
「あなたが言うのだし、そうなのかもしれないわね」
「わかってるなら戻ってきてよ」
「もう私の体に使われていた装備は、他の人が使っているでしょうに」
また、舌打ち。
「そんなことはどうでもいいの。あんたは戦い続けた。いまの生活が、その対価として十分だとは思えない」
「あなたにはあまり関係ないことのような……」
「ないわけない。あたしはね、さんざっぱらあんたに嫌味を言われてきたの」
なんとなく、平行線だ。
でも、後輩が思いつきでなく、確固たるものをもって私に関わろうとしているのはわかる。
そうしたいからだろうか。
あるいは、そうしないと苦しいからだろうか。
舌打ちにまみれた後輩の顔は、目が三角になっている。
「……あなた、苦しいの?」
「苦しくなんかない!」
激高した後輩の声が耳を打った。
「あんたよ! あんたが、苦しいはずでしょうが!」
「…………?」
「どうしてそんな顔してられるのよ! ――あんた、体のあちこちを引っ剥がされて追い出されたのよ!? もうガタが来ているからって、戦えないからって、雀の涙みたいな捨扶持だけ持たされて、元いた場所からろくに関わりもない見知らぬ場所へ放り投げられたの! あんなに戦って戦って戦って、海も陸も空もなんもかんも取り返して、壊して、爆撃して、鏖にさせられて、人間どもの言う平和とやらと形にしたっていうのに!」
ちゃぶ台をふっ飛ばして近づいてきた後輩は、私の襟元を掴んだ。
なんて近い。
耳元で響くその声は、鳴り渡る管弦楽器のように私を劈いてくる。
「なによその顔、もう覚えてないってわけ?! あたしに戦い方を教えて、生き残れるようにってさんざんしごき抜いたのはあんたでしょうが! 『私はみんな知っています』みたいな顔をして、実際その通りみたいになんでもかんでもやっつちゃって、どこの戦場に出ても目の飛び出るような戦果を稼いで、そこらじゅうを木っ端微塵にしておきながらろくに怪我もせず身ぎれいなままで、笑顔が――ときどきだけこぼすその表情はとてもきらきらしていて――」
ああ、そうか。
私はそういう風だったのか。
もしくは、そういう風に見えていたのか。
どっちだったのだろう。
「――どうして、こんなところで、あんたはボロボロで、誰もがあんたのことを気にも止めない――――」
泣いている。
後輩が、ひたすらに取り乱して、涙を流している。
不思議な気分だった。
私の抱いている印象とはかけ離れた態度だ。
もっとこう、隙を見せれば後ろから刺してくるような腹黒と思っていたのだが。
どうして私のことでこうなってしまうのか。
後輩は言う。
たぶん、もっと報われてしかるべきだ、的なことを。
そうだろうか。
そうなのかもしれない。
だけど、どうすれば報われることができるのだろう。
私には生きたという実感がある。
どうしてかはわからないが、それだけがぽつんとある。
もはやどの命にも繋がらないそれは。
もしかしたら、寂しい、ということなのかもしれない。
いつか後輩も同じ想いを抱くのだろうか。
人間という種に居候した奇形の者として。
求めてもないのに呼び出され、過酷に身を置き、地に海に墜ちていったがらくたのひとつとして。
ああ、でも、困ったな。
私にはもう後輩にできることなんて。
もはや苦しめることしかできないだろう。
……いや、違うのか。
私は、彼女を苦しめることだけは、できるのか。
「ねぇ」
眼下にある後輩の泣き顔を見下ろしながら、私は言った。
視界の解像度では、彼女の目に映っていたであろう私の表情を捉えることはできなかった。
「あなたは、不必要に苦しむことを望むの?」
***
声が、聞こえる。
遠かったり。
強かったり。
あるいは、近く、弱く。
その距離と強弱が、私の感覚のすべてだ。
「せんぱい……」
誰だろうか。
少なくとも、私ではないように思う。
「知らない声ね」
「……いいえ。何度か、お会いしています」
「そうなの。ごめんなさい、わからなくて。非礼ならば詫びさせてちょうだい」
ただ、どうしようもなく音を拾う精度が低い。
もしかすると、風と話しているのかもしれなかった。
「いいえ。……でも、もし気にしていただけるなら、ひとつだけ」
「できることなら」
「なにか……なにか、ないのですか? 望むこと……願うこと。叶えたいことが」
感情の抑揚も捉えられないような聴覚だったが、それでもその響きはとても間抜けだったように思う。
和やかで、安らかな気分になった。
「……燃やしてちょうだい。私を。私の関わったらしいものを。灰は残っちゃうけど、なにも残らないよりはきっと良い」
だからだろう。
確固たるものなどなにもないまま、そんな想いがふわりと浮かんできたのは。
「どうして?」
瓦礫の積まれた園めいて。
価値などまるで砂のようで。
果てまで一切合切がただの薪。
それを私は世界と言う。
「あなたは、燃やしたかったのですか?」
「あなたは、燃やしたくないのかしら?」
「燃やしたいものだけでいい。ひとつも燃やさなくたって、かまわない……」
「……わかりました。優しいあなた」
それで。
なにかが済んだのかな、という気がした。
ただ単に、気が済んだのだという可能性もある。
波紋ひとつない。
細波ひとつない。
寂びている。