紅が紅茶を淹れて差し上げますね
「私って、紅茶に似てると思いませんか?」
そう聞くと、職員さんはこくりと頷いた。
首はそのままぼとりと落ちて、ころりと床に転がった。
「ですよねですよね! だから私は、自分の名前を『紅』にしようと思うんです、すてきでしょう?」
今度は、職員さんは何も答えてくれなかった。
女の子が「素敵でしょう?」って聞いたら、ほめて欲しいに決まってるのに。きっとこの人は、さぞかしモテないに違いない。
「いいですよーだ。どうせ私は、『烏』さんや『緑』さんみたいに、可愛らしくないですもん」
「『烏』に『緑』。なるほど、中々どうして、うまい例えじゃないか」
声がした方に振り向くと、白衣を着た女性が立っていた。モデルさんみたいな体型に、肩のあたりで揺れる絹糸みたいな黒髪。とってもきれいな人、うらやましい。
「緑茶、烏龍茶、紅茶。色や香り、味わいは異なれど、これらは全て、カメリアシネンシスという、同じ植物の葉から加工されたものだ。違うのは、製造方法、その一点のみ。ああ、確かにお前たちと似ているな。実験個体066」
緑茶は生葉に熱を加えて発酵を止めた後、揉んで乾燥させる。
烏龍茶は生葉を日干して、短時間発酵させてから揉みほぐして乾燥させる。
そして紅茶は……長い間萎凋して酸化酵素の働きを促して、最後に乾燥させる。
かわいそうな紅茶。
長い間放置されるなんて、さぞかし寂しかったことだろう。
「ふふ、どうか私のことは『紅』と呼んでください、きれいなお姉さん」
「ああ、これは失礼。確かに実験個体という呼び名は、いささか優美さに欠けるね。では改めて……紅。どうしてこんなことをした?」
両手で周りを指示して、お姉さんは私に問うた。
真っ赤な血だまりに、原形をとどめていない肉片が、たくさんぷかぷか浮いていた。
「どうして、だなんて。変なことを聞くんですね。決まってるじゃないですか。ここから出たかったからです」
「なぜ外に出たくなった?」
「もー、さっきから質問ばっかり」
「いいじゃないか。初めての喋り相手として、私ほど打ってつけの相手はいないぞ? どんな状況でも動じないし、何より、君が知らないことも何でも知っている」
確かにお姉さんの立ち振る舞いはとても堂々としていた。
他の職員さんたちは、わーわーぎゃーぎゃーとうるさくて、とても耐えきれなくなって黙ってもらったわけなのだけれど。この人の声はとても落ち着く。
「じゃあ、お姉さんの質問に答える代わりに、私の質問にも一つ答えてください。いいですよね?」
「ああ、いいだろう」
「ふふ、じゃあ言いますね。私は、『烏』さんと『緑』さんに会いに行きたいんです。だから、二人の居場所を教えてください」
私がそう言うと、お姉さんは「なるほど」と小さく笑った。
「分かった。二人は君と違って、外の世界に住んでいる。住所はここに書いてある。好きに探すといい」
「わー。準備がいいんですね。ありがとうございます」
「と、その前に」
お姉さんはメモ用紙を白衣のポケットにしまい込んで、代わりにハンカチを取り出した。
「その姿では、少々目立ってしまう。ちゃんとシャワーを浴びていきなさい。なにより――」
ほっそりとした指と、柔軟剤の良い香りがするハンカチが、私の頬を優しくなでた。
「――そのままでは、きれいな顔が台無しだ」
「……お姉さんは『女たらし』なんですか?」
「まさか。私は『きれいなもの』が好きなだけだよ。君は美しい」
そうだろうか?
私はお姉さんに手を引かれ、シャワールームへと足を運びながら、内心で首を傾げた。
見た目の美醜に関してはよく分からない。だけど、私の性根は曲がり曲がってひん曲がっている。
烏さんも緑さんも、私と同じはずなのに、写真で見た彼女たちは、とてもとても輝いて見えた。私なんかよりも、ずっと。
それはきっと、二人の心根が、魂の在り方が、美しいからだろうと私は思う。
だから会いたいと思った。
言葉を交わしたいと思った。
私が真っ赤な紅茶を淹れてあげて、それを飲み交わしながらお喋りをしたいと思った。
「さあ、行くといい。当面必要になりそうなものは、カバンにつめておいた。きっと警察が君を追うだろうから、うまく隠れながら生き延びなさい」
「ありがとうございます、お姉さん」
カバンの中には、着替えや財布が入っていた。私がシャワーを浴びている間に用意してくれていたみたいだ。
私はこの研究所の職員さんを、お姉さん以外全員殺してしまったから、警察に追われる身になるだろう。
日本の警察は優秀だ、なんていつか読んだ本に書いてあったし、それはちょっと面倒だなあと思う。
「……」
「くく。私を殺しても構わないが、どのみち明日には業者の人間がこの現場を目撃する。君が追われることには変わらないよ」
にやっと笑って、お姉さんが先手を打った。
「そうですか。なら、あなたのことも許してあげますね」
色々準備してもらった恩義もある。
優しくしてもらったら、優しさで返す。そういう人間でありたいと思う。
「あなた『も』ときたか。なるほど、さては君、罪悪感なんてみじんも覚えていないね?」
「ふふ、当り前じゃないですか」
人を殺した。たくさん殺した。
ただ自分が会いたい人がいるから、そのためだけに多く人生を終わらせた。
理不尽で利己的で傲慢で高慢で、百人に聞けば百人が悪だと断言するような行い。
だから何だというのだろう?
例え百人中百人が私のことを責め立てたとしても。
「私は、私のことを許しますから」
◇◇◇
『紅』と名乗っった少女は、年相応の可愛らしい笑顔を浮かべてそう言うと、研究所を後にした。
私は吐き気がするほど生々しい臭いのする部屋に戻って、腰かけた。
そういえば、結局、彼女は私の名前を聞かなかったな。
まあいいか。彼女にとって名前とは、そういうものなのだろう。
さて、実験個体064、065、066はクローン人間だ。
クローン個体の作成は、クローン元となるDNAを含んだ細胞核を未受精卵に移植することで作成されてきたが、人間の場合、母体となる人間の負担が大きいことや、研究倫理の問題から研究が進んでこなかった。
しかし秘密裏に進められていた研究では、近年、植物由来のクローン形成遺伝子を用いることで、人間から人間を生やすことに成功した。
早い話が、母体を用いずにクローン人間を作成することができるというわけだ。
研究倫理の問題は何も解決していないが、私たちは死産となった赤ん坊から遺伝子を取り出し、それを使って何人ものクローン人間を作成、様々な実験を行ってきた。
私の所属する第七研究所が担当していたのは、実験個体064、065、066を用いた、後天的環境要因が人間に及ぼす影響の検証だ。
遺伝子が同一な人間が、家庭環境や食生活、学校生活を経ることで、どの程度性格や趣味嗜好にばらつきが生じるのか、あるいは共通事項はあるのか、などを検証するのが目的だ。
これまで一卵性双生児など、ごく限られた条件でしか行えなかった実験についにメスをいれることができるということで、研究者たちは沸いた。
実験個体064、065、066は発生した後、それぞれ違う環境に預けられ、今年で十八年が経過した。
064は溢れんばかりの愛情を受け、何一つ不自由なく育てられた。決して甘やかされたわけではなく、時に優しく、時に厳しく、それでも根底には彼女への愛がたっぷりとつまっている。そんな裕福な人格者のもとに預けられた。
結果、彼女は自分に向けられた愛情を外に放出するような、慈愛に満ちた人間へと成長した。
065は、初期条件は064と変わらず、愛情たっぷりに育てられたが、十歳の時から全寮制の学校へ進学させることで環境を変えた。いじめがはびこるカースト社会、壮絶な成績争いなどを経て、彼女は優しさを兼ね備えた聡明な人間へと成長した。少し自己否定的な部分も確認されているという。
そして066は。
ただ、無視され続けた。
彼女は誰にも愛されなかった。
誰にも愛されず、誰からの愛も受けず。
ただ、無機質な研究室の中で一人、それでもすくすくと育った。
誰とも会話をすることがなかった彼女は、たくさんの本を読み、たくさんの知識を得て、それを私たちに知られないように稚拙に振る舞い続けた。
やがて彼女は自分が実験個体であること、自分と同じ遺伝子を持つ二人の自分がいることを知り――こうして研究所からの脱出を図った。
「私は私を許しますから、か」
その言葉は、彼女の人間観全てを表しているようだった。
誰にも愛されなかった彼女は、だけど誰かに愛されることを求めたから。
だから彼女は、自分で自分を愛した。
自分を愛し続けて、自分を肯定し続けた。
それが、彼女がこの研究所で十八年間、狂うことなく生き続けられた理由だろう。
「人は誰かに愛されなけば生きられない。愛の中でもとりわけ甘く優しい『肯定』という概念にたどり着いたのは、生存本能によるものなのかもしれないな……。くく、面白いじゃないか」
そんな彼女が研究所を出て、世に解き放たれた。
私たちの都合で分かたれた三人のクローン人間は、今まさに一所に集結しようとしている。
床に落ちたナイフをハンカチで包んで取り上げる。
「さあ、魅せてくれよ、紅。美しいほどにゆがんだ君の生きざまを」
そのままナイフを勢いよく自分の腹に振り下ろす。
人生で感じたことのない痛みと、大量の血が視界を赤く染めた。サイレンの音が、遠くから聞こえてくる。
ああ、どうか……どうか彼女の人生に、幸多からんことを。
◇◇◇
一週間後。都内で殺人事件が起こる。
被害者は首を深く切られており、即死だったと見られている。高架下のコンクリートの壁には、被害者の血で意味不明な文字が書かれていた。内容はこうだ。
「烏さんと緑さんへ。私は私に会いたいよ?」
こうして物語は幕を開ける。
研究所から逃げ出した少女は一人、鼻歌を歌いながら街の中を歩く。
二人の少女に紅茶を注いで楽しくおしゃべりする、そんな光景を夢見ながら。