第二節【異変】
エアリゼは、半ば焦っていた。
其の理由は、自身の胸に浮かび上がる刻印に依る物では無い。死神の様に舞い降りた運命は、無邪気な赤子の声の様に鎌首を衝き立てる。死が訪れる時は、そう遠くは無かった。けれど既に覚悟は出来ていたし、残された命を大切な者達の為に使いたかった。だからこそ、エアリゼは焦っていたのかも知れない。不吉な予感が、胸内に去来していた。些末な事で在ったが、心の何処かで引っ掛かっている。
昔から自分には、不思議な能力が備わっていた。竜の声が聴こえるのだ。対面した時は勿論なのだが、時として何も無い場所から聴こえる時が在る。後者の方は、自分の名を呼ぶのだ。何か言葉を放つのでは無く只、名を呼び掛けられるだけで在る。そう謂った時は必ずと謂って、何かが訪れる。其の声の頻度は此れまでは、数年に一度だった。処が今年に入って、二度目の事で在る。
一度目の呼び掛けの時は、自身の胸に《破滅の刻印》が浮かび上がった。其れを知った兄は、血相を変えて問い詰めてきた。大慌てで皇帝に謁見して、進言を呈していた。兄の対応も、皇帝の行動も、極めて迅速で在ったし適切で在った。兄は責務を熟す傍らで、帝国中を駆け廻り凡ゆる文献を読み漁っては希望を希求した。皇帝は直ちに三国会議を開いて、各国の王と取り決めを交わした。
其の結果、兄と皇帝の間に差異が訪れた。表面上では兄は納得していたが、心の奥底に慥かな炎の揺らめきを感じた。
其の感情は、憎しみだ。そう確信した時、エアリゼは慥かに竜の声を聴いた。
「良くぞ、参られた」
白髪が混じる初老のグラナス王が、僭越の笑みを投げ掛ける。
ダイナー帝国より北東に位置する場所。距離にして凡そ三百マイルの場所に在る国。其処に千年桜と《礎の巫女》に関する書物が在る。
聖地アリアドスには、千年に一度だけしか咲かないと謂われる桜が存在する。桜の開花の時期が迫る時、世界各国の中から数名に在る刻印が浮かび上がると謂う。刻印が浮かび上がった者から一名が選定されて、千年桜に生贄として捧げられる。そうしなければ、世界が滅亡すると謂われていた。五千年程前に一度、生贄が捧げられなかった事が在る。其の時に多くの命が、竜族や死霊の軍勢に奪われたと記されている。
今期の生贄に、エアリゼが選ばれた。
既に覚悟は出来ている。だからこそ、残された時間で多くの希望を残したかった。兄や皇帝の為に、残り僅かな命を捧げる心算でいる。今回の任務を通して、千年桜と《礎の巫女》の情報を持ち帰りたかった。此の先も幾千幾万もの年月を、誰かが犠牲を払わなければ為らない。エアリゼは其の命を、少しでも多く救いたかった。其の為に自分は動いている。
――異国の巫女よ。我が願いを聞き入れよ。
エアリゼの頭の中を、厳粛な老婆の様な声が響いている。アクアグランデに入国して、既に五度目の声で在った。恐らく声の主は、此の地を護る水竜皇で在る。水竜皇の加護を受けたアクアグランデは、小国で在りながら此の戦乱の世を耐え忍んでいた。エアリゼは過去に数度、此の国を訪れた事が在る。其の時には水竜皇の声は、聴こえなかった。何か異変が此の国で起きている。そう悟ったからこそ、厭な想像が脳裏を過ぎっているのかも知れない。
皇帝の命に於いて、グラナス王との謁見を求めている最中で在った。エアリゼ自身が所属する飛竜隊も、別室で待機している。少数部隊では在るが、ダイナー帝国が要する魔導騎士にも引けを取らない。中でも隊長で在る竜騎将カイラートは、一騎当千に値する力を有している。アクアグランデ程の小国で在らば、充分に脅威と成り得る戦力で在った。エアリゼの隣りでカイラートも又、佇立している。武力行使に対する抑制力としては、申し分が無い。
故にグラナス王との謁見は、容易に果たせた。
尤も其れは、予定していた物とは大きく逸脱した形でだ。グラナス王を囲む兵の数が、余りにも多い。兵の顔には生気が感じられず、まるで死人の群れを連想させる。一団は皆、武装している。グラナス王は笑みを浮かべているが、空洞の様な双眸には絶望的な闇を感じる。悪い予感は的中しているのだろう。王が危ない――其の考えが頭を過ぎった時、六度目の声が聴こえた。
――祠を訪れよ。
竜の声に耳を背けながら、エアリゼはグラナス王を見据えた。空洞の様な瞳には、底知れない闇が潜んでいる様に思えた。其の傍らで赤髪の青年が只々、此方を座視している。精悍で整った顔立ちをしていた。アクアグランデでに入国して、生気が窺える人間を見るのは初めてで在る。此の国は今、何かに蝕まれたかの様に皆、一様に生気が感じられないでいた。
青年の佇まいからは、微塵の隙も窺えない。カイラートやゾメストイにも、引けを取らない実力者だと謂う事だけは理解る。以前に一度、見えた事が在る。アクアグランデの第一王子グラン。其れが青年の名だ。好戦的な性格で、獰猛な戦をする事で識られている。
近日中に戴冠されると謂う情報が、皇帝から直々に伝えられている。正当な王位継承者だ。
「其れで其方は、どう謂った用向きで参られたのじゃ?」
さも興味が無いと謂った様子で、グラナス王が問う。グランは微動だにせずに、視線だけを此方に寄越している。周囲の兵は死人の様に只、虚の眼を向けるだけだ。はっきりと謂って、異常な光景で在る。
「王立図書館の観覧を、許可して頂きたく推参しました。勿論、無償でとは申しません。ドラグナー鉱石、二十キログラムを献上させて頂きます」
破格の取引だった。
ドラグナー鉱石は非常に貴重な鉱石で、王族や勇猛な将しか身に纏えない。其のドラグナー鉱石で重装備を一式、揃えてもお釣りが来る量だ。軽装備ならば、五式は作れる。
純粋に戦力の底上げに繋がるだけの量で在った。
「残念じゃが、期待には添えれぬな」
蓄えられた顎髭に手を当てながら、グランに目配せを送る。
言下の内に、グランの表情が嬉々と輝いた。
腰に提げた双剣が引き抜かれたのを見て、エアリゼの心搏が跳ね上がる。
どうやら悪い予感は、エアリゼを裏切らなかった様だ。
「戦だッ……。全軍、突撃しろッ!!」
グランの上げた鯨波の声と、カイラートの竜笛の音が重なった。
一瞬の内に、間合いを詰められていた。気が付けば、グランの左剣が振り降ろされ様としている。油断をした心算は無かった。純粋にグランとの力量に、天地の開きが在るのだろう。全く反応できない。回避が不可能な事だけは、理解った。
エアリゼが覚悟を決めるよりも、カイラートは素早く反応している。槍の切先で間髪、入れずに受け止めていた。
「いつまで、惚けている。直ちに、本隊と合流しろッ!!」
左剣を払い、間合いを広げる為に槍を大きく薙ぎながら、カイラートは号令を掛ける。今は余計な事を考えている暇はない。
――エアリゼよ。祠へ訪れよ。
又、竜の呼び掛けが、聴こえる。
不安とは裏腹に、苛立ちながらエアリゼは駆け出した。
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「安心しろ。兵には、手を出させない。お前は、俺の獲物だッ!!」
間合いを詰めようとするグランに、槍を衝き出した。刺突を躱し、右剣の腹に添わせながら、グランが突出してくる。間合いだけで謂えば、双剣よりも槍の方が遥かに有利で在ったが、あっさりと間合いを破られている。其の様に、異様な気迫を感じた。在る種の覚悟にも似た怒りの様な感情だと、何とはなしに思った。何故、そう思ったのかは正直、自分でも解らない。
カイラートは呪文の詠唱を舌で転がしながら、グランの動きを予測する。突進力を利用しながら、左剣に依る突きが飛んでくる可能性は非常に高い。グランとカイラートの力量に、差異は殆どと謂って無いだろう。攻撃を認識してから、反応していては余りにも遅すぎる。如何に相手の動きを読むのかが、明暗を分けるのだ。
にも拘わらずに、グランは感情に依って動いている様に感じられた。だからこその突進で在るし、迷いが無い分、速くて手が附けられないのだ。
自分自身が生み出した詠唱陣と、グランが生み出した詠唱陣が、奇しくも重なった。槍の重心を左に僅かに逸らしながら、左に半身を捻ってグランの突きを躱す。先程までグランと密着していた槍は、既に充分な間隙を得ている。
――詰まる処、此方に有利な射程圏で在る。
槍を掬い上げる様にして、切り払う。後ろに飛んで、躱すのは解っていた。詠唱陣が完成している事も、把握している。
互いの術が放たれるのは、同時で在った。両者の術式は、全く同じで在る。だからこそ、相殺し合ってリセットさせた。
二つの火球が打つかり合って、爆炎が上がる。城内の至る処が、衝撃で打ち捲けられている。爆炎が収まる前に、カイラートが動いていた。
「何故、お前は闘う?」
「俺が、王だからだッ!!」
カイラートの槍を受けながら、グランは問い掛けに答える。
爆炎の残滓が、両者の肌を焦がして往く。
「国の異変に、気付いていない訳では在るまい?」
「俺だって、此の国が壊れている事ぐらい解っている」
間合いを空けて、グランは言葉を続ける。
「だから、どうした。王が国の為に闘って、何が悪いッ!!」
「否、お前は正しいさ。王が死ねば、国も滅ぶ。此の国を活かすも、殺すのも……お前、次第だッ!!」
グランが会話に乗ってくれたお陰で、時間を稼ぐ事が出来た。竜笛の音を聴き附けて、カイラートの愛騎竜で在るヴァルキリーが到着した。甲高い飛竜の咆哮が、風と共にグランを打ち附ける。不意を突かれて、態勢を崩している内に、カイラートはヴァルキリーに騎乗した。
此れで圧倒的に、カイラートが有利に為った。
「知った風な口を、聞くなッ!!」
グランの持つ双剣の周囲を、王鱗紋が包み込む。
「既に、戴冠は済んでいたのか……」
非常に厄介な事態で在る。
王位を継ぐ時は、大抵の国は王鱗紋も同時に継承する。王鱗紋は聖地アリアドスに入る鍵では在るが、其の役目は其れだけでは無い。王鱗紋を起動するだけで、身体能力の向上と魔力を増加させる。集団で在る場合は、特定の条件を満たせば家臣の力すらも増加させる。此の国の現状を考えれば、脅威に為るのはグランだけでは在るのだが、其れでも戦局が不利に傾く可能性は大いに在る。
「双竜剣で、今から斬り裂いてやる。俺を怒らせた事を、後悔しやがれッ!!」