池、あるいは沼、そして抜け殻
布団を退けて気づいた。今日は天気がいい。
日が傾いてきたが、折角なので近所の池を散歩することにした。
都合良く人はおらず、一帯は澄んでいた。
湿って柔らかく沈みこむ感触。思えば草を踏むのは久々のことであった。
かちり、靴の裏に硬い感触。草の間に、赤い鋏が二つ見えた。ザリガニだろうか、既に抜け殻で、中身は無かった。脱皮のように綺麗な空洞。鳥の仕業か、あるいはネズミか。誰が食べたのだろう。
池の方を見やると、「きやう」と、ネズミとも小鳥ともつかぬ鳴き声が一つ、水面を跳ねた。
泥のような鱗と皮を見たが、蓮に隠れてしまった。顔は判らない。
二つ三つと「きやう」は連なって、蓮を揺らし、緑の間を尾びれが縫っていった。
その正体を思案しているうちに、葉の影に消えた「きやう」が、脳裏に浮かび上がる。
ネズミに似て、長い前歯と短い耳のある細い頭部は毛に覆われ、それは尾へ行くに従って魚類のものと思われる鱗に変わる。体側にはひれに近い四肢が並び、揺れている。
「きやう」は頭がネズミ、身体は魚の半鼠半魚であった。視覚の向こうに現れたこの像は、不思議と確信に満ちていた。
姿はわかった。しかし、その顔を直に見ることは叶わない。水面を覆う緑が、隠してしまう。
この池に潜む全貌は決して明かされないように思えた。
俺もこの池に入れば、きっと見つからないだろう。見つからぬまま、ここに潜む鼠魚の方餌になって、詰まる所鼠魚になって、やはり見つからぬままに過ごすのだ。
何と安らかなことか。
池にひかれるのを感じた。
底を覗きこみながら近づく。視界は下がっていき、四肢が曖昧になる。徐々に渇きを覚え、空気は異物に成り代わった。とてもここには居られない。水面が、安寧が迫る。
顔が浸かろうというところで、これでは惨めだ、格好がつくまい。と声がした。鋏が足を捉え、指に草が絡みつく。
鼻先一寸とないところで留まった。四肢の存在が帰ってくる。だが、依然ひかれるのである。鋏は鉛のように頑なであり、足は動かない。前のめりに手をつき、四つん這いになって覗き込むばかりだ。側から見れば実に情けなく、無様であったろう。
揺れる蓮が「きやう」と嘲笑う。全て鼠魚の仕業だと思った。奴らが抜け殻を吐き出して並べていたに違いない。罠だったのだ。既に奴らの気配は消え、初めから動くものなど無かったかのように池は沈黙した。
落胆した。一片の怒りさえ湧かない。
池に映る空は暗く、日暮れを過ぎていた。
残された殻が風に転がる。全て捌けたら、俺もそこに沈むのだろう。
しかしもう、ひかれなくなっていた。
今後もないだろう。
見逃した夕陽が、少しだけ心残りだ。
明日は晴れるだろうか。