キャッチャー中村
「言っとくけど。オレは完全試合なんか狙ってねえからな」
踵を返しかけた体にそう告げると、いつも落ちつき払った顔が、ふと笑みにゆがむ。
「ああ。おまえは、目の前のヤツを片っ端から返り討ちにしてやるだけだろ」
もう、一年近く、ほとんど二人きりでボールと意思を通わせ続けた相棒は、当たり前みたいに応じて、オレの左肩をひとつ、ミットで打った。
「俺はこれをど真ん中に構えてるから、おまえは自信もって、全力で投げ込んで来い」
エースを乗せる、甘いセリフ。
ただ、その後に、平然と変化球のサインを出してくるのが、中村の曲者なところで。
オレは、確かにベースの真上に構えられたミットに目を据わらせながら、サギだ、と呟く。
そこを目掛けて、スライダーを投げろってことは、つまりは内角攻めじゃねえか。
自信もって、全力で、バッターに投げ込む球といったら、ふつうはどストレートだろーが!
気に食わないサインなら、首を振って要求を拒否する権利が、投手にはある。
バッテリーを組んだ当初、オレはその権利を行使することに、何の躊躇いもなかった。
ボールを投げるのはオレなんだから、オレが投げたい球を投げたいように投げて、何が悪い。
実際、そう言って、中村と掴み合いのケンカになったこともある。
オレが考えを改めたのは、サインに首を振って投げたストレートをスタンドに運ばれて負けてしまった、秋の新人戦。
打たれた事実より、みんなの前で悪いのは自分だと頭を下げた中村の方が、オレには衝撃で。
その時、投球はバッテリーの共同作業なんだと、痛感した。
自分が、どういう意図でそのサインを出しているのか、理解し、信頼してもらえていないから、こいつは首を振ったんだと言った。
自分が、自分の判断に絶対の自信がないから、首を振るこいつに別のサインを提示してしまったんだ、と。
そう言われて、誰が、ただのわがままなんて通せるだろう。
中村の判断が、百パーセント正しいかなんて知らない。
でも、打たれたら、自分が責任を負うんだろうこいつなら、知ってるから。
「ストライク!」
内角に切れ込むスライダーで腰を引かせて、外角の速い球でファールを誘う。
手を出して欲しかった膝元へのボールは寸でのところで見送られて。
フルカウントからの、六球目。
真ん中低めを要求するスライダーは、滑る球ではなく、沈む球をよこせということ。
今日初めて投げるオレのウイニングショットにつられ、ストライクゾーンの真ん中を振り抜いたバットは、ボールをかすることなく、バッターボックスの外に着地した。
マウンドを駆け降りたオレに、寄ってきた中村が無言でミットを差し出す。
すこしよけいに日焼けしたような茶のグローブをそれにぶつけて、オレたちは似たような笑みを作り合った。
最終回の攻撃は、さっきは回ることなく終わった、三番、山野からの打順。
クリーンアップの三人で追加点を奪おう、と監督はハッパをかけていたけど、オレは、ベンチの最前列にできた数字の羅列を、日の当たらない場所からぼんやりと眺めていた。
歓声も、応援も、陽射しも、何だか壁一枚隔てた、別世界のことのように思える。
ああ、もしかしたら。
完全試合目前なんて、寮のベッド、朝の二度寝で見ている浅い夢なのかもしれない。