センター江口
「ヨネ」
不意の声に、残り少なくなっていたコップの中身が縁まではねた。
キャッチャーだけあって、中村の声は、よく通って無駄に響く。
「チェンジだ。行くぞ」
いっしょにはねた心臓を落ち着かせる方法が分からなくて。
焦りを隠すように、オレはドリンクをグッと飲み干してから立ち上がる。
第八幕は、やっぱり、相手の四番バッターからの打順で。
これまで、一人もランナーを出していない事実を裏付けていた。
オレは、スパイクシューズの底でマウンドの土をならしてから、被り直すべく取った帽子に、ふと視線を落す。
つばの裏のグリーンに、黒いマジックでいっぱいに書いた『全力投球』の文字。
そう、いつどんな時だって、目の前のバッターに全力でボールを投げ込む、それだけがオレの役目で、ポリシーだ。
結果は、その出来が勝手に連れてくる。
オレにボールを放った中村が深く膝を折ると、同時に、プレイ、と球審の手のひらがかざされた。
腿の間に隠れて、球種スライダー、コース外角のサインが踊る。
足の先は相手ベンチに向けたまま、右のバッターボックスから、白く、陽光をはね返すバットを横目で睨んだ。
オレは、グローブの中に突っ込んだ右手でしばしボールをこねると、合わせて気持ちを込めるように、胸に引き寄せた。
左膝を高く上げ、左肩で壁を作りながら体重移動をし、右足で投球プレートを蹴って、右腕を思いきり振り抜く。
「ストライク」
拳を握った球審の、低くくぐもった声。
バットの軌道からするりと横に逃げていくボールを捉え損ね、豪快に空を切ったからっぽの金属は、取り繕うようにベースの両端を撫でて、また天を仰いだ。
一度、盛大な空振りを演じたバットは、二度目の醜態をためらう。
そう読んでいるのだろう中村は、真っ直ぐ、ど真ん中、とサインを寄越して、どっしりとホームベースの真上にミットを構えた。
オレの相棒がふてぶてしいのは、今に始まったことじゃない。
いいけど、打たれたらおまえのせいだからな、と唱えて、オレは浮かびそうになる笑みを隠し、渾身のスピードボールをたたきつける。
中村の思惑通り、後悔に縛りつけられたバットは、微動だにしなかった。
あわよくば振ってもらって、三振狙い、のボール球を見逃されてからの、四球目。
サインはもう一つ、スライダーだった。
だったけれど、投げた瞬間、ヤッタ、と思う。
握りがすっぽ抜けた、不吉な感触の後に残ったのは、風を掴んだミットと、安っぽい鐘を打ったような、尾を引いて飛ぶ金属音。
そういえばこいつ、四番だったな、とぼんやりと思い起こす。
重い足を引きずって背後を振り返るオレの耳に飛び込んでくる、悲鳴と歓声の二重奏。
そして、オレの目に飛び込んできたのは、スカスカの外野スタンドに跳ねる白球、ではなくて。
高々と掲げられた、希望を飲み込むように影を集める、真っ黒なグローブだった。
外野フェンスに張りつく、バックハンドのジャンピングキャッチ。
プロ選手がやると、翌日の新聞には『ホームランを盗んだ』という見出しが走る、超ファインプレーだ。
「……う、そだろォ、江口ぃ」
おまえ、いつも、何てことないフライだって、オレの打率よりよっぽど高い確率で、落してるじゃねえか。
チーム一の駿足は、一番バッターとして出塁した際は、一つ先のベースを盗むため。
そして、センターの守備についている時には、無謀な突っ込みからダイビングキャッチを試みた挙げ句、相手のシングルヒットを、二塁打、三塁打にしてくれるためだけにあるのだとばかり、思っていた。
失投と失点、それらと引き換えに解けるはずだった完全試合という名の呪縛は、そう簡単にオレを開放してはくれないらしい。