8回表、攻撃中
「バッター、アップ」
球審の声で、オレは白いラインで描かれたバッターボックスに足を踏み入れる。
ホームベースを守るように腰を落したキャッチャーの背後から、プレイ、とコールが響いた。
相手投手が、両手を大きく振りかぶる。
追って引き上げられた、左膝。
それを見た瞬間、オレは、さらにとんでもないことに気がついてしまった。
オレのように、両手を胸の前にセットするだけのノーワインドアップモーションでも、高く膝を上げて投げることに変わりはない。
違うのは、ランナーが出ている場合で。
盗塁する間を与えないよう、大きなモーションを省いたピッチング方法に転じる必要があるからだ。
だけど。
オレは今日、そのクイックモーションを用いて投球した覚えがなかった。
ということは、一塁にランナーを置いていない。
つまり、ヒットを打たれていないだけじゃなく、四球も死球も、ただのひとつも与えずにきている、ということになる。
中村のヤロウ。
何が、狙っていけよ、だ。
ノーヒットノーランだって、意識して打たれまいとすればするほど、自分のピッチングを見失ってしまいかねない。
まして、完全試合ともなれば、味方のエラーひとつ許されなくなってしまう。
ただでさえ、ぽろぽろ、ぽろぽろと打球をこぼす野手たちが、そんな記録を前に浮足立ったとしたら、たったの二点差なんてあってないようなものだ。
もしこの試合に負けたら、オレたちの高校最後の夏は、そこで終わってしまうというのに。
今日の準々決勝を含めて、あと三つ。
三つ勝てば、県大会優勝を果たせる。
オレたちの目標は、全国大会出場──つまり、甲子園への切符を手にすることのはずで、目先の偉業の幻影なんかに気を取られてる場合じゃない。
二兎追うものは一兎も得ず、なんて小学生だって知っている言葉だ。
「ストライク、スリー!」
聞き慣れた宣告に、ハッと我に返る。
オレは一球もバットを振らないまま、見逃しの三振を喫したらしい。
実感のない駆け足でベンチまで引き返したオレに、ほら、と主将の山野がそっぽを向き加減で、たび重なる屋外使用を物語るキズだらけのプラスチックコップを差し出した。
「……サンキュ」
あいている場所に座って、コップの底が透けた、ぬるく水っぽいスポーツドリンクを喉に通しながら、オレは黒い手袋の口をしぼる、力の入った横顔を見つめる。
こいつが、オレに飲み物を渡してくれるなんてことが、未だかつてあっただろうか。
いつもだったら、何の抵抗もなくアウトを一つ相手に献上してきたオレに向かって、何のためにバットを持って打席に入ってるんだ、ぐらいの厭味はスッパリと口にするくせに。
もしかしたら、こいつも、他のみんなも、とっくに目の前にぶら下がった大記録のことに気がついてるのかもしれない。
だとしたら。
ボテボテのゴロでも、ゆるいフライでも何でも、打球を前に飛ばされるのは、危ない。
誰に、どんなエラーで足を引っぱられるか、分かったものじゃないし。
そのエラーが伝染でもしようものなら、これまでの好投も何もかも、ぶち壊しになってしまう。
かと言って、あと二回分、アウト六つの全てを三振に取ろうと下手に力めば、命綱のコントロールに狂いが生じ、オレ自身がフォアボールのループに陥りかねなくて。
いったいどうしたら、このまま、何事もなく試合を終えることができるんだろう。
いや、フォアボールの一つや二つ、出したっていい。
ヒットを打たれたって、結果的に勝ちさえすれば、それでいいはずだ。




