第2話 コンビニバイトはぶくぶくぶくぶくよくふとる
第2話 コンビニバイトはぶくぶくぶくぶくよくふとる
女はふっ飛んで床に倒れ込んだ。
男が体重をかけて全力で殴ったのだから当然だろう。
観客の間からナイロンを裂いたような悲鳴が響き渡る。
「起きんかコラ、誰が寝てええ言うた? ああ?」
俺は女の服をつかんで起こすと、また続けざまに顔を殴った。
女の顔から血しぶきが飛び散る。
警備員が駆けつけ、俺を押さえ込んだ。
「高岡さん、やめてください!」
「止めんなやボケが! 俺はこの女を…!」
「高岡さん! カメラ回ってます!」
「高岡さん!」
誰が通報したのか、俺はやって来た警察に連行され、そのまま逮捕された。
イベントは観客やスタッフだけでなく、ネットでも生放送されている、
目撃者の多さに言い逃れは出来ず、罪を認めるしかなかった。
逮捕は意外だった。
俺は所属事務所の看板だ、事務所がうまくやってくれると信じていた。
殴っても、それで殺しても逮捕されないと、事件にはならないと信じていた。
起訴までの間、留置中に弁護士を頼んで示談交渉をしてもらう。
示談が成立すれば不起訴処分に出来る。
弁護士からの連絡を待つ間、やる事はなかった。
メシは驚きの不味さだが、食えない事はない。
初日の所持品検査で、パンツ一丁に剥かれても特にどうこうってほどでもない。
時間は決められてあるが、たばこも吸える。
ところが起訴もいよいよ近づいたというのに、弁護士が面会にも来ないのには苛立った。
弁護士は待てど暮らせど来なかった。
どういう事だよ、ちゃんと契約はしたはずだ。
早く示談を成立させないと、でないと起訴されてしまう。
起訴されれば有罪は確定したも同然。
俺は何度も殴った、女は相当に流血していた…。
弁護士とはとうとう連絡がつかなかった。
俺は起訴され、留置場から拘置所へ移された。
ここでも身体検査はあり、今度は素っ裸に剥かれて自分の手で肛門を広げさせられた。
さすがにこれは屈辱だったが、俺の屈辱はこんなもんじゃない。
公判の結果、懲役が決まった。
初犯だったが女の傷害が重かった。
程度が重い、その具体的な内容なんかどうでもいい、聞く気もなかった。
俺は仮釈放までの3年を、刑務所で過ごした。
出所すると、そこにはもう声優としての道はなかった。
所属事務所からも解雇されていた。
俺が出演した作品が再放送される事もなくなった。
業界の友達も潮が引いたようにいなくなっていた。
逮捕前に持っていたスマートフォンを充電して、公衆電話から電話帳の番号にかける。
どの番号にかけてみても、出てくれる女などいなかった。
俺にあるのは悪い噂しかなかった。
「高岡言はやなやつだった」、「あいつの被害者は他にも大勢いる」、
「腐女子の恨みじゃね?」、「ざまあみろ」…ネカフェで検索すると、そんな事ばかり。
きゃあきゃあ言ってたのはどこの誰だよ、お前ら腐女子じゃねえの?
逮捕されるまで、俺を他の男声優と愛し合ってる設定にして妄想してたくせに。
幸いにも自宅マンションは持ち家だった、無理して買っておいてよかった。
住む場所には困らなかったが、生活していくには金が要る。
さっそくバイトを探したが、俺はもう40歳になっていた。
高卒で声優をしていたから、一般の企業での正社員経験もない、
しかも前科のあるおっさんなんかを雇ってくれるところはなかった。
それでもようやく近所のコンビニの深夜バイトにありつく事が出来た。
と言うのも、そこの店長が暴走族上がりの前科者だったからだった。
夜中に買い物に言った時、店長が誘ってくれた。
「コンビニは変な客多いから、前科者はありがたいんだよ」
もう行く先のない俺に、店長はそう言ってくれた。
コンビニの深夜バイトは客が少ない代わりに、清掃や品出しなど肉体労働が多かった。
バックルームで廃棄手続きの済んだ、弁当やデザートを食べるのが、
唯一のまともな食事であり、休憩時の楽しみでもあった。
バイトを始めて半年もすると、俺はぶくぶくと太りだした。
コンビニの弁当だけでも十分太るが、そこに中年太りも加わって質が悪かった。
でももう声優は辞めた、体型を気にしなくてもいいのだ。
あの頃は「イケメン」で売ってたから、少しでも太ると事務所がうるさかった。
髪も薄くなりおでこも後退した、毎日剃っていたヒゲも面倒で剃らなくなった。
無理して話していた標準語もやめた。
俺の変わり様にびっくりするだろうが、誰にも知った人に会う事はなかった。
休みの日はごみだらけのワンルームの部屋で寝ているか、ゲームでもしているか。
必要外に外出する事もなくなった。
その日もバイトが休みだった。
俺は散らかった狭い部屋の湿った万年床で、重たいふとんにくるまって寝ていた。
すると廊下でごちゃごちゃと賑やかな音がした。
その音はだんだん近づいて来、うちの前で止まった。
玄関のチャイムが鳴る。
俺を訪ねる者はない、たぶんセールスだろう。
無視を決め込むと、チャイムがぴんぽんぴんぽん連打された。
「じゃかましわコラ!」
俺は追い返そうとドアを開けた。
そこには見た事のある女が立っていた。
「あ…お前」
「やっ、久しぶり」
女は俺の声優生命を絶ったあの女だった。
やっぱり黒い革のコートを着ていたが、右目に黒の眼帯をしていた。
彼女は手を挙げてにっと笑った。
「今さら何しに来てん、お前が示談に応じんせいで俺は…!」
「うん、金は要らん」
「弁護士よこしたやろが、どないしてん」
「死んだ、たぶん事務所が殺したんだろ」
「は? お前も声優か?」
「声優ではないが、私も事務所に所属している」
女は俺の横をすり抜け、勝手に上がり込んだ。
ふとんの上にどかりと腰をおろして、女は言う。
「高岡言、今日は賠償の支払いを請求に来た」