深海はいつも夜 ‐しんかいはいつもよる‐
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…
頑丈な作りのお洒落な部屋に、私は首輪と手錠で繋がれ閉じ込められてしまったようです。
朦朧としていた意識は、少し時間を掛けながら、曇りの空が次第に晴れていくように私の元に戻ってきました。
晴澄夜は昔からよく私の言う事を聞く真面目な性格でしたから、何故か公務部に危険視されていることにとても憤りを感じていました。
…しかし、晴澄夜は本当に私の首を絞めていましたね。
本当に公務部の言う通り…あの子は危険な個体だったのでしょうか?
何故私を殺そうなんて突飛な事を。
何故突然我儘を通そうとしたのでしょうか。
私のようにクオリアというものがよく見えない人は、わりとありふれていて珍しくありません。
『クオリアが見える』というのは、霊感の有る無しに関係は無いものの、その様相にいくらか似ているそうです。
生まれつきはっきりと見える人、私のように存在も信じきれないくらい何も感じない人、素質の個人差で多くのパターンがあると聞いたものでした。
今でこそ、オカルト的な側面やテレビの特集などでクオリアを扱う人達が広く知られるようになってきていますが、
クオリアそのものが見える事も無い私のような人には、不安を煽り立てたいだけの大掛かりな戯言とすら思えてしまいます。
そんな科学的な根拠も無いあやふやな存在感を持つクオリアというものは、文化的なキャラクター市場を活性化させることも多々あるようです。
一部の熱狂的なファンが『自分のクオリア』として創作の種にするのも、よく見られることとして馴染んでいます。
それはいつものように消費される、時代を彩るだけの流行だと思っていました。
が、噂は人々の間にふんわりと根を降ろし、稀にですが本気で『クオリア』の存在を主張する人も、公務部の仕事で会うことが増えたように思います。
晴澄夜もその一人になってしまったようでした。
まさか、幼馴染みが訳の解らないオカルト的なものに嵌まり込むなんて、思いもしないじゃないですか。
少し機敏さの無い晴澄夜を支え、至って『普通』にひた向きに努力してきただけの人生に、
…何故『幼馴染みが拉致監禁犯かもしれない』という、現実味の無いドラマが入り込んでいるのでしょうか?…
何故しっかりと頑丈な鍵が掛けられた地下の監禁部屋に、優しい弾力のゆったりとしたソファーベッドがあるのでしょうか。
床には充分な大きさのラグが敷かれ、簡単な水道設備があり、暖房が効いているのか雪が降り始めていたのに全く寒くありませんでした。
鞄や携帯など、私が持っていた物はさすがにどこにも残されていません。
この部屋は地下室の中でも奥の方にあるようで、音の響き具合から防音仕様になっているらしいことが判りました。
ここでいくら叫んでも、畦敷に助けを求める声を届けることはできないでしょう。
後ろ手に繋がれたままでは、鍵の仕組みや抜け出せそうな箇所を調べるのは難しいことでした。
手錠を掛けて、首輪を鎖で繋いで、頑丈な扉に鍵を掛けてまで、何故この和やかな部屋に縛り付けるのでしょうか?
とにかく今は何もできなさそうでした。
ソファーに針か何か仕込まれていないか慎重に確認してから、横身から怠く寄り掛かり、肘掛けに頬を預けます。
一体何故……… 疑問の符号だけが思考をめぐり、
このまま考えていても、何も解決できる気はしませんでした。
半分うとうとしていてどのくらい時間が経ったのかは判りませんが、ふと、向こうの方で地下室に誰かが入ってきたような、扉を開けて閉める音が微かに聞こえました。
何かを運ぶような若干慎重な足取り。
重みと面積のある男性の足音、自信無さげな小幅気味の間隔。
持っていた物を棚に一度置いたらしい気を遣った小さな音、そして頑丈な造りの通用扉を二度、ノックする音がありました。
「…すみちゃん…」
「起きてますか、都菜さん」
確認というよりは、復唱のようでした。
「すみちゃん、…どうして?
どうしてこんな馬鹿な事を…!」
晴澄夜は言葉を食い込ませることなく、全部聞いています。
「…やっぱり、馬鹿な事だと思います?」
「当然よ!…こんな…」
… 何でしょうか。
このまま話が流れていく雰囲気ではない。
「…」
無言の、冷たい空気。
晴澄夜の姿は見えません。
通風口の隙間から聞こえるごく微かな振動だけが、流れる自由を奪いました。
「…
都菜さん、夕食持ってきました。
とりあえずお上がりください、…毒とか…入ってないので」
「あ、 …ええ…」
特殊な作りのポストのようなものから、温かい夕食…海苔を巻いていない、まだ少し湯気の見えるおにぎり二つを受け渡されました。
「…あの、その取っ手を引き出すと、そのままテーブルみたいになるので…
一応いけると思います」
「………このまま?」
「そのまま」
後ろ手に繋がれたこの状態のままでは、きっと私は犬のように食べなければならないのでしょう。…
「…嫌ですか?」
「できれば…自由に手で食べさせて欲しいのだけど」
「…それはまだだめです
あの いいお米と水と鮭とサラダ菜なん」
「判ったわよ」
さすがにイラッとしました。
この拉致監禁犯が。
後ろの手で丁度こたつくらいの高さに引き出されたテーブルのようなもの、それに乗せられたお皿の上の二つのおにぎり。
私はその横に膝をつき、身を屈めて、屈辱的ともいえる犬食いをせざるを得ませんでした。
晴澄夜はこの私のあられもない姿を見ているのでしょうか?
私からは姿が見えなくても、どこから見えているか判ったものではありません。
趣味が悪い。
何故こんな奴が幼馴染みだったのでしょうか。
夕食は素材が良く、鮭が柔らかくかつ芳ばしく焼かれていて、とても美味しいものでした。
少し大き過ぎるとも思われたおにぎりは、焼き鮭を瑞々しいサラダ菜で丁寧に包んだものが具になっており、一粒一粒が温かさを湛えた艶のある白飯に包まれ、気付けば二つ目も既に食べ終わってしまっていました。
微かな塩味。
決して急ぐこと無く余韻を残していきます。
「……美味しいー……」
それは、溜め息が勝手に言葉を紡ぐ程でした。
「それ、手軽にたんぱく質も野菜も摂れるので、忙しい時によく食べるんです。
片手間でもいけますしね。」
「…私は手間無しだけど?」
「…………… すみません」
そういう嫌に真面目に謝ってしまって笑いに転化できない辺りが、晴澄夜の悪い所だと思うのです。
「…あの、都菜さん。
少し…俺の話を聞いて戴けますか?」
「何?」
晴澄夜は昔から、あまり喋る子ではありません。
たまに話す時は、いつも言葉が堅苦しい。
どうにも距離感が気になります。
「…
都菜さん、公務部で大分苦労なされたようですね。俺の事で。
…… もっと早く打ち明けられたら良かったんですけど…
俺が本当にして欲しかった事を言えなかったばっかりに、都菜さんに大変な思いをさせてしまったんだと思います。
俺が危険な奴なのは本当です。
それをどうにかする為に、俺はここで少し休むことにしたんです。
だから、今都菜さんの提案を聞くことはできません。
…本当にす」
「ちょっと待ってよ!」
「…」
「何なの?
私に…隠してたわけ?
すみちゃん、今自分のしてる事解ってる?」
「…解っ」
「何よ…本当に私が間違ってた。
私がバカみたいじゃない。
このまま私が帰らなかったら普通に逮捕されるからね?
一応私がここに行く事は公務部に伝えてあるから」
「…捜索届が出る程拘束しませんよ」
「は?」
突然複雑な金属音が鳴り、通用扉が開
首を掴み床に押さえつけたのは、私を見据える晴澄夜でした。
「少しは落ち着いて聞いてくれませんか?
貴女はいつも俺の話を最後まで聞いてくれないんです。
俺にも限界がありますし、仮に俺が理性を保てなくなったら貴女が危険です。
…脅しではないです、都菜さんを危険に曝したくないんです
男の力で女性は簡単に死んでしまいますから」
「…」
首は包むように押さえられているだけで、意識が遠退くことはありませんでした。
「俺が自分の事をちゃんと伝えられなかったのは、俺が弱かったからです。
本当にすみませんでした。
俺が強くいられなかったのは、都菜さんが俺を弱いと決めてしまったからです。
謝らなくていいので、少しは正義に振り回されるのをやめて自分の頭で疑って自身の弱さを悔いてください」
…
晴澄夜は私の首から手を離し、何の未練も無く部屋の外に出ると、すぐにまた鍵を掛けてしまいました。
「俺は自分の言葉全部に責任を持ちます。
反論があったら明日以降いつでもお受けします。
今日はゆっくりお休みください」
そのまま、お皿を回収して去っていってしまいました。
晴澄夜は何故、あんなにすぐに首を絞めるようになってしまったのでしょうか。
晴澄夜は何故、ずっと大人しかったのに突然あんなに口答えをし始めたのでしょうか。
…私は何故、何ひとつ解ることができないのでしょうか。
足踏み式の水飲み場のような水道設備のお陰で、水分はいつでも摂ることができました。
それ以外はもう何もする事が見付からず、私はまたソファーベッドに寝転がりました。
空腹が満たされた為か、先程よりも幾分良く眠れそうな体調です。
そういえば、防音であるはずのこの部屋ですが、何やら誰かの会話のような…小さな音が聞こえます。
『…申し訳無くて死にそう』
『…うるせえぞ御主人、早くカフェラテ飲めよ』
『…あ、うん ありがとうね』
『…すみちゃん、都菜さんは大丈夫そうでしたか?』
『…どうかなぁ…
…あ、身体は問題無さそうだった』
『…それならまあ、大丈夫そうではあるわね』
『…すみちゃん!がんばったからあめっこあげる!』
『…おー、ありがとよみちゃん
…俺これ好きなやつだ』
『…おいしいから!食べてね!』
『…うん。カフェラテ飲んだら戴くね』
晴澄夜の声は頻繁に聞こえ、周りの人達との会話を心から楽しんでいるようでした。
敬語も無い。
距離も無い。
私が幼馴染みだからなのでしょうか。
何だかとても、…とても悔しいものでした。