願いを海に託す夜 ‐ねがいをうみにたくすよる‐
翌日の穏やかな夕方。
あれだけ苦労して得た優しい風も、またすぐに別の世界から吹き込む何の悪意も無い冷風に冷まされて、消滅していってしまうのかもしれない。
俺が手元に置いておきたいものは、いつも俺の意思とは関係無く、どこか判らない場所に失われていく。
再び見つかる事も無いわけではない。
しかし大体はもう見つからないままか、もし見つかってももうどうしようもなくなってから、無惨な姿で戻ってくる。
多分それは、俺が弱くて護れていないだけの事だ。
単純に自分の物を失いたくはない。
だから最初から今まで、ずっと護る力を求め喰らい続けているのだろう。
焜槻夜が仕事用の携帯にあった着信に応える。
「はい。 え」
瞬時に俺に送られた目線は、すさまじい警戒の色だった。
「……
お待ちください。
確認を取ります」
通話を保留し次に送られた目線は、俺を案じるものだった。
「…すみちゃん、仕事の話ではない」
「誰からなの…?」
「…『とな』さん」
ぞわっ…と、身の毛が逆立つ気がした。
「切って」
「待って、正式な手続きを経て話したいって…、下手に切ると変に疑われる」
「…… チッ
…替わればいい?」
「うん…、大丈夫?」
「ほんと嫌だ」
焜槻夜から電話を取り次ぎ、覚悟を決めて携帯を耳に当てた手は、もう冷え始めていた。
「…晴澄夜です」
『あ…!!
…す…すみちゃん…!?
よかった…無事…だったんだ…
私、とな…、
都菜祈里…
…わかる…?』
「…わかります」
『なら…これが何の連絡かも、…判るよね』
「…」
『…仕事の話よ。
揺蕩夜ちゃんの事も。
今から貴方の拠点に出向くから、直接報告するわ。
ちゃんと聞いて欲しいの…。』
「… 断ったらどうなります?」
『…貴方の居場所は、無くなる』
「…
いつも優しくないですね」
『きっと…解るわ』
通話を切った後の手には携帯を支えるだけの力はもう残っておらず、半ば投げる形で携帯から手を離した。
座った体勢のまま強張りうずくまった俺は、ほとんどフリーズ状態…、
『自分の意思では動かせない状態』だった。
「…すみちゃん…!
…つきちゃん…今の電話、何なんです…!?」
「…都菜さんよ。
今ここに向かってる」
「!」
「となさん?て何?」
「ちょっと知ってる人なの。
…悪い人ではないんだけど…
このまま関わり続けていたら、すみちゃんとゆたちゃんはそのうち殺されるんでしょうね。
現行法では罪に問えない方法で」
「は…!?
何でまた御主人…と、揺蕩夜まで?」
「それが…あの人には殺す目的も、自覚も無いの。
都菜さん自身、殺そうとしているわけではなくて、二人を『助けようとしてる』のよ。
でもそれで二人は『追い詰められる』。
…都菜さんにとっては正義の行為でしょ。
そこには容赦も躊躇も無いわ。
…今回ばかりは対面を避けられないみたいね…
すみちゃん、拠点の設備…一応来客用にしておくわ。
二人とも、ちょっと手伝ってもらえる?
…私達の方でも、都菜さんが来る前にできる限り対策しておきましょう」
「うん!めっちゃ手伝う!
殺すなんてゆるせないし!」
「…よみちゃん、きっとちゃんとやれば大丈夫。
だから、落ち着いてね」
「う、うーん、わかった」
仕事部屋には、思考の機能に集中することしかできない俺と、何も言わないままの揺蕩夜が残された。
揺蕩夜は口を開くことなく、馴れた手つきで温かいカフェラテを入れてくれた。
その温度はゆっくりと俺の内部を温めてゆき、少しずつだが身体はほぐれ、次第に呼吸を取り戻していく。
都菜は昔、少しの間俺と同じ場所にいた者だ。
そして、都菜は昔からクオリアをあまり認識できないらしい。
俺が都菜に『心配するべき対象』にされている事は判る。
周りの大勢ができる事をできない俺は、さぞ出来の悪い子供だっただろう。
悪意の無い厚意は、俺が『普通』であることを望んでいる。
その思いは熱く、カフェラテどころか熔岩のように、凍った心をすぐに、強制的に融かしてあげようとする。
俺の水流がどうなるとかよりも、とにかくその中に取り込んで温めてやらなければ駄目だと信じきっているらしかった。
信じきっているから、本人は信じきっているとも認識できない。
クオリアが認識できなければ、自分の灼熱も誰かの悲鳴も何も聞こえないものなのだろうか。
熔岩は悪者ではないが、取り込まれたらさすがに焼け死ぬしかないだろう。
さて…どう対応したらいいだろうか……
「すみちゃん…、
都菜さんて、公務部の調査員でしたよね。」
公務部はリアライズの部隊とはまた違う。
国家の秩序を維持する機関であり、あらゆる者の幸せを願っているという点では大差無いとは思うのだが。
「うん…」
「…
私、ここを離れるつもりはありませんからね。
絶対に。
すみちゃんと一緒にいます。」
「…!
うん。解った。
絶対護るから。」
浅はかなのかもしれない。
でも揺蕩夜のこの言葉にだけは、従順でいたかった。
「すみちゃん、設定しておいたわ。
とりあえず私達は仕事部屋で待機。
通音はエスユーワン、とりあえず全部復路。
あと何かあるかしら」
「ありがとうつきちゃん達。
あのさ…思い付いたんだけど、」
机の横のコピー用紙を1枚取り、大まかにに拠点の玄関から奥の方までの図を描き示す。
「こう、ちょっと面倒で申し訳ないけど、
つきちゃんときょくちゃんに、俺が都菜のクオリアを縛れたら都菜をこの部屋まで連れていって欲しいんだ。
上手くできれば自分で歩いてくれるとは思うけど、多分俺その時点で消耗しちゃってるだろうから…
連れていって閉めてくるところだけでも、お願いしてもいいかな」
「あ、ここ使うのか。
どうやって閉めるんだっけ?」
「大丈夫、私大体操作把握してるわ。」
「ならいけるか。了解」
「ありがと、助かるよ。
よみちゃんには、ゆたちゃんがヤバそうだったら仕事部屋に避難するのを手伝ってもらいたいな。」
「こっからこう?ガチャーって?」
「そうそう。ここからこうね。
向こうはよみちゃんときょくちゃんの存在を知らないはずだし、都菜のほとんど個人的な案件だからさすがに大人数で来ることは無いと思う。
けど、ほんと悪いけど多分失敗もあり得るから…通音とモニターで状況見ててもらいたい。
とりあえず、結果的にこの部屋に入れることができればいいからさ。」
仕事部屋の一角には、拠点内の各所に取り付けられた通音設備と動画カメラを有効にすると、その各所の様子がかなり詳しく把握できる半部屋がある。
通音設備は電話のように両方で送音受音ができ、半部屋を基準として往路と復路のオンオフを切り替えることができる。
例えば仕事部屋に居ながら地下室の音を聞くこともできるし、逆もまた可能だ。
「解ったわ。
あと、何かあるかしら」
「あとは…思い付かないな…
多分これで大丈夫だとは思うけど、…俺抜けてるからな…」
「じゃあ、気付いたら足しておけばいいだろ。
…あ… うん。それぞれで。」
「そうだね、そうしてもらえると助かるや。
マニュアルでも作っておくべきかもね…。
…もう10分くらいで来るかな…死にたくなってきたわ…」
「すみちゃんがんばって!
私たちいるから!」
「おお…、ありがとねぇ。
頑張るね。」
「うん!」
おおよそ10分後、
仕事部屋に玄関からの呼び鈴が優しく響いた。
インターフォンと繋がるモニターによると、多分都菜で間違いない。
さすがに今回は間違いではないだろうが…俺は人の顔を判断するのも少し苦手なので、あまり断言はしたくない。
それともう一人、眼鏡に黒髪ポニーテールの少しふっくらとした、こちらは確かに知らないと判る個性的な佇まいの女性同伴者もいた。
都菜に会いたくはないが、もうそこまで来てしまったのなら、対応しなければならない義務感で動きやすくはなる。
インターフォンの受話器を取る。
『すみちゃん、都菜よ。
…揺蕩夜ちゃんも一緒?』
「…今向かいます」
向こうで都菜が更に何か言おうとしたかもしれないが、臨戦態勢に高ぶる精神は自分の言葉だけを通音して早々と切ってしまった。
そのままの足で玄関へ向かい、揺蕩夜も俺の後に付いて都菜との対峙に赴いた。
今回は揺蕩夜も戦う。
躊躇いは無く戸を開ける。
「あっ
…すみちゃん!!
都菜…よ」
「はい。
そちらの方は」
「私の優秀な部下、畦敷よ」
黒髪の女性は俺に一層明るい笑顔で向かい、可愛らしく勢いのある会釈をした。
「畦敷ですー、初めまして!
晴澄夜さんですよね!お話伺っておりますー
あ!そちらは揺蕩夜さん!?ですよね!
どうもー畦敷ですーどうもー♪
あ お三方とも私の事は気にしないでくださいねw
ただの記録補助なんで!
どうぞ!気にせずお進めくださいね!」
「どうも、畦敷さん」
「よろしくです。畦敷さん。」
畦敷さんのクオリアは、まだ詳しくは認識できないが地属性系統であるようだ。
きっと都菜よりも落ち着いている。
「…それで…
都菜さん、話って何ですか」
俺が話を促すと、都菜は心から嬉しそうに、その目線で俺を捕縛した。
既に熱線のような熱意を感じる。
「すみちゃん…私、やっとすみちゃんを助けられるようになれた…
もうこんな所に引き籠らなくても大丈夫。
揺蕩夜ちゃんの事も、一段落できたわ。」
「…」
「安心して…、ちゃんと許可証も取れた。
すみちゃんの勤務先の事なら公務部の観光系列に空きがあるそうだし、…すみちゃんが危険じゃないっていう証明は、私が責任を持って担当する。
こちらの準備はできてるから、すぐに出発できるわ。
荷物をまとめてきて。…待ってるから」
「やはりそういうことですか」
「え?」
「揺蕩夜の方はどういう話ですか」
「あ…!揺蕩夜ちゃんはね、ご両親…許してくださるそうよ。
もう戻ってきてもいいって。
もう気にしないでって…。」
都菜は長かった仕事をやり遂げたようだった。
その言葉で揺蕩夜が一歩、都菜に詰め寄る。
「それで…
両親は他に、何か言ってましたか?」
無表情よりも心を消したまま。
「一緒に罪を償っていこう、って」
動きは瞬間だった、光る稲妻の棘束が今にも都菜の心臓を正確に射抜く、寸前で必死に止まっていた。
涙は揺蕩夜の両目から一雫ずつ落ちた。
「…思った通りです。
あくまでも私のせいだと。
そういう人なんですよね。
私が両親の元には戻る事はありません。」
「え…」
悲しみも傷も、自らの生命の危機も、都菜にはよく認識できないようだった。
揺蕩夜は数秒、都菜の目に冷めた熱線を返した。
そして顔を背けるように目を離し、稲妻の棘を自身に少しずつ収めながら拠点の中へと踵を返す。
「待って!!」
堪らず駆け出す都菜が揺蕩夜の腕を掴むのを、俺はどうしても許したくなかった。
「!? ん ぐ…っ!?」
都菜の手は優先順位を変え、揺蕩夜の腕を諦めた。
「え!?晴す…」
畦敷さんが声をあげようとしてやめた。
動きを封じるため、俺は都菜をそのまま押して玄関内部の角に追い込む。
これで収まってくれるかと一度手を弛めてみたが、都菜はまた揺蕩夜の方に向かっていこうとしたので再び首を押さえ付けた。
「…ひ …っぐ! …す…っ………!っ…」
揺蕩夜を奪わせるわけにはいかない。
まだ離すわけにはいかない。
都菜が抵抗を収めるまで、俺が押さえていなくてはまた失
「晴澄夜!!
…
一回離しなさい」
「…」
「離して。縛るから」
「……ああ…はい」
曜極夜が都菜の肩を押さえたのを確認して、俺は両手親指の力を抜いた。
俺が手を離しても、都菜は壁の直角の内側にぐったりともたれ掛かって激しく不安定な呼吸をするだけで、朦朧としかけている意識での抵抗にはほとんど力が無かった。
焜槻夜と曜極夜が手際良く都菜を縛り上げるのに使っていたのは、俺が隠し部屋の鎖と同じもので長めに作っておいた、両端に蟹鐶状の部品を付けた鉄鎖だった。
最初の一周と巻き終わりに鎖の端を留められたら何かと便利だろう、と思い作った素人の工夫グッズだが、実際荷物を固定する時などに役立つ事がたまにある。
巻き終わりの蟹鐶状部品を既に巻いた鎖の一部にくぐらせてから留め、焜槻夜は未だ弱々しい拒絶を続ける都菜に、優しくも逸脱を赦さない低音で自立を促した。
「殺さないから。従いなさい。」
力無く歩き出す都菜と、その背中に手を添える焜槻夜と、不足の事態に備え後に続く曜極夜は、書斎とはまた別にある地下室の入口の方へ向かっていった。
「鎖用意しといて正解だったな」
「助かったわ、きょくちゃん」
曜極夜の気配りにもまた助けられていたらしい。
凉詠夜は素早く揺蕩夜を仕事部屋に避難させてくれていた。
畦敷さんは突然のサスペンス遭遇の衝撃と上司である都菜に残されたのとで、口元に手を引きつらせたまま動けないでいた。
行動の自制が外れた俺を刺激しない判断を咄嗟に選択していたのを、都菜の首を押さえている時から一応把握はしていた。
なので、無理に捕まえようとしなくても変に騒ぐことはしないだろうと思う。
それでも確実性は補強しておいた方がいいかもしれない。
手を掛けない代わりに、少しだけ縛り付けておくことにした。
「畦敷さん、お解りでしょうけども。
驚異になるようなら撃ちますからね。」
「…おお…それ…」
「ん?」
「…『Vivroux』ですよね…!?
えっ 晴澄夜さん知ってるんですか!?」
「え!知ってるんですか!ww
うわぁちょっと恥ずかしいww今大真面目でしたww」
「そのシーン何巻でしたっけ!?
あのバルゼルイがヴィヴルーズを裏切りかけた所ですよね!?」
「そうですそうですww
おーカッコいいと思ってww」
「いいですよねあの辺りの展開!ww
新巻来月でしたねww買わなきゃww」
やはり畦敷さんはかなり冷静な判断ができるらしい。
下手に詮索したりせず、俺達の敵にはならないでいてくれているようだった。
まあ、打ち解けてから目的を聞かれてもいいだろう。
その辺り分別はあるだろうし、仮に驚異になるようなら討つ事に変わりは無い。
十数分後に仕事部屋に戻ってきた焜槻夜と曜極夜は、知らない内に何故か漫画談義に花が咲いている俺達4人に疑問の言葉を投げつけつつ、すぐにその輪に混ざった。
都菜の治癒行程はもう始められている。
これ以上放っておいたら本当に公務部に連れて行かれかねないし、俺がそこでまともに働けるとも思えない。