悠極と曜きを謡う夜 ‐ゆうきょくとかがやきをうたうよる‐
今一番急を要するのは曜極夜だ。
部隊に参加して数箇月経つが、未だに周りを拒否し、あらゆるものから隠れるように黙々と作業に没頭する。
そのクオリアにはまとまりが無く、闇に混じる金属片がいつも自身の精神を自傷している。
「きょくちゃん」
「… 何、御主人」
「その仕事が一段落したらでいいんだけど…、
この後書斎に来てくれる?」
「…」
曜極夜は無言だったが、目と僅かな頷きで承諾を表してくれた。
曜極夜を待っている間、ついでに軽く済ませようとした仕事に、つい少し夢中になってしまっていた。
そんなに時間は経っていない内で良かったが…、既に曜極夜は書斎で俺を待っていた。
「…」
「きょくちゃん…むしろ待たせてごめん;」
「…別に…」
奥の椅子に少し疲れた様子で腰掛けていた曜極夜は、充実してきた本棚の品揃えをただただ視界に映したまま言葉を返してくれた。
「とりあえずあったかいカフェラテっす」
「…どもッス」
曜極夜はあまり喋らない。
部隊に参加するようになってからは半年と経っていないが、ネット上に綴られる文章を見ている時から、何となく…
しかし確実に、他者に対する尋常でない不信感を感じていた。
―それ以上は近寄らないでくれ――
強い反発というよりは、必死に絞り出す悲鳴のように警戒心を尖らせているようだった。
曜極夜はわりと広く深い知識教養を持ち、仕事の要所要所でかなり助けられている。
その一方なかなか神経質で、対面した物事を把握できかねるとフリーズしてしまうこともある。
困る事の多い欠点を補う為に、可能な限り対処できるようにしてきたのだろう。
しかし…かつて曜極夜の周りにいた者達には、知識をひけらかしたような口を挟んでくるくせに要領が悪い面倒な者のように見られていたのかもしれない。
曜極夜にとっては他愛の無い会話さえ、そのたびに深く傷付く恐怖と対峙しなければならない戦いなのだろうと思う。
…と、口に出すと…今度は俺がまた「そんな短期間で他者の何が判る、買い被るな」とか言われてしまいそうだ。
だから言わないように気を付けてはいるんだけども。
「ふー……」
少しの間、カフェラテをすする微かな音と、俺の声付き溜め息と、曜極夜の遠慮がちな吐息だけが空間を満たしていた。
曜極夜の目は相変わらず目の前を見ていない。
例年なら既に初雪が降っていただろう。
今年は暖冬ではあるが紅葉は大成功だったらしく、豊かな暖色を少しずつ落としていく木々と澄み尖った冷たい空気の対比が美しい。
俺自身、自分では覚えていないくらい長い間、クオリアを癒す技術と知識を積み重ねてきた。
独りよがりかもしれないが、徹底的に疑った末の事実だけが自分のものだ。
自分の方法が正しいのかは判らない。
でも例え俺が間違っていても…、凍えかけた曜極夜の心を、このまま凍え死なせてしまうわけにはいかない。
ベタだがちょっと憧れもあり、ある本棚をゆっくりスライドさせると、隠し部屋への扉が現れる。
「来て。きょくちゃん」
無言のまま、曜極夜は俺に続いた。
曜極夜の首には、飾りの少ない黒革のチョーカー…もとい、首輪が付いている。
凉詠夜も、揺蕩夜も焜槻夜も付けている。
俺も付けている。
首輪は主人への服従の象徴だ。
しかし単純にそういうわけではなく、俺が隊員達の身と心を護る誓いと覚悟の顕しが、この首輪だ。
ほの暗く心地好い家具と狭さのある部屋、その一角に取り付けられた鎖の先に、曜極夜の首輪を繋いだ。
「おい…御主人?」
曜極夜は怪訝と警戒を見せた。
まあ当たり前だけど。
少し余裕はあるが、壁からはそんなに離れられない長さだ。
「おい」
筋肉の足りない両手は後ろへ回し、手錠を掛けた。
「お…」
曜極夜は両手を手錠から外そうとしてみたり、壁からもっと離れようとしたりした。
ただガチャカチャと金属音が奏でられるだけだと判ると、引っ張るのはやめた。
「…」
怒りではない。
記憶の底から恐怖と警戒で青ざめているようだった。
「(…無防備…)」
この状態なら腹にパンチなど余裕である。
先程やめたばかりの首輪と手錠への抵抗が、僅かに再開される。
顔も身体も全て強張り、正面を斜めに向けて俺との対面を避けている。
5分程、俺はずっとその曜極夜を眺めていた。
曜極夜は恐怖と警戒でよほど疲れたのか、立ったまま身体の横を壁で支えている。
閉ざしたままの口の代わりに、鼻がなんとか息を通している。
おもむろに俺は曜極夜の背中に歩み寄り、息を呑んだその手を包み込んだ。
だけでは足りず、壁に無い側の横身を抱き掴んだ。
「ご…」
強張った固い身体は俺を拒否している。
でも関係無い。
「…座って…」
耳元の言葉に、曜極夜は警戒しながらも従ってくれた。
相変わらず拒否されてはいるが…
その場に座り込んだ曜極夜を、また腕で締め付ける。
艶のあるしなやかで繊細な黒髪。
日照の足りない白いインドア肌。
足りない体組織量。
そして、弱り分散したクオリア。
こんなに…曜極夜は優しいのに。
意識を集中する。
清く澄みきった、豊かな水の流れの感覚を呼び起こす。
感覚を自分自身の生命力に乗せ、曜極夜を内側から包み込み…
曜極夜の痛みを聴き受け、共震と修復を願う。
「…曜極夜…」
悠極と曜きを謡う夜。
「俺は…ね…
きょくちゃんのことが大好きなんだよ
…本当に」
俺の耳元で、吐息が小さく驚愕を発した。
「………
………あの……御主人……
…俺、そういう趣味は無いけど」
「あ、うん…そういうあれじゃないよ
普通に好きなの…
ただ単にきょくちゃんが大好きなの」
「…」
「…ものすごく信用してるって事だよ」
「…」
拒否を続けていた身体が、少し力が抜けたように僅かに柔らかくなった。
「……ふーん」
「…だからきょくちゃんを部隊に誘ったわけじゃん?」
「…… こんなん信用するとか……
……何か、目的でもあるのか?」
「うん、あるよ。
俺はきょくちゃんをどうにか助けようとしてる…
きょくちゃんいつも優しいからね」
「……………何言ってんだ …こいつ…」
曜極夜は無骨に言葉を投げつけた。
その一呼吸のあと、後ろの手で俺の膝をゆっくり、優しく掴んだ。
そして、それこそ…甘えるように、俺の腕に擦り寄った。
程なく、接点には体温と熱い湿り気が伝わった。
今まで受けてきたであろう目では見えない無数の傷を思うと、曜極夜を撫でる手は止まる気配が無かった。
「……御主じ… …あの、御主人」
一生懸命繕った声で、呼ばれる。
「あの…
…手錠だけ取って」
白い頬は体温を取り戻していくかのように、ほの赤さをたたえている。
「ん…解った」
曜極夜の意図まで理解できた。
強い鼓動を感じながら、手錠の鍵を外す。
再び自由になった細い手は、途端に俺の腹を縛った。
そして子供のように…感情的に、頬を俺の腹に擦り寄せていた。
涙が拭けていたら嬉しい。
俺も曜極夜の背中に縋った。
…同じように、俺も子供だったと思う。
縋り合ったまま夜が更けてきた頃、ゆっくりと顔を上げた曜極夜が俺の目を捕えた。
「……御主人、あのさ
もしかしてなんだが…
…御主人も…遠慮してるのか?」
「…!」
少し心臓が跳ねた。
まさか………
「…もしかして、つらいとか」
「……」
…まさか俺を…判るなんて事が、
「今まで誰も御主人を助けられなかったんじゃないのか。
…全部、俺の良いようにしてただろ。
御主人の好みとか関係無く」
……その通りだ。
端から見たら完全に変態行動だったと思う。
確かに曜極夜への愛情に任せた行動だったが、理性を失くしていたわけではない。
むしろほとんど理性に基づいて選択した行動だった。
…それを…見抜いた者なんて存在した事が無い。
ここまで深く関わった者もいないけど。
「…御主人、
俺も御主人を助けたい」
…優しい言葉…
曜極夜は首輪に繋がっていた鎖のジョイントを外し、そのまま俺の首輪に取り付けた。
手錠を掛ければ届かないし拷問器具ではないので、蟹鐶状のジョイント自体は簡単に外すことができる。
「……これで逃げられないな。」
拘束されるのは想像以上に情動的で…とても安心できた。
驚くことに、途端に何の抵抗も無く涙が溢れ出していった。
「やっぱりな…、御主人も傷だらけだ」
曜極夜は優しく強く、俺を抱き締めた。
抱き締められると、…こんなに…
「御主人、泣いてくれ。
今度は俺が受け止めるから。
叫んで、悪いもの全部吐き出せ」
「……………う………っ………」
ここはほぼ地下室になっている。
その上防音仕様なので、この部屋でいくら叫ぼうが、他に音が漏れる事は無い。
少しは自制心も働いた。
しかし横隔膜の痙攣は加速し、安定は失われ、啼き声は次第に叫びになる。
そしてそれは悲鳴に変わり、嗤い声とも甘えた希求とも形容し難い呼吸音は、俺の意思では止めるどころかもうどうにもならなくなった。
まともに息ができなかった。
喉は狭まり、激しい呼気は全て意味を成せない叫びに変わっていく。
制御不能な身体の反応に取り残された意識の中で、俺ってすごい声が出るんだな…なんて考えていた。
その間もずっと、曜極夜は全く手を弛めないでいてくれた。
乏しい経験値から、いつこの手を弛めてしまうのだろうと待っていたが、本当に少しも手を弛めなかった。
横隔膜が収まってきてもまだ、絶対に手を弛めなかった。
離れなくてもいいのだろうか。
…どうしたらいいのか、判らない。
「晴澄夜御主人」
…
「俺も御主人を助けたい。
御主人が俺を助けてくれたように、俺も御主人の力になる。
だから、これからは俺の事ももっと頼れ。
気軽に使え。
…俺は御主人の物だろ。」
…
「…
…無理に話そうとしなくていい…
…こちらこそありがと…御主人」
…
‐‐‐
隠し部屋には寝室もあった。
御主人はかなり疲れてしまったらしいので、夜明けまでいくらかの時間はあったが、そのまま就寝することにした。
周到にも御主人は、隠し部屋にもきちんと暖房を効かせていた。
だから夜中でも寒くなかったし、タイマーはこの時間から大体2時間後に止まるようにセットされていた。
少し広めなベッドの中もちゃんと温められている。
御主人は冷えに弱い。
「御主人、これ着せるよ」
先程の一連はかなりの消耗だったらしい。
疲れからか、御主人の動きは大分鈍くなっていた。
「……すまんね…きょくちゃん…」
「気にするな御主人…、大人しく世話されろ」
『御主人』とはいえ、世話役を付けるような大層な性格ではない。
出来ない事があると尋常でなく悔しがり、自虐までし始めるような自立したがりだ。
いつもの穏やかで明るい振舞いは、いつまでも助からない自責の裏返しだったのだろうか。
ジャージに着替えるのを手伝っている時、御主人の身体を少し見た。
フォルム自体は普通だと思ったし、具体的な所は判らないが…何となくあまり健康そうではなかった。
内側から少し染み出すクオリアは柔らかな水ともいえ、冷えきった厳しく鋭利な氷の棘ともいえる。…
詳しく見ている場合ではない。
温まった布団に潜らせるのを手伝う。
御主人は顔がほとんど隠れるくらい布団を被った。
「御主人、これ借りてもいいか?」
「…いいよ…」
クローゼットに入っていた御主人のものであろうもう一着のジャージを借り、俺も着替えて布団に入る。
布団の中は心地好い温かさに保たれていた。
身体を収め、布団の中でこちら向きに縮こまっていた御主人をまた抱き締める。
俺のクオリアはかつて無い程の密度を湛え、柔らかい闇と銀は俺達を包み込んだ。
御主人は俺の胸に擦り寄り、深い深い呼吸をして目を閉じた。
こんなに安心した御主人の顔は見た事が無かった。
明日は休日だ。
御主人の気が済むまで傍にいよう。
凉詠夜達はどこまで御主人の事を把握しているだろうか。
徹底的に対処していかなければ…御主人が助かる事は無いだろう。