2話目
(待て、待て待て待て!待てーー!)
椎名は自分の身体の異変に気が付いて、酷く混乱していた。
絶賛混乱中の頭を激しく左右に振って正気を取り戻させて、それから震える手を自分の胸の当たりに恐る恐る近づけた。
そして、次の瞬間。むにゅん、と、とても暖かくて柔らかい、気持ちがいい感触が手の平を包み込んだ。その感触に椎名は目を見開いて、次にばっと自分の足と足の間、つまり股間へと手を移した。
すかっ。そこに本来あるべき筈の、椎名の男の子としての誇りと証が、跡形も無く消え去っていた。
「…俺、もしかして」
わなわなと胸と股間を弄って、椎名は絶望を孕んだ空笑いを表情に浮かべた。
(女の子になってる?)
そう、椎名は、完全なる女の子の姿へと変身していたのだった。
「うわー…ま、まじかよ…」
椎名は近くの水溜りまで行って、水面を鏡の代わりにして自分の姿を確認していた。
水溜りの鏡面に映った椎名の今の容姿は、元の短髪で中肉中背の日本の平均的な高校生の容姿から完全にかけ離れていた。
まず目に付くのは端正な顔と、薄暗い洞窟内でも充分に目立つキラキラと輝く金髪だろう。おっとりとして優しげな、透き通った青空のように曇り一つない澄んだ青色の瞳。目、鼻、唇、共に全て芸術品の様に整っている。シルクの様な柔らかくて白い肌だが、頬の所だけ薄ピンクだ。髪はとても柔らかく細い。目に痛く無い優しくて柔らかそうな金髪は、セミロング、つまり背中の肩を過ぎた辺りまで切りそろえられている。全体的に見て、とても優しそうな印象を与える。
身体は華奢で、胸は大きくも無ければ小さくも無い、平均的な所で収まっている。それでもグラビアアイドルが裸足で逃げ出す程スタイルは良い。
全体的に、まだまだ大人になりきっていない少女の姿だ。身長も低く、手、足も細い。特に顔は童顔だ。だが、全体的に醸し出される幼気が原因で、かなり妖艶な雰囲気が感じられた。一目見て将来を期待させられる、そんな容姿だった。
服も、椎名が元々着ていたものとは違っていた。まるでファンタジー物の小説に出てくる異世界の住人の様な服装だったのだ。
(何だこの服…まるで吟遊詩人みたいな…)
緑色のワンピースに赤い色の肩掛け。靴は皮で出来た丈夫そうなブーツだ。どれもデザインは吟遊詩人のような雰囲気だった。
だが、そんな服が少女には途轍も無く似合っていた。服装が少女の幼い魅力を余すところなく引き出している。美しいというより可愛らしいと表現するのが的確であるが、勿論妖艶さも併せ持っている。美少女としての魅力と、美女としての魅力の両方を持ち合わせている。
(どうして俺がこんな美少女に…っていうか、この娘、どこかで見た事が…)
どうして自分が女体化したのか、という疑問よりも、どこかで見た事がある、という引っかかりに首を捻る椎名。何故だか椎名はこの少女に見覚えがあったのだ。
(んー…そう言えば、ゲームで使っていたキャラもこんな感じだったような…)
しばらく首を捻って、ついに椎名は思い出した。椎名のゲームでのアバターが確かこの様な感じだったという事に気が付いたのだ。
椎名が主にやっているゲームはファンタジー物のオンラインゲームである。モンスターの種類、魔法や技の種類、武器や防具、アイテムの種類がかなり多い、椎名のお気に入りのゲームだった。特に椎名の気を引いたのは、アバターの設定の細かさだ。
(そうだ、ついこの間、レベルが上限までいって、やり込みすぎて最強になりすぎたアバターで『転生』したんだった)
椎名は何もネカマをしていた訳ではない。少し前までは、一昨日当たり前まではちゃんとしたかっこいい剣士の男キャラだったのだ。ただ、そのアバターが強化しまくってレベルも上限に達してしまい、成長させる事が出来なくなってしまったのだ。丁度剣士を扱うのにも飽きていた椎名は、どうせならこの機会に、と『転生』システムを行う事にしたのだ。
『転生』システムは、アバターデータを完全に消去する事で、次に作るアバターをレベル1の状態から強化して使える様になるシステムである。有り体に言えば強くてニューゲーム、というものだった。
その『転生』システムで、レベルが上限まで達した男キャラを『転生』させた。その後、椎名は勿論次に扱うアバターの容姿と職業を決めなければならなくなったのだが。
椎名は、探究心から次のアバターを今までに無いユニークなキャラにしようと思い立ったのだ。今まであらゆるネットゲームをプレイしてきて飽きてきていたので、遊び心を加えてみたのだった。
まず性別は男から女にして、職業は余り人気が無くて人口も少ない『吟遊詩人』にした。さらにサブ職業も人気の余りない『魔獣使い』という、完全にネタキャラ扱いだった。
容姿は吟遊詩人なのだからという理由で椎名なりの『癒し系女子』を追求した。優し気な目元や唇、柔らかそうな金髪、そして大人過ぎない少女の身体。どれも椎名の中での『癒し系女子』を追求した結果である。
満足の行く仕上がりになるまで4時間程時間を無駄にし、結果、誕生したのが吟遊詩人で魔獣使いである、金髪の少女『シーナ』なのだった。イメージは癒しを振りまく美少女だ。名前は前の男のキャラと同じである。
(似ている…!どうしようもないくらい似ている…!)
椎名は、今の自分の容姿や着ている服が完全に『シーナ』のそれである事に気付いて、それから目の前が真っ暗になりそうになった。
「…どうしようか…」
理由は分からないが、容姿が変わってしまった。そもそも性別と言う根本的な所から変わってしまった。原因はあの謎の声にあるのだろうが、それが分かっていても今の椎名には出来る事は何も無い。
椎名は手を開閉させて、それから肩を回して、その場で数回ぴょんぴょんと飛んだ。
(よし、今は放っておこう)
椎名は諦めた。言い聞かせる様に一つ頷いて、椎名は水溜りから視線を外して歩き始めたのだった。
悩んでいても何も解決しないのだから、今は放っておくことにしたのだ。幸い、身体が女の子に変わっても今の所は何の障害もない。視界も良好、耳も聞こえるし、身体も自由に動くのだ。動けるのであれば今の所は問題は無い。そう椎名は判断した。
(それよりも、この洞窟を脱出しなきゃだな)
善くも悪くもさっぱりとした椎名の性格が、ここでは役に立ったのだった。
ずっと奥まで続いているのではという予想に反して、洞窟の入口はすぐに見つかった。
洞窟内部の広さとは反比例して、洞窟の入口はとても小さかった。大人1人がギリギリ入れるのではないかというくらいの狭さだ。
だが、今の椎名の身体は華奢な女の子だ。若干の余裕を持って何も引っかかる事無く入口を通り抜ける事が出来た。
「まぶしっ」
太陽の光が暗闇にすっかり慣れてしまった目を焼いて、椎名は思わず手で影を作りながらそう呟いた。
(さて…、ここは一体どこなのかな)
洞窟からの脱出は出来た。次は、ここがどこなのか確かめなければ。椎名は明るさに慣れ始めた目で、恐る恐る辺りを見回して息を飲んだ。
洞窟の外は、鬱蒼とした森が広がっていた。地面には苔がびっしりと生い茂っていて、大人の男が6人で手を繋いで輪を作っても収まらないであろう大木が連なり、空を緑の天井で覆い隠していた。ただ、何故か洞窟の近くだけ木が生えておらず、日光が洞窟の入口をスポットライトの様に照らしていた。
だが、椎名は森を見ていたのではなく、上、つまり空を見上げて目を見開いていた。
(月が…二つある!?)
遥か上空、青空の中を太陽が輝き、散り散りに散らばった雲が思う様に自由に漂う中。そんな空を更にその遥か上の方から、二つの大きな月が見下ろしていた。その二つの月、大きな赤い月と、小さな緑色の月は、さながら恋人同士の様に寄り添って輝いている。
しかも、太陽があるのに、月が当たり前の様に存在している。椎名はしばらくぱちくりと信じられない物を見るような目で月を眺めて、それからすぐに我を取り戻して頭を振った。
「待て、待て待て待て…これはいくらなんでも…」
椎名は空から目を外して、それから眼前に広がる森に視線を移した。
(…二つの月に、大きな森。光る水晶に洞窟…これって、まさか…)
今まで目にしてきた事実を並べ立てて、椎名は結論を出した。
「ここは、『異世界』なのか…?」
そうとしか考えられなかった。引きこもり生活の中で、椎名は異世界転生物のweb小説を読んだ事があったが、椎名の目の前に広がる光景は、その小説の中に出てきた異世界の風景ととても良く似ているのだ。
いや、それだけではない。その小説の主人公も、今の椎名の状態と瓜二つの状況に陥っていたのだ。その小説は、主人公が気を失って目を覚ませば異世界で、そこでチート能力を使ってうはうはするぜ、見たいな、どこにでもありそうなテンプレ的な異世界転生ものだった気がする。
椎名は芋づる式にそう気付き、そして再度ある結論に辿り着く。それは。
「もしかして俺、転生したのか…?」
異世界にいつの間にか、別の姿で倒れていた。この状況を説明出来るとすれば、『転生』という言葉しか無いだろう。
実際、確か転生ものの小説の中には、性別が転換してしまうという設定の物もあった。
だが、もし今の自分がそういう状態にあったとすれば。
(…俺は、元の世界に戻れない…?)
そう。そういう類いの小説の主人公は総じて、異世界を満喫してそのままそこで一生を過ごすことになるのだ。ハーレムを作って、チートな実力を付けて権力者になって、幸せな生涯を謳歌することになるのだ。勿論そういうハーレムとかチートとかは椎名は男の子なので憧れる所もあるし、特に女の子とチョメチョメする事は男のロマンであると即断で断言することが出来る自信がある。だけれども、だ。
(ああいうのは読むからこそ楽しいのであって、実際自分がなってもどうしろって言うんだって話で…)
椎名にはハーレムを作る気力も無ければ、チートを使って何かを成すつもりも無い。内気で人見知りでとにかく引っ込み思案な椎名は、ここに来ても完全にその性格を如何無く発揮していた。
(そもそも、今、俺の身体女の子だし…)
まずハーレムを作る事すら出来ないことに気が付き、椎名はじゃあどうすれば良いんだよと項垂れた。男では無いのでハーレムも作れないし、チートでハッスル出来る程傲慢で我が儘な性格でもない。かといって人が惹かれるようなカリスマ性が椎名にあるのかと問われれば、断じて否、だ。椎名はただの引っ込み思案で内気で人見知りなコミュ障だ。異世界と言えど、何かを成せる訳が無い。
(逆ハーでも作れってか?はは、男に囲まれても空しいだけだよ…そもそも寄ってくる男がいないか…)
そもそも、男が寄ってきても喋れる自信が無い。八方ふさがりだった。
「…ま、まあ、今は将来の事は脇に置いておいて、今は目の先のことだけ考えようそうしよう」
椎名は考えたく無い事から目を背けた。
この世界が異世界である事はまず確定だろう。空に浮かぶ二つの月と、その脇を照らす太陽が何よりの証拠である。
何故異世界に連れてこられたのかについて、そして何故身体を女の子の姿にしたのかについては考えても無駄なので脇に置いておく事にする。
問題は、この森が人が住む場所からどれだけ離れているのか。それと、これからどうやって生き延びて行くか、だろう。
(人は確実にいるだろう。いやいてくださいお願いします。天涯孤独は嫌なんです)
もしこの異世界が無人で自然に覆い尽くされた世界なら、椎名は生きて行けないだろう。今まで引きこもって一人でいた俺が何を言っているんだろうという感じになったが、椎名はあえてその部分をスルーした。
(とにかく、辺りを見てまわってこよう)
川を見つけれれば良し。食べ物になりそうなのも当然探す。人が住んでいそうな所を見つければ尚良しだが、この森の深さから行ってそれは無いなと椎名は勘でそう判断したので、そこまで期待はしていない。
「じゃあ、行くか…」
椎名は一応警戒して、ゆっくりとした動作で森の茂みへと入って行った。
それから暫くして、日が微かに傾き始めてきた頃、椎名は洞窟前まで戻ってきていた。
椎名の予想通り、人がいそうな集落はどこにもなかった。森は鬱蒼とした緑がどこまでも続いているだけで、川すらなかった。
ただ、幾つか食べれそうな木の実を見つけたのでそれは椎名にとって喜ばしい事だった。
椎名が拾ってきた木の実は、青い桃の様なフルーツと、サクランボに良く似た黄色い木の実、そしてリンゴに良く似たオレンジ色の木の実の三つだった。
(…これ、食べれるのか…?)
疑問に思い、リンゴもどきを手にして、警戒して鼻を近づけてどこにも異常が無いか凝視する。そのとき、不思議な現象が起こった。
なんと、凝視した所に何やらパネルのような物が現れたのだ。
「わっ」
椎名は突然の事に目を見開いて身体を跳ねさせた。口から思わず可愛らしい悲鳴が聞こえたが、それは咳払い一つで誤摩化して完全にスルーした。
(何だこれ…?)
椎名は改めてパネルを凝視した。パネルは、木の実から現れている様だった。木の実から視線をちょっとでも外すと消え、そして木の実をちょっと凝視すると再度現れる。
そのパネルには文字が書かれてあった。
『リンコの実:拳大のリンコの木の実。酸っぱいが食べれる。売買価値1個に付き80G』
ちょっとしたデザインで枠を装飾したパネルにはどうやら、椎名が今手に持っている木の実の簡単な情報が表示されているらしい。しかし、木の実の情報が見れる事も充分に驚くべき事態だが、それよりもまず椎名はリンコの実の名を見て目を見開いた。
「…これ、ゲームの時のアイテムか?」
リンコの実は、椎名がやっていたゲームに確かにアイテムとして出てきた筈だ。リンコの実は植物系のモンスターを倒すと高確率で手に入れる事の出来る、レア度の低い食材アイテムだ。
(ゲームのアイテムが存在してるのか?確かにそんな設定の小説もあったにはあったけど…)
例えば、ゲームの世界に転生してしまった、という設定の小説なんかではありきたりなことだ。
(…俺、ゲームの世界に転生しちゃったのかな…)
だとすると色々と都合がいい。椎名はマップ情報も全てではないが大体は覚えて居るし、アイテムや武器、防具の種類も結構覚えていた。モンスターの情報や、街がどこらへんにあるのか、そして、ここがどこなのかもヒントが見つかれば容易に見当をつける事が出来るだろう。
だが、それは同時にゲーム内にいたモンスターが今、リアルなモノとなってそこら辺を徘徊している可能性が高いということにも繋がる。ゲームの中のモンスターには、国一つを滅ぼす危険がある最強のモンスターも確かいた筈だ。
危険なモンスターが存在している世界に来てしまった。椎名はそう考えるだけでぶるぶるっと背筋を凍らせた。
「ま、まあそんな事より、リンコの実についてだ」
椎名は手に持ったリンゴもどき、もといリンコの実に意識をやった。考えたく無い事からは全力で逃げる。それが椎名のやり方だった。
(これ、説明文を信用するとすれば、普通に食べれるんだよな…)
だが、若干不安が残る。もし情報に偽りがあり、毒を含んでいたら。病院もなければそもそも他の人もいない。血清もない、解毒薬も無い。無い無い尽くしの椎名は、きっと何の術無く死んでしまうだろう。
ごくっ、と椎名は細く白い喉を鳴らした。椎名は森を長い間歩き回って喉が渇いていた。出来る事ならすぐにでも渇きを癒したい。が、近くには川もないし湖もなかった。椎名の渇きをいやす手段は今、リンコの実だけしかないのだ。
(…えいっ)
椎名は思い切ってリンコの実に齧りついた。一口分を齧り取って口の中で転がして、味に支障がないと分かると直ぐにそれを噛み砕いた。
「…う、うまい」
それから二口目を齧りつく。齧りついた瞬間、リンコの実の果汁がこれでもかと言う程口の中に溢れ出て、説明文の通りの酸っぱさが舌を刺激する。だが勿論甘みも忘れてはおらず、何時間か森を歩き回った椎名の疲労した身体と喉の渇きを癒すには充分な程美味しい。椎名はあっという間にリンコの実を丸々一つ食べ終えてしまった。
「ふう…美味しかったー」
満足して、椎名はお腹を擦りながら座り込んだ。歩き過ぎで痛みもあった足が、じんわりと熱を持って癒えて行くのを感じる。
ちゃんと味についても当たっていたし、それに食べる事も出来た。どうやら説明文の内容は信用に足るようだ、と椎名は判断した。
それから椎名は、残りの二つの木の実も凝視して情報を見れることも確認した。
『ピチの実:拳大の独特な形をしたピチの木の実。毒は無いが味が淡白で栄養も少なく美味しく無いが、保存が利くため保存食として好まれる。売買価値一個に付き40G』
『ランボの実:一つの実に二つの果実が生る、独特な形をしたランボの木の実。毒を持ち、食用には適さない。食べたらステータス異常を引き起こす。売買価値一個に付き40G』
「って、これ毒持ってるんだ!あぶなっ!」
椎名は慌ててサクランボもどき、もといランボの実を投げ捨て、触っていた手を服の袖で拭った。
日本では食用だったサクランボに似ていたから取ってきたのだが、その実毒を持っていたなんて。油断も隙もあった物ではなかった。椎名はあの説明文に気付かずにランボの実を食べていたら、と想像して軽く背筋を凍らせた。
椎名はそれから、色々とその説明文のパネルについて実験じみた事をやって見る事にした。
とりあえず椎名は小石、適当な木から折った小枝、地面に生えていた苔と雑草を持ってきて、ステータス画面を表示させた。
『小石:何の変哲も無いただの小石。投げると対象に小ダメージを与える事が出来る。売買価値1個に付き1G』
『クルゥの木の枝:クルゥの木の枝。伸縮性が良い。油を含んでおり、良く燃えるので薪として使われる事が多い。売買価値1個に付き5G』
『苔:夜に月の光を受けて光るので光源として役に立つが、それ以外は何の変哲も無いただの苔。売買価値100gに付き5G』
『薬草:HPを小回復させる効果があり、ポーションの材料になる。大抵の森に多く群生している。売買価値100gに付き10G』
どれもに説明文が表示された事を確認して、椎名は感心してへえ、と感嘆の声を上げた。なるほど、これは中々に便利な機能である。特にこれからこの森で生きて行かなければ生らないかもしれない椎名にとって、これ以上にない便利な機能だろう。
そして、表示された名前のどれもが、ゲームのアイテムの名前に見覚えがあったことも確認した。やはりこの世界はゲームの世界と考えて良いだろうと椎名は確信した。
それから、椎名は地面に茂っている低木をじっと眺めた。しばらく眺めたが何もでないので、次に葉っぱをちぎって手に持った状態で眺める。
『チィの葉っぱ:ただのチィの木の葉っぱ。用途は無い。売買価値100gに付き1G』
今度は説明文が現れた。椎名は思案顔を浮かべた。
(アイテムじゃないと表示されないってことか?それとも、手に持てるくらい小さく無いと表示されないのか?)
どちらにせよ、この機能については制限も存在しているらしいことが分かった。後々、ちゃんと調べる必要性があるだろうと椎名は思った。
(それにしても、小ダメージだとか回復だとか、さっきのランボの実のステータス異常とか…まるで俺にもステータスが存在しているような…)
椎名はそこまで思って、怪訝そうに首を傾げた。
「いや、ある、のか…?」
木の実や枝、小石までに説明文がつくのならば、自分についての情報、つまりゲームの用語でいう『ステータス画面』も存在する可能性が高いと椎名は考えた。もしそうだとすれば色々と助かる事が多い。椎名にとって、今の椎名の身体については目下解明出来ない大きな謎であるからだ。
思い立ったが吉日と言わんばかりに椎名はすぐに行動を開始した。
「どうやって出すんだ?こう…『出ろっ!』見たいな感じに念じたり?」
こめかみに人差し指をくっ付けて難しそうに顔を歪ませてむむむと力んでみる。ついでに口で「ステータス、ステータスよいでよ、ステータスよ出てこい…』とあらゆるバリエーションでステータスを呼び出そうと椎名は努力する。
だが。
「…ぷはっ!ぜえ、ぜえ…で、でない…」
力みすぎて肺に滞留していた濁った空気を思いっきり吐き出して、新鮮な空気と入れ替える椎名。頭の中で念じて、口にも出してステータスを出そうとしたが、結果は無惨に大敗である。椎名はがくっと肩を落として首を傾げた。
「うーん…もしかして無いのか?それとも、アイテムと同じ様に凝視すればデータが出てきたりするのか?」
思いつきで手の甲をじっと凝視してみる椎名。途端に手の甲辺り、つまり凝視していた所にアイテムの説明文よりも面積の広いパネルが音も立たせずに現れて、椎名は軽く目を見張った。
「で、でたっ!」
案外簡単に開く事が出来て、椎名は思わず声を弾ませて、軽く興奮気味に現れたパネルに表示されている文字を確認し始めた。
『名前:シーナ
性別:女
LV:5
職業:吟遊詩人
サブ職業:魔獣使い
HP:210
MP:510
攻撃力:120
防御:100
魔法力:290
魔防:150
素早さ:200
《スキル》転生者 異世界者 癒しの声
《装備品》
武器:なし
武器:なし
防具:吟遊詩人の服
装飾品:無し
装飾品:無し
《アイテム》
《所持金:0G》 』
「おお。やっぱりゲームのまんまなんだな」
幾つか違う所もあるが、殆どが椎名が最後に確認したゲームのステータスと一致した。椎名は軽く感心する。
(それにしても、やっぱり俺って女なんだな…)
ステータスの最初辺りを見て、椎名はげんなりとした表情を顔に浮かべた。ちょっと前に始めて気付いてそれからずっとスルーしてきたが、ここに来て再度現実を突きつけられた感がしてやるせなくなったのだ。
(職業はサブも合わせて完全に同じ。数値も殆ど一緒。ただ、スキルに見覚えの無い物がいくつか混じっているな)
スキルの欄の『異世界人』である。『転生者』は転生システムを使用して新たに作ったキャラクター全員に付くスキルで、最初からステータスにある程度の特典、ボーナスが付く効果があり、『癒しの声』は吟遊詩人として扱う魔法の効果を増大させる効果があった筈だ。だが、『異世界人』は見た事も聞いた事もなかった。椎名は指先で『異世界人』をタップした。
『異世界人:異世界にやって来た者。レベルアップ時、全ステータスの上昇に補正が付く』
(あー…つまり、レベルアップした時のステータスの上昇数値が増大するってことか。かなりのボーナススキルだな)
というか、ここが異世界である事は完全に確定してしまったらしい。椎名はその事にため息を吐いた。
(異世界、か。まあ分かっていた事だったけど、ここまではっきりと言われると何か凹むなあ…まあ、今はスルーしておこう)
ここでも持ち前のスルースキルを発揮して、椎名は次に装備の欄に視線を移した。
(これ、俺なんで武器を持ってないんだろう。確か最後に見た時は武器を持っていた筈だったんだが)
吟遊詩人としての武器はいくつか種類はあるが、その中でも椎名が使っていたのは『弦楽器』と呼ばれる武器だった。他に『笛』、『大弦楽器』の二つがあり、『弦楽器』は攻撃力、魔法力にバランスが取れた武器、『笛』は魔法力に重点が置かれた武器、『大弦楽器』は攻撃力に重きを置いた武器だった筈だ。椎名はステータスがどちらか一方に偏る事を嫌い、だから『弦楽器』を装備していたのだ。
だが、ステータスを見ても武器の欄は空白だ。実際椎名は『弦楽器』を見ていない。
(…もしかして)
椎名は直感でひらめいて、指先をアイテムの欄に向けた。
『《アイテム》 普通の楽器 ナイフ 指輪 』
アイテムの欄に触れた瞬間、別のパネルが出現してそう表示していた。
(やっぱりか)
今度は椎名は武器である『普通の楽器』に指を触れさせた。
『普通の楽器:普通の楽器。安物なのでそこまで良い音は出ない。初心者がよく使う初心者専用の武器。売買価格500G』
『装備しますか?
>YES
NO 』
説明文に重なる様に現れた小さなパネルに、椎名は『やった!』と声を出した。
アイテムの欄は、つまりゲーム用語で言う所のインベントリという機能なのだ。ゲームの様にバッグがなくてもインベントリに入れる事により、本来なら持てない量を簡単に持ち運び出来る、というファンタジーっぽい機能である。
椎名は迷う事なく『YES』を押した。モンスターが存在するかもしれないこの世界に置いて、武器の有無は雲泥の差を生じさせるだろう。武器があるとないとでは安心感が違うのだ。ただ、もしモンスターが現れたとして、そこで椎名が武器を持っていたとしても、椎名は戦える自信がこれっぽっちもなかった。本当にただの気休めで武器が欲しかったのだ。
「わっ」
『YES』を押した瞬間、手元にぱっと楽器が湧いてでてきた。慌ててそれを腕に抱いてキャッチする。
マンドリンによく似た楽器で、簡単にだが装飾されている。弦は5本あり、それぞれが違う音が出る様に糸巻軸で調節されてあった。
椎名はそれを腕に抱いて唖然と眺めた。いきなり虚空から現れた事もそうだが、楽器がゲームの世界で使っていた武器のまんまだったからだ。何だか椎名は自分がコスプレをしているような錯覚に陥った。
(しかも、何か手に馴染むし)
何故だか知らないが、長年使い続けてきたような、もう既に自分の身体の一部なんじゃないかと思ってしまう程手に馴染んだ。このまま弾きだしても問題なく弾けるような気がした。
椎名はそんな感覚のままに楽器を構えて、それから恐る恐る弦を手で弾いた。ビィン…と綺麗な音がして、音が出る事が分かるとそのまま指を動かして行く。頭の中で適当にゲームのBGMをピックアップして、それを軸に楽器を奏で始める。
(何か弾けるようになってるんだが…)
どの弦をどのように弾けばどんな音が出る、ということがぱっと分かってしまう。椎名のたおやかな指も何の抵抗もなく、逆に指一本一本に意思があるかの様に軽やかに弦を弾いていく。何拍とれば良いのかとか、細かいリズムだとか、そう言う事が自動的に頭の中にインストールされているようだった。
それからしばらくゲームのBGMを弾き続けて満足した椎名は、信じられない様に自分の手を眺めた。
(ちゃんと最後まで弾けた。今までピアノすら触った事が無い俺が…)
一体何故、というのは考えても徒労に終わるだけだろう。ここは事実だけを受け止めて次に進むべきだったが、椎名はとある感情に支配されていてそれが出来なかった。
(楽しい。音を奏でる事がこんなに楽しい事だったなんて、全然知らなかった…!)
楽器を奏でている途中、心が躍って血肉が騒いで喉が勝手に歌を歌いだそうと震え、まるで自分が音の一部になったような気がして、そのことがこれ以上にない程嬉しかった。心が晴れ晴れとして、身体が躍りだしそうな程興奮した。
椎名は早くなった動悸を抑える様に胸を抑えて、ふう、と落ち着く為にため息を吐いた。
(多分、俺の職業が吟遊詩人だから、音を奏でるのが楽しくて仕方無いんだ)
椎名は直感でそう確信した。これも職業である吟遊詩人の効果なのだ。
楽器を握りしめて、それを眺める。これがあれば何でも出来そうな気がして、椎名の頬が自然に緩む。次は何を弾こうか、という思考が頭を掠めて、椎名は慌てて頭を振った。
音楽を奏でるのは良いが、今は他にも検証しなければ行けない事が多いのだ。椎名は今すぐにでも覚えて居る曲を全て弾いてみたい欲求に駆られたが断腸の思いでそれを我慢した。
(次は、ちゃんと『魔法』が使えるかどうか、だな)
椎名は立ち上がってお尻の砂をはたいて落とし、楽器を構える。それから、感覚に身を任せて何かを込める様に一回、ピィン…、と弦を鳴らした。瞬間。
ヴォン、と椎名の周りに一つだけ光弾が現れて、ビュンッ、と一つの光の矢となって空気を焼きながら飛んでいき、大木の表面に大きな刺し傷を付けて消えた。
(…譜形魔法『ライト・アロー』)
『ライト・アロー』は光属性の攻撃魔法だ。自分の周りに光の弾を発生させ、その弾を対象に向けて矢の様に放ちダメージを負わせる。
椎名は手の甲を凝視してステータス画面を表示させ、それからMPの欄を確認する。
『名前:シーナ
性別:女
LV:5
職業:吟遊詩人
サブ職業:魔獣使い
HP:210
MP:502
攻撃力:120
防御:100
魔法力:290
魔防:150
素早さ:200
《スキル》転生者 異世界者 癒しの声
《装備品》
武器:なし
武器:なし
防具:吟遊詩人の服
装飾品:無し
装飾品:無し
《アイテム》
《所持金:0G》 』
(思った通り、MPが減ってるな)
ステータスのMPが510から502になっていることを確認して、椎名は手の甲から視線を外して先ほど自分が放った『ライト・アロー』が傷つけた大木に移した。
椎名は大木に近づいて傷に手を触れさせ、大きく息を吸って歌いだす。ゆっくりとしたリズムで、聞いていて癒されるような曲だ。綺麗で甘美で美しい歌声が森に響き、椎名の足下で優しい緑色の光が溢れ始める。大木の表面の傷が同じ色の光に包まれて、次第にその傷を塞ぎ始める。
譜形魔法『ヒーリング・ボイス』。癒しの歌声で傷を塞ぐ光属性の回復魔法だ。歌い続ける限りその効果は持続する。
数十秒掛けて完全に大木の傷が癒えたのを確認して、椎名は歌を止めた。それから再度ステータス画面を表示させる。
『名前:シーナ
性別:女
LV:5
職業:吟遊詩人
サブ職業:魔獣使い
HP:210
MP:481
攻撃力:120
防御:100
魔法力:290
魔防:150
素早さ:200
《スキル》転生者 異世界者 癒しの声
《装備品》
武器:なし
武器:なし
防具:吟遊詩人の服
装飾品:無し
装飾品:無し
《アイテム》
《所持金:0G》 』
今度はMPが502から482まで減っていた。『ライト・アロー』でMPを8、『ヒーリング・ボイス』でMPを21消費した事になる。ただ、『ライト・アロー』は一発一発が決まった量のMPを消費するのに対し、『ヒーリング・ボイス』は発動時間によって消費MPが変わってくるので厳密な消費魔力量は分からない。
それにしても、と椎名は肩を回して大きく伸びをする。
(魔力が抜けて行くって、何か変な感じだ)
力が抜き取られていく様な、そんなあんまり慣れないような感覚がしたのだ。力が抜けて行くと言っても、筋肉が疲れたりという身体的疲労は余りない。少し使っただけだったので椎名には分かりかねたが、どちらかと言うと精神面で疲労した様な感覚だった。
(だけど、これで魔力を使って魔法を発動させる事が出来る事が分かった。心強いな)
椎名は頬を緩めてぐっと楽器を握った。やっぱり武器一つあれば安心感が違う。これならどんな魔物が来ても、最低限逃げる事くらいは出来そうだ。
(よし、このテンションのまま、もう一度森の中を探索してこよう)
椎名はそう思い立って、前回入った方とは逆の方向の茂みへと向かって行った。太陽はまだまだ上空で力強く輝いている。夜が来るまではまだまだ時間はあるだろう。それまでに沢山食べ物を集めておきたかったし、川や村があるかどうかの確認もしておきたかったのだ。
椎名はずんずんと森の中へと分け入っていったのだった。
連続投稿してみました。頑張ります。