08
やがて春輝にとって嫌な季節である梅雨が終わった。次に来るのはジメジメと湿気が多いのでそれはそれで嫌なのだが、それでも晴れる日の多い夏を迎え、
「雲一つない快晴! 白い砂浜! 青い海! そして誰もいないプライベートビーチ!」
すべての学生が楽しみにしている夏休みは、基本的に人のいない無人島でのバカンスから始まった。
―――――八月に入ってから、皆さんで此方の別荘に行きませんか?
朱莉がそんな発言をしたのは中間テストを終え、夏休みに突入する二日前のことだった。当然、セレブの別荘地へ行けるとなれば反対はなく、オカルト研究同好会のメンバーで鬼灯家が所有する朱莉のお気に入りの別荘へとやってきたのだ。
「おいコラ凛斗! 人に荷物持たせておいて叫んでんじゃねえよ!」
穴場ではない人生初のプライベートなビーチの存在にテンションアゲアゲな凛斗は、本当に人っ子一人いない砂浜に向かって思い切り叫んだのだ。
「やーごめんごめん。いやもうヤバいよ、テンションヤバい。だってプライベートなビーチにクルーザーに、しかも個人所有の無人島だよ!? 姫と付き合ってなかったら一生拝めないようなセレブのオンパレードだよ! これでテンションが上がらないってのがウソだよ!」
「テンション上がるのは否定しねえよ。だから早く荷物を持て!」
最高のロケーションなのに違う意味でテンションが下がると付け加えて、持っていた凛斗の荷物を放り投げた。
「しっかしまぁ・・・凛斗さんの気持ちも分からーではないッスね。自分も田舎のばぁちゃんちで海水浴はよぅやるんスけど、こんな人気のない海は初めてッス。こないな経験させてもろうて感謝感謝ッス朱莉さん」
先行して騒ぐ凛斗と春輝から少し下がって歩く涼太は隣を歩く朱莉に礼を述べていた。掛け値なしの感謝に「喜んで頂ければ幸いです」と余裕を返す。そして手ぶらで歩くその姿にも余裕が滲み出ていた。
今は夏休みであるために、全員が私服である。ごく平凡な一般家庭に育った凛斗、春輝、涼太の三人は思い思いに庶民の服装を身にまとっている。だが白い裾長のワンピースに麦わら帽子をかぶる朱莉の姿はどこから見ても〝お嬢様〟なのだ。
「(これがセレブの持つオーラなんやな! 拝んどこ)」
南無南無、と手を合わせる涼太を朱莉は不思議そうな顔で見ていた。
「着いた! おぉ・・・ここが姫の別荘なんだー・・・。スッゲー・・・」
「へえ・・・本当にスゲェな」
「これが別荘なんスか・・・。普通に豪邸ですやん」
三者三様に感想を口にする。どーん、と。聳え立つ別荘のスケールに、庶民の価値観では「スゴイ」としか言いようがなかった。だが、
「そんなに驚かれては心苦しいです。ここは此方の気に入っている別荘ですが此方の家では小さい方なのですよ?」
その爆弾発言に耳を疑う。二階建てで広さは分からないが旅館―――洋館なのでホテルなのかもしれないが―――をすることだって出来そうなお屋敷が、小さい方。セレブの感覚は意図せず庶民を硬直させる。
「お嬢様。そして皆様も、暑い中御足労でございました。ささ、どうぞ中へ」
玄関先で一行の到着を待っていたいつかの執事さんが恭しく一礼し中へと招く。この暑い外で執事服に身を包みながら汗一つかいていない傑物だ。
「あ、お久しぶりです浮形さん」
「お久しぶりでございます渡良瀬様、戸川様。こちらのお方は初めて見ますね。お初お目にかかります、私は朱莉お嬢様に仕える執事の浮形と申します」
「ご丁寧にどうもッス。自分は沖 涼太と言います。朱莉さんの二つ下の後輩です」
凛斗が挨拶し、春輝は会釈する。初対面同士で挨拶を交わしたところで一行は中に入った。外装が既に豪邸であるのなら中も中で豪勢で、シャンデリアを始とした調度品の数々にただただ圧倒される。偏にそれは庶民には手の届かない高級な品々の放つ威風だ。
「ねえ姫・・・この壺っていくらするの?」
調度品の美しさよりも値段や価値を気にしてしまうのは貧乏人の性。何となく目に留まった玄関の傍にある階段の下に置かれていた壺を指して値段を尋ねる。
「そうですね・・・浮形、あれはおいくらでしたっけ?」
「はい。その壺は百二十万円ほどで購入したと記憶しております。申し訳ありませんが現在の価値については私の知るところではありません故お売りできるかどうかは・・・」
「いやいや買いませんよ。てか買えませんって」
ちょっとした好奇心に取引を返されたことで慌てて凛斗は否定する。バイトもしていない一学生の身分で百二十万円の大金なんて払えるわけがない。しかもその大金を壺に使うという考えすら凛斗には浮かばないことだ。
「ではまずはお昼にしましょう。食堂はこちらですよ」
「皆さんのお荷物も食堂に置かせていただいております。あとでお部屋の鍵をお渡ししますので、それぞれのお部屋にお運びください」
先行する二人の馴染んだ姿には呆気に取られるしかないが、驚いてばかりではいられないために奮起してついていく。食事の味にまで気が回るかが心配だった。
「おおぅ・・・この肉うめえ・・・んでもって柔らか!」
庶民の通うスーパーには置いていない|A5ランク(最高級)のサーロインステーキを頬張り、そのあまりの美味しさに春輝は舌鼓を打つ。都の作る料理に対して不満や物足りなさがあるわけではないが、次元の違うものを食べたことで涙が出ている。
「このパスタも美味しい! なんていうか一個一個の素材の味がすごい・・・!」
一方凛斗は凛斗で好物のミートソーススパゲッティに感激している。割と身近にある料理なのだが材料や作り手のレベルが違うだけでここまで変わるのかと、思い知る。
「このハンバーグも最高っスよ! 方々を旅していろんな店を食べ歩きもしたんやけど、これは格別やわ~」
朱莉を除いたメンバーの中では様々な料理を食べてきた経験豊富な涼太でさえも、食べる機会のなかったセレブな料理を初体験し、そこら辺にある敷居の高い高級料理店が霞んで見えるような気さえ起こしている。
各々がそれぞれ今までに食べたこともない豪勢な食事に没頭してやいのやいのと騒いでいる光景を朱莉は微笑みながら冷静かつ優雅に食事を進めていた。その有様に執事の浮形は眉間にシワを寄せていたが、場を鎮めようとはしなかった。というより出来ないでいた。なぜならば主である朱莉に止めるなと命じられていたことに加え、朱莉自身もとても楽しそうにしていたからである。何故ならばこの別荘でも本邸でも、食事をする際に朱莉は常に一人だったのだ。「大人数での食事が楽しいから止めないでください」と面と向かってお願いされてしまっては、執事である浮形が異を唱えることなどできはしない。
「あー・・・食った食ったぁ・・・。もう・・・腹いっぱいだ・・・」
「まず食べられないからってさすがに食べすぎたよね・・・けふっ。ごめん」
「スゲェ美味かったッスー。これに慣れたら自分、間違いなく戻られへん・・・」
見たこともない御馳走に対して異様に箸が進んでしまった庶民三人組。油断すればリバースしてしまいそうな状態の腹を抱えながら、椅子に背中を預けて余韻に浸っていた。
「満足していただけたようで何よりです。では早速それぞれのお部屋に案内しようかと思うのですが・・・動けます?」
朱莉の質問に掌を横に振って「無理」とアピール。
「ごめんね姫、もうしらばくは動けそうにないや・・・」
「申し訳ないっス朱莉さん。自分も・・・今動いたら出る」
何が、とは敢えて言明しなかった涼太だったが、食べすぎて動けないのを前提に質問したために朱莉は「そうですよね」と一言で済まして食後の紅茶を飲み、三人が動けるようになるを待つことにした。なお、三人が行動可能になったのは一時間も後のことだった。
「うっひゃー・・・個室も個室で広いっスねえ・・・」
「ほとんどホテル並みだぜ。俺の部屋は大体この半分か」
「十分広いじゃないッスか!」
「そーかぁ? ベッドとかを置いてるからもっと狭いぞ?」
程なくして来客用の個室に案内された三人はそれぞれの荷物を運ぶ。だがそこもセレブ色に染まる部屋で、洋風だが床面は三十畳ぐらいでテラスがありベッドはキングサイズで天蓋付き。普通に一世帯が暮らせそうな広々とした「客室」だった。
「広すぎて落ち着かないよ・・・春輝、添い寝してくんない?」
「バカ言ってねえで一人で寝ろ」
「けーち」
凛斗を追い出して一人になった春輝はカバンを置いてベッドに倒れこんだ。
「うおっ!? 沈む! 沈むぞこのベッド!」
予想以上のふかふか感に満腹感などなんのその。のびのびと寛いだ後、起き上がった春輝はおもむろに義足を外して状態をチェックする。
「あー・・・やっぱり潮気が付いたか。海水を被ったわけじゃないがここに来るまで船の上だったからな」
接合部にかいた汗も、と加えて手入れを開始する。義肢に水分は禁物、まして塩水なんて天敵そのもの。潮風に当てられただけとはいえ油断は大敵。しかしそこまで酷いわけではないために手入れも軽く、表面をウエットティッシュで拭ってタオルで拭き取り、接合部はタオルで塩気を払うだけにする。
「もっと酷くなったら丸洗いするのも考えておかないとな。あんまりやりたくないけど、ここにいる以上は仕方がないか」
手入れを終えた義足を再び装着し、改めてベッドで寛ぐ。自室にある適度に硬いベッドも気に入っているが、こんなのもたまにはいいなと思いつつ、徐々に瞼が重くなる。そして訪れた睡魔に抗うことなく、春輝は微睡の中へ沈んでいった―――――。
穏やかな午睡を経て、賑やかな夕食を取り、主にトランプで遊んだりして夜を過ごし、夜も更けたところでここの部屋に戻って就寝時刻を迎えた。もう起き上がってどこかへ行く用事のない春輝は義足を外して弾力包帯を巻いてベッドに横になり、何をするでもなくぼんやりと天蓋を眺めている。
「天蓋付きのベッドか・・・俺には無縁のものだと思ってたけど、まさかこうして体験する機会が訪れるとはな。どーにも落ち着かんし、これで眠くなるまで星空を眺めるのもいいのかもしれないけど・・・・」
ちらり、と。寝転びなら首だけを動かして窓の外を見る。そこに広がるのは澄んだ空気に雲一つない開けた星空―――――ではなく、どんよりとした雲に覆われた空だった。夜半より降り始めた雨と風により、窓ガラスは打ち付けられて風に揺れている。
「まあ・・・これはこれで心地いいか」
雨粒が窓を叩く音。風が窓枠を揺らす音。風に吹かれた周辺の木々が鳴らす音。地面に落ちた雨の音。総じて自然の音楽に耳を澄ませ、瞼を閉じて睡魔が訪れるのを待っていたところに、新たなアクセント。
「おっ」
ピカッ、と。曇天の空を明るく照らす。
ゴロゴロッ、と。二秒ほど遅れて雷鳴が轟く。
雨風に加えて雷鳴もまた音楽に加わり、これもまた心地よいと春輝が瞼を閉じたところで再び雷光が空を照らし、間を置かずにドォンッ、と。落雷を知らせる。
「今度のは近いな。島に落ちて火災発生・・・なんてな、笑い話にもなりゃしねえ。どうでもいいけど、海にも雷って落ちるのかな・・・」
そうしたら海の魚は感電するなー・・・、なんてことを考えていると、雨音に紛れて消えそうな控えめの音が鳴る。コンコンコン、と。ドアをノックする音だ。
「んん?」
「は・・・春輝・・・まだ起きてる・・・?」
「凛斗か。起きてるけど、どうしたー?」
消えそうなノックの音に消え入りそうな凛斗の声。少々聞こえづらくはあったが凛斗の声に返事をすると、ゆっくりとドアが開かれて凛斗が中に入ってくる。
「あのっ、ね・・・やっぱり春輝が寂しいといけないからそっ・・・添い寝、してあげようかなって思って来て、みたの・・・」
明らかに声は上擦り、何かに怯えていた。そんな凛斗の態度を知ってか知らずか春輝は凛斗の提案に否と答える。
「別に寂しくなんかねぇよ。ホームシックにもなってねぇし。変に俺の心配なんてしなくていいから、部屋に帰って寝ろ」
「そ、そうなんだけど・・・」
帰れという春輝の言葉に反論する言葉を探していると、再三雷光が空と部屋を照らし、
「ヒッ! ~~~~ッ!!」
少し間を置いて落雷を告げる。雷光が空を照らした瞬間に短く悲鳴を上げて両手で耳を覆い、体を縮ませて小さく震える。凝視しないと分からない程だが、それでも凛斗は震えていた。
「(そういや雷は苦手だったっけ・・・)」
「ほ、ほら、こんな天気だったら、眠れないかなーって、お、思ってね・・・」
「ほれ」
震える唇でなおも見栄を張る凛斗が言葉を紡ぐ最中に、布団を大きく開けて凛斗を招く。春輝の行動にきょとんとした表情を浮かべる凛斗に対し、
「雷が怖いんだろ? 一緒に寝てやるから、来い」
「あ、ありがとう、春輝」
招かれた誘いを突っぱねることなく、凛斗は春輝の布団に潜り込む。枕は一人分しかなく凛斗は持参しなかったために、右腕を横に伸ばして凛斗の頭の下に入れる。言わば〝腕枕〟の状態だ。そうなると必然的に二人の距離は近くなり、文字通り目と鼻の先だ。
「・・・・・」
心なしか顔の赤い凛斗に気兼ねなく春輝は言葉を紡ぐ。
「昔もこんな風に一緒に寝たよな。あれはたしか小学校の時で凛斗の家でだったか」
「うん・・・。あの時も雷が鳴ってたよね・・・」
今の状況が昔の思い出に沿うことに懐かしさを感じる春輝に対し、凛斗の心臓は早鐘を打ちっぱなしだった。
「(近い・・・。顔が近いよ春輝・・・息が当たる・・・)」
距離が近いことを認識するのが恥ずかしいのか瞼を閉じて無理矢理にでも寝ようとする凛斗だったが、目が冴えてしまっては一向に眠くならず、それに反して春輝は大欠伸をして眠りに落ちていく。
「・・・春輝・・・寝ちゃった・・・?」
添い寝を始めてからしばらくして、規則正しい呼吸を繰り返す春輝を呼び掛けてみるが、返答はない。本格的に眠ってしまったようだ。
「・・・・」
そこでようやく目を開けてみると、すぐ近くに春輝を顔があった。腕枕をしているのだから当然と言えば当然なのだが、いろんな意味で凛斗には衝撃的だった。
「・・・・」
目の前には穏やかに寝息を立てる春輝。昔から知っている中ではあるが、寝顔を見るのは本当に久しぶりだ。それ見ていると余計な思考というものが削げ落ちてゆき、心に秘めた願望が顔を出していく。
「―――――」
もう雨音も風の音も、自然の音楽も雷鳴も聞こえない。ただ二つ、春輝の寝息と自分自身の心臓と音しか聞こえない。ドクンッドクンッ、と。雷の音以上に自分の鼓動がうるさいと感じる中、穏やかな寝息を立てる春輝にそっと顔を近づけていき―――――
「・・・ッ・・・」
触れたかどうかも微妙なところで、二人の唇は合わさった。舌を絡めないソフトキスといっても疑わしいぐらいの極めて軽い交わりだった。だがそれでも唇は合わさったのだ。
「うぅん・・・」
「!」
僅かに触れて離れた瞬間、寝言を呟いた。気付かれたのかと思い、慌てて春輝との距離を元の位置まで戻すが、起きたわけではなくそのまま横向きから仰向けに寝返りをうっただけで、それにホッと胸を撫で下ろす。
「・・・・」
そっと凛斗は自分の唇に触れる。一瞬過ぎる交わりだったが、確かに自分のとは違う温もりと感触が残っている気がする。春輝は覚えていないだろうが、これが凛斗にとってのファーストキスだ。
「おやすみ、春輝・・・」
そうして凛斗もまた、瞼を閉じる。今夜はいい夢が見られそうだと、思いながら。
―――――が、結局夢を見ることはなく、そのまま朝を迎えた。