第6話 脅迫電話
警察署はいつものようにバタバタと騒がしく、重苦しい雰囲気を醸し出していた。
「タバコ臭いわ」
レベッカが手で鼻を覆った。辺りを見渡していると、二人の警察官に両腕を捕まれた青年が暴れながらこちらへ向かってきた。
「俺は何もしてねぇって言ってんだろ! あいつに聞いてくれよ、俺はあの時あいつと一緒にいたんだ!」
後ろ手に手錠をかけられながらも暴れ続けるその青年を横目に、私はテリーを待った。
「顔はいいけど性格が悪そうね」
私はレベッカに耳打ちをする。青年はずり落ちそうなズボンを引きずりながら、警官と奥の部屋に消えていった。
ふと玄関を見ると、テリーが走ってこちらにやってきた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
案内されたのは、いつもの小さな部屋ではなく、何十人と入れそうな広い会議室だった。しかしカーテンは閉め切られているせいか、ジメジメとした雰囲気が否めない。
「早速本題に入ってもいいでしょうか?」
長いテーブルに座ったテリーと向かい合わせに私は座った。
「これです」
テーブルに置かれたのは、一本の口紅だった。有名なブランド物ではなく、そこら辺で安く手に入りそうなものだ。
「これですか?」
レベッカは座らず、私の背後から口紅をまじまじと見つめた。
「はい、前の夫になんでもいいからナターシャの物をと聞いたところ、クローゼットにこれがあったんです」
「まぁ、旦那の物ではなさそうね」
「えぇ」
私は恐る恐るだったが、口紅に手を伸ばす。
「え?」
が、思わず手を引っ込め首を傾げた。
「どう?」
「え、ええ」
視線を口紅からテリーに移し、まばたきをする。彼も私をジッと見つめた。
「どうしたんですか?」
「これ、本当にナターシャの?」
「ええ、たしかに」
無言で口紅に目線を戻し、考えた。
間違いない、私があのとき見た女性だ。ナターシャだ。口紅に触れた時、笑顔の彼女を見た。あのときの荒々しい顔ではなく、幸せが溢れんばかりの笑顔だった。
「この女性ですか?」
テリーがレベッカが描いた似顔絵を見せる。小さく頷いた私は、口紅を見つめた。
ピーターとマリアを殺害したのは彼女に間違いない。犯人はナターシャだ。
「我々はこれから全力でナターシャを捜索していきます」
一礼したテリーは足早に部屋を後にした。彼の背中を見送ったレベッカが頬杖をつく。
普通ならばこれで事件が解決するところだが、なにか釈然としない。この気持ちはなんだろう。胸の奥に何かがつっかかる。思わず私はレベッカに視線を移す。
「どうしたの?」
「ちょっと、腑に落ちないところがあるんだけど」
「別人だって?」
「いいえ違うの。私が見たのは間違いなく彼女よ。でも、なんだかこう、しっくりこないっていうか」
「どういう事?」
「私にもよくわからないのよ」
「他に何かあるの?」
「・・・」
「ちょっと、整理してみましょうか」
そう言うとレベッカは私と向かえ合わせの席についた。
「まず、ナターシャがピーターとマリアを殺害したっていうのは間違いないわよね?」
「そう、だと思うわ」
「そして今ナターシャは行方知れず。それは逃亡したってことよね?」
「そう、よね」
「じゃあナターシャが犯人じゃない」
「そう、よねぇ」
その時だった。『彼女』の言葉が私の脳裏に浮かんだ。
「そう、そうなんだけど、彼女がピーターを殺害するときに、こう言ってたの『できればこんなことしたくない』って。おかしいでしょ?誰かに犯行を強要されたってことじゃない?」
「ちょっと、それ初耳だわ。どうして早く言わないのよ!」
「忘れていたのよ。私だって気が動転していたし。ねぇおかしいでしょ?嫉妬で殺害をしたのならそんな事言わないだろうし。」
「・・・そう、だろうけど。」
私達は少しの間、無言で考え続けた。レベッカが一回咳き込む。
「空気が悪いわ。家に戻りましょうか?」
「ええ。」
車に乗り込みエンジンをかけるが、何か釈然としない空気が頭を駆け巡っていた。
ナターシャが二人を殺害したのは間違いない。私が見たのだから。それじゃあこれで事件解決だ・・・と思えないのはどうしてだろうか。
心の奥のモヤモヤが取れない。『彼女』の言葉が気にかかる。「こんな事したくない」と言ったのだ。誰かに何か弱みを握られて仕方なく?だとしたらその「弱み」とは?
わかっている。全て私の想像でしかないことは百も承知だ。しかし謎も残る。なぜ前の夫は彼女の写真や私物を全て廃棄したのか。ただ見たくないと言っている。果たして本当なのだろうか。
考えすぎて疲れてしまっていた私は、レベッカを家へ送り、自分も家に戻ると娘の姿を確認しないまま居間のソファで眠ってしまった。
日差しを眩しく感じ、目覚めたときはすでに新しい一日が始まっていた。ブリジッドの名前を呼ぶが、返事はない。もう学校に行ってしまったのだと思ったが、今日は日曜日だったのを思い出した。
「ブリジッド?」
少し目をこすりながら階段に目を向けるが、声は聞こえてこない。仕方なく居間に戻り、冷蔵庫を開けようとしたとき、ダイニングテーブルにメモが置かれていた。
「ちょっとでかけてきます。晩ご飯には戻るから」
メモを読みながら冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出す。
「ちょっとって、どこに行ったのかくらい教えてよ」
ペットボトルを戻し、ソファに腰を掛ける。
ナターシャの事を考えていると、家の電話が鳴り始めた。面倒臭いと思いながら電話の子機を手に取り、ソファに寝そべった。
「もしもし?」
「・・・これ以上首を突っ込むんじゃない」
「はい?」
それはボイスチェンジャーで変えたような甲高い声だった。寝ぼけていた私は、ボーッとした。
「・・・」
少しの沈黙の後、電話は切られた。頭が回転しないまま受話器を置く。
「・・・え?」
一瞬の間を置いて子機をもう一度取り、レベッカの家に電話をかける。そしてそれを持ったまま玄関へと走った。
鍵は掛かっている。続いて二階に走る。ブリジッドは外出しているはず、誰もいないことを確認し終えたとき、レベッカが電話に出た。
「もしもし?」
私は家中の窓とドアに鍵が掛かっているか確認しながら話す。
「レベッカ?今うちに変な電話がかかってきたのよ」
「変な?」
「これ以上首を突っ込むなって」
「えぇ?なによそれ?」
「私にもよくわからないの」
「他にはなんて?」
「それだけ」
「心当たりは?」
「ないわよ」
「何もないのにそんな電話来る?」
「それは・・・そうだけど。こっちに来られない?ちょっと一人じゃ心細いの」
「いいわよ」
「本当?助かるわ」
「テリーには連絡した?」
「いえ、まだよ」
「じゃあ私が行くまで電話しておきなさいよ」
「わかったわ」
電話を切り、続いてテリーの携帯電話の番号を押した。
「・・・あっもしもし?私だけど・・・」
「あぁおはようございます。どうしたんですか?」
車を運転しながらなのか、声が聞きづらい。
「今、変な電話がかかってきたの」
「変な電話・・・ですか?」
「ええ、これ以上首を突っ込むなって」
「なんですって?あぁ今ちょうどあなたの家の近くを走っているんです。すぐに向かいます」
「お願いします」
子機を元の場所へ戻すとパジャマだった事に気付いた私は、急いで着替えようと寝室へ向かった。少し寝癖があるが仕方がない。
強引に髪をなでつけ、気を紛らわそうとテレビをつけた。カフェで見た女性のアナウンサーが事件の報道をしていた。
「強盗殺人事件が発生しました」
現場の映像が流れる。どこかで見た風景がそこにあった。家の近くにあるコンビニエンスストアに酷似していた。
「これって、あそこ?」
インターホンが鳴った。電話をかけてまだ何分も経っていない。私は恐る恐る玄関へ向かう。
「どちら様?」
「私です」
「テリー?」
勢いよく扉を開けると、少し息の上がったテリーがそこにいた。私はホッと胸をなで下ろし、居間へ通した。
「早かったわね」
「ええ、実はそこのコンビニで事件がありまして、捜査に来ていたんですよ」
「来てもらって大丈夫なの?」
「捜査員は私一人ではありませんから」
あのニュースはやはり近所のコンビニで起きた事件だったようだ。
インスタントのコーヒーをテリーに渡し、向かい合わせにテーブルに座る。落ち着かない私は腕を組んだ。
「それで、その変な電話の事なんですが」
「えぇ、やっぱり事件に関係あるのかしら?」
「多分、そうでしょうね。どんな声だったか覚えていますか?」
「ボイスチェンジャーで声を変えていたから」
「そうですか。ナターシャがかけてきたんでしょうか?」
「まさか。だって彼女は私の事を知らないはずでしょう?」
「ああ、そうだ。そうでした」
こんなことでよく警察官をやっているものだと思ってしまった。
「この事件に関わりがある人に私のことを話した?」
「いえ、ああナターシャの前の夫には言いましたが・・・彼が?」
「わからないけど・・・そういえば、その人の名前を聞いてなかったわ」
あぁとテリーは胸ポケットから手帳を取り出し、ページをめくる。
「名前は・・・ブラッド・ウィルソンです」
「ブラッド・・・」
彼があの電話をしてきたのだろうか、それともやはりナターシャが、と考えていると、二回目のインターホンが鳴った。レベッカだ。
「誰か来ましたよ?」
「レベッカだわ。あなたに電話する前にかけたの」
私は立ち上がり、玄関に走った。
「無事なの?」
入るなり私を抱き締めてくれたレベッカは少し涙目になっていた。
「ええ、テリーも来てくれたわ」
「そう・・・よかった」
居間に戻った私達はテーブルについた。
「テリーわざわざありがとう」
レベッカが私の手を握りながらそう呟く。
「いえ、捜査に協力していただいているんですから、当然ですよ」
それから私達は例の変な電話について話し始めた。
「声を変えているのなら誰かわからないわよね」
レベッカが親指の爪を噛む。それを見ながら私も小さく頷く。何か考え込んでいるテリーがボソボソと呟く。
「この事件にあなたが協力していると知っている人物で、それを快く思っていない。とすると・・・」
テリーがそこでうーんと唸る。
「あぁそういえばアスリーン。昨日のことテリーに話した?」
「え?」
「ほらナターシャが殺人を犯す前に言った言葉よ」
「あぁそうそう!テリー、言ってなかったことがあるのよ」
「なんですか?」
まだ考え込んでいるテリーに話を続けた。
「ナターシャがピーターを殺害する前に『こんな事したくない』って言ったの」
「えぇ?本当ですか?」
テリーが驚いて立ち上がる。彼の行動に私達は一瞬のけぞってしまった。
「言葉も聞こえるんですか?」
「え?ああ、聞こえるときとそうでないときがあるけど」
「なんて事だ・・・」
「ちょっと、今は感心している時じゃないでしょう?」
レベッカが呆れ顔でテリーを軽く睨んだ。彼は慌ててイスに座り直し、手帳とペンを持ち何かを書き込んでいる。
「それは・・・おかしいですね」
「えぇ。強要されて二人を殺害したのではと思っているんだけど」
「うーん・・・」
頭を掻いたテリーは何度も唸る。ナターシャの単独犯ではないとわかれば捜査もまた一からやり直しになってしまう。たとえ彼女を逮捕できたとしても、その主犯がわからなければ事件解決にはならない。
「ねぇアスリーン・・・」
何かを思い出したのか、レベッカが私の手をぎゅっと握った。少し痛みを感じるほどであった。
「どうしたの?」
「あなたの胸のモヤモヤはそういうことだったの?」
「え?」
「だから、ナターシャ一人の犯行ではないって、わかっていたからじゃない?」
「そう、かもしれないわ」
「まず、ナターシャを見つけることが先決ですね。私は現場に戻りますが、もし不安でしたら警察署に行きますか?ウィルに連絡をして向かえに来させますが」
「え?いえ、レベッカが来てくれたからもう大丈夫よ。ありがとう」
「警察なら安心できるじゃない?行かなくていいの?」
心配そうなレベッカの顔を見つめ、私は頷いた。
「そうですか。それではまた何かありましたらすぐに連絡してください」
「ええ、ありがとう」
それからテリーは私達に一礼をすると玄関へ消えていったが、レベッカの心配そうな顔は消えていなかった。
「本当によかったの?」
「ええ、なんだか警察署には行きたくないの」
「そんな毛嫌いして」
彼女はそう言いながらイスに座り直した。少し目をつぶった私は、あの時の電話が気になっていた。
誰がかけてきたのかは今はわからないが、きっとこの事件になんらかのつながりがある人物に違いはない。
来るなら来いと言いたいところだが、正直私はそんなに強い女ではない。普通の、一般的な女なのだ。あんな脅迫めいた電話がかかってきて、恐ろしく思わない人間なんてこの世には存在しないだろう。
「犯人はナターシャ一人じゃないわよね」
「そうね。あなたが聞いた彼女の言葉がなによりの証拠。でもまずはナターシャを見つけないと何も始まらないわ」
「どこに消えたのかしら?」
私はふと窓の外を見た。コンビニの前にはパトカーが何台か止まっていた。
ナターシャはピーターと離婚した。そして彼にマリアを紹介した。二人は婚約。それを逆恨みして・・・筋が全く通らない。とするとやはり誰かに殺人を強要されて?