遠くて近い残像。
いつものように、立花紀彦は教師のありがたい授業を聞き流しながら、教室の窓際席から外を眺めて過ごしていた。
べつに目新しいモノや、目を引く何かがあった訳でもなく、ただ少しずつ堆積していく灰色の雲を眺めて、一抹の不安を覚えていただけだった。
今朝、午後から雨が降るからと母親が差し出した傘を、適当な理由で玄関に置いてきてしまった。そのことを今更のように後悔していた。朝の時点ではあんなに蒼く澄み渡っていた空も、今や巨人の如く成長を遂げた雨雲に、ほとんど覆いつくされてしまっている。
――お前は昔から目先のことでしか物事を見ない。
今朝方、寝不足で眠くて仕方がないと父親にこぼした時に言われた言葉が、チクリと胸の中をつついた。
寝不足の理由も聞かず、心底呆れた調子で言った父親の馬鹿に仕切った薄ら笑いが思い起こされて、ぎゅっと瞼を閉じた。傘を置いてきたのは、きっと天気のせいだけじゃない。あのとき、たしかに自分はカァッと頭に血が上り、朝食のトーストに手もつけずに食卓から立ち上がると、父親の叱責を背に受けながら家を飛び出したのだ。
おかげで、今自分は空腹と眠気との両方の面で窮地に立たされている。紀彦の通う学校では、近くに食料を売っている店などなく、学校の購買でも、授業中の生徒の飲食を防ぐため昼休み以外は文房具しか売ってはいけない決まりになっている。
空腹を紛らわす手段はいっそ寝てしまうことしかなかったが、そのときは中間試験が迫っていたから、おいそれと惰眠を貪る訳にはいかなかった。友人にノートを見せて貰おうにも、紀彦はあまり社交的な方ではなく、いつも教室の端で一人、縮こまっているだけの存在だった。なので、まさにノートの取り逃しは学生生活においての死活問題だったのだ。
そうした危機を間近に受け、紀彦は父親の言った通りに事が進んでいるような気がして、まったく面白くない風だった。
黒板に書かれた数式を筆力の篭もらないペン先でノートになぞっていく。眠気のために意識が飛んでいきそうになるのを堪えているうちに、ノートと黒板とを交互に見ていた視線がいつのまにか黒板に固定されていた。
はっとなって視線を下に戻すと、ミミズがのたくったような数字とも思えない奇妙な模様が紙上に完成してしまっていた。紀彦は顔を顰め、苛立ちに任せてすっかり丸くなった消しゴムで乱暴にミミズを消しにかかると、力を込めすぎたせいで、ページの半ばまでがあっけなく破れてしまった。紙の破れる間の抜けた音が教室に響き、身体が硬直する。
なんとも間抜けな自分の様に、父親の薄ら笑いが木霊して、頭の中が瞬間的に沸騰しそうになった。
紀彦が「ちくしょう」と頭の中で歯噛みしたとき、紀彦の事情を見透かしたかのように、クスクスと笑う声がした。ハッとなり、ついつい笑い主を探ろうとしてしまいそうになるのを、なんとか堪えた。
授業中のために、露骨に振り返るわけにもいかず、誰が笑っていたか、紀彦には知る術もない。
――誰かに笑われてしまった。
内に滾った熱い感情が一気に冷め切ってしまい、紀彦は急に恥ずかしくなって、ぐっと身を硬くした。
「おい、静かにしろ!」
笑い声に反応した教師が、誰にとも無く注意を発すると、声はすぐに途絶えて聞こえなくなった。それでも、紀彦の中ではまだ自分が笑いものになってしまったという、自己嫌悪感だけが取り残されていた。
周囲に気づかれないように、小さな深呼吸を数度くり返し、何とか気分を切り替えるために、またそっと窓からグラウンドを見下ろしてみる。すると、紀彦はすぐに気がついた。
グラウンドの中央に、見慣れない子どもが佇んでいた。背格好から、小学生であろうと思われる。おかっぱのような髪の毛の下は幼い顔つきをしていた。どうやら女の子のようだ。
高校でもよく「小学生みたいだ」とからかわれるような奴がいるが、その小学生と思しき少女は私服で、しかも紺色のカーディガンの下に、何かのキャラクターがプリントされたシャツを着ていたから、まさか高校生であるわけがなかった。
その少女が、こちらをじぃっと見つめている。
どうして、小学生が高校の敷地内に堂々と佇んでいるのか。いつのまにやってきたのだろうか、紀彦は不思議に思った。
そもそも、位置的には職員室の窓からも十分に見えるはずなのに、なぜか誰も注意をしに行く気配がないのも妙だった。
しかし、紀彦はそのとき、少女のことをそこまで深く考えていなかったが、それでも、少女の茫洋とした眼差しに、異質な不気味さを感じ取ってはいた。
しばらく、二階の窓から少女と睨めっこを続けるうちに、教師の咎める声が、つんざくように紀彦の耳に届いた。思わず立ち上がってしまい、教室のどこかから、また乾いた笑みがこぼれた。どうやら、紀彦は十分ほども窓の外を見ていたらしい。教師の二三の注意の後、席に腰を下ろしつつ、激しくなった動悸を抑えるように、制服の上から胸に手を置いた。
その後、教師が黒板に向き合った隙に、そっと窓の外を覗き見ると、少女はいつの間にかいなくなっていた。
「やっと教師が仕事をしたかな」
紀彦は暢気にそんなことを考えていた。
その後、この少女は紀彦の行く至る所で、紀彦の視界の端々にその姿を現した。
夜の公園や、コンビニ。紀彦の家の前。教室の中なんてこともあった。
紀彦は唐突に現れた少女を見た瞬間、素っ頓狂な声を上げて腰を抜かして驚いたが、周囲を見るとクラスの誰もが少女ではなく驚いた紀彦を見ていた。
そこで、紀彦は少女の姿が自分以外には見えていないということに気づいた。それと同時に、少女がこの世の常識では計り知れない異常な存在であることにも思い至ってしまい、身体の芯から熱された鉄棒を引き抜かれた心地がした。
自分のものとは思えない叫び声をあげて後ずさり、ぎゅっと目を瞑った。
シンと静まり張り詰めていく教室の空気に急かされるように、そっと目を開けると、少女の姿は煙のように溶け消えてしまった後だった。無様な姿を衆目に晒した当事者だけが取り残されてしまった。
騒ぎを聞いて駆けつけた教師に腕を引かれ、廊下を行く間にも、紀彦の中で次々と恐怖心が鎌首をもたげ始めていた。
その日、学校を早退した紀彦は、出来るだけ景色を見ないよう、道路の白線を見下ろしながら、なぞるように帰った。どこを見ても少女の姿が目に映るように思われて、気が気ではなかった。そして、一度だけ駄目で元々の心意気で、親に相談することを決意した。父親に、したり顔で説教されるかもしれないからと、少女のことはずっと話さないでいたけれど、その存在が決定的に異質なものとわかったことで、誰かに相談せずにはいられなくなったのだ。
我が家に辿りついても、まったく気が抜けるということはなかった。
紀彦はイヤホンを耳に深く差し込み、音楽を大音量で流し込みつつ、自室のベッドの上で膝を抱えた。紀彦は膝小僧の合間に頭を挟んで強く目を閉じ、早く両親が帰ってくることを切に願った。
もし目を開けた瞬間に、目の前にあの少女が存在してしまったら、きっと自分は正気を保つことが出来ないだろう。そんなことを考えているうち、そのまま、いつの間にか紀彦は眠りについてしまった。
気がつくと、窓からは斜陽の濃い光が部屋に射し込んでおり、部屋の壁を赤と黒とで彩っていた。
ちょうどそのとき、階下の方から「ただいま」とくぐもった調子の父親の声が聞こえ、紀彦は思わず立ちあがった。
目を閉じたまま、部屋の戸を開けて、一気に階段の手すりまで走り寄った。背後に何らかの存在感を感じ取ってはいたが、紀彦には気にしているだけの余裕がなかった。
階段をドタドタと駆け下りる。
普段は食後、すぐに自室に篭もってしまう紀彦だったが、このときは一秒でも早く家族のいる居間の空気が吸いたかった。
一階の暗い廊下を抜けて、電光のこぼれる居間のガラス戸を開けると、転がり込んできた紀彦を見て、父親と、いつの間にか帰って来ていた母親が揃って目を丸くした。
「どうしたんだ? そんなに慌てて」
父親が平静を装いつつ問う。
「あ、いや……」
紀彦は突発的に開きかけた口を噤んでしまった。なぜだか、紀彦は少女のことを言い出す気力が霧散してしまったのだ。
紀彦にとって、両親は日常の象徴である。ここでもし、両親に少女のことを相談なんぞしてしまったら、両親は間違いなく紀彦の頭を疑うだろう。そうなってしまうことは、紀彦にとってはとてつもなく面倒くさいことだ。そういったことは事前に覚悟していたはずだったのだが、いざ相談しようとしたとき、急に頭の中が冷静になってしまったのだ。
結局、紀彦その場を笑って誤魔化し、とりあえずもう少し我慢してみようという気になった。
もしかしたら、少女はすぐにいなくなってしまうかもしれない。そう楽観的なことを考えてしまったのだ。
しかし、事はそう思うようにいかず、それから幾度も幾度も、少女は紀彦の前に現れつづけた。
ふと気がつくと、これまでは遠くから眺めるように紀彦を見ていた少女は、今や隣り合って見上げるようにしている。その目には如何なる感情も浮かんでおらず、しかも、一言も声を発さない。一度、思い切って触れてみようしたが、案の定、すり抜けてしまった。少女はおそらく、幽霊の類であることは元々、察せられたことではあった。しかし、透過した右腕には何の感触もなく、寒暖の変化すらなかった。まるで、ほんとうに幻を相手にしているようで、下手な幽霊よりも性質が悪い。もし幻であるのなら、紀彦は自らを狂人であると認めてしまわなければならないのだ。
そういった紀彦の苦悩を知らぬ少女は、ただ無垢な両眼でもって、そっと紀彦の目を覗きこむだけであった。
「行ってきます」
トーストを齧り終え、マグカップの牛乳を流しこんだ後、紀彦は呟くように、そうこぼして立ち上がった。何故だか、朝食と夕食の場にだけは少女は姿を現さなかった。紀彦にとってそれらは、安息を得られる数少ない時間となっていた。
「俺も行くよ」
紀彦に追従するように、父親が重たげに腰を上げる。今日もスーツには皺一つなく、几帳面そうな銀縁の眼鏡と相まって、如何にもサラリーマン然としている。紀彦の父親、立花幹夫は、紀彦にとって二人目の父親だった。前の父親は、紀彦が赤ん坊の頃に交通事故で死んでしまったのだと母親から聞いている。 物心ついた頃には、既に幹夫が紀彦の父親として存在していたのだが、幹夫が実の父親ではないと知らされる前から、紀彦はどこかで明確に「こいつは違う」と理解していたように思う。紀彦がなかなか新しい 父親に馴染まなかったことに、幹夫本人も随分気を揉んだそうだ。
元来、幹夫は子どもとの遊び方も知らないような堅物であったので、なかなか懐こうとしない紀彦に対して鬱々とした苛立ちを覚えていたようだった。
あるとき、幹夫がスーツの手入れをしていた所に、幼い紀彦がつい、スーツの袖を掴もうとしてしまったことがあった。
なぜそうしたのか、紀彦は覚えていないけれど、おそらく気に食わない父親への小さな敵愾心故の行為だったのではないかと推測している。結果、カッとなった幹夫に思い切り頬を叩かれてしまい、泣きを見る羽目になってしまった。自業自得であることはよくわかっているが、その瞬間の幹夫の形相は幼い息子に向けるものとは到底思えないものだった。
思えば、紀彦が父親に対してどこか決定的に信用というものを失っているのは、そういった異常な潔癖さや几帳面さに生理的な苛立ちを覚えているからなのかもしれない。紀彦は「お前は果たして、そこまでお綺麗な人間であるのかしら」と、一度問うてみたいといつも思っていた。
思い上がった人間というものに、紀彦は生来、嫌悪感を抱く性質であった。自分こそ正しい、自分こそ高潔であると信じてお高く留まっているような連中を見ると、いつもわけの分からない暴力的な思考に支配されそうになった。そういった連中に限って、いつも周囲の人間を見下して馬鹿にしているものであると紀彦は信じて疑わなかった。
「お前、今日は雨が降るらしいから傘を持っていけよ」
玄関で靴を履いていると幹夫がそう言って、傘立てから黒い蝙蝠傘を引き抜き、紀彦に差し出した。紀彦はそれを短い謝辞と共に受け取る。朝っぱらから、自分が嫌悪する性質を持つ奴とはあまり会話をしたくなかった。
しかし、幹夫がもう一本、茶色い傘を引き抜いたのを見て、紀彦はつい反射的に尋ねてしまう。
「あれ、父さん。車は?」
普段、幹夫は車庫に入れてある白いクラウンに乗って職場まで出かけて行くのだ。
問われた幹夫は、傘を抜いた状態で少し固まって、「車検に出してしまったから」と口ごもるように言うと、そそくさと駅へ向けて足を速めて行ってしまった。
残された紀彦は遠ざかる黒い背中を見送った後、ふとシャッターが下りたままの車庫に目をやった。
そこには、今までどこにいたのか、あの少女が相変わらず茫洋とした面持ちで佇んでいた。紀彦は咄嗟に腰が抜けそうになるのを堪えた。
少女に対しての恐怖心は相変わらず消えないが、一度我慢してみようという気になってしまったが故に、いちいち驚いているようではいけないと思うようになっていた。このまま我慢を続ければ、いつしか慣れてしまう日が来るように思えた。
今の所、少女が現れても、これといった実害はない。少女はただ側に居るだけなのだから、恐れる必要もないのだと自らに言い聞かせて今までを過ごしてきた。これからも何事かが起こらないとも知れないが、そうなったときはなったときである。少女からは敵意も殺意も怨念など、幽霊が人前に現れたときに持っていそうないずれも持ちえていないかのようで、表情がないことを除けば、とても安らかなようにも見て取れる。であるならば、どうして少女が紀彦の周囲に現れるのかという、疑問が付き纏う。
少女の存在について、あれやこれやと考えていても、もはや詮無きことかと諦めをつけ、紀彦は重い足を母校へと向けた。
少女は車庫の前にいて、いつまでもシャッターの方を見ていた。
学校での紀彦は、前以上に置物であることを望まれていた。
見えないなにかに突然腰を抜かし、叫び声をあげたとなれば、クラスメイトの自分を見る目も変わってしまうだろうことは想像できたことだった。しかし、クラスメイトたちがときおり見せる視線の動きや、教室の端々から聞こえるひそひそとした様々な声が、紀彦の蚤の心臓を握りこんで放さなかった。
窓際の後ろから三番目の自席につき、腕枕に顔を埋め、耳にイヤホンを挿し込んでも、それらを紛らわせるには至らず、目に見えない圧力のようなものに身体が押し固められていくような気がした。
息は荒くなり、顔の表面に熱い風がかかる。身体中が正確な体位を取ろうと蠢きそうになるが、圧力との狭間でむず痒さに負けてしまう。無様にもぞもぞと身体を揺する形になると、さざ波のように教室に声が広まっていく。嘲笑が脳裏に響く。
腕枕の暗闇の中で、紀彦は自分が芋虫になってしまったように思えた。醜い姿で衆目の嫌悪を一身に負うような、ぶよぶよとした灰色の身体、その所々に短い毛を靡かせ、安全な葉裏で風に揺られている心地がしていた。
顔を出せば、悪戯に自分を殺そうとする外敵の視線に溢れている。紀彦は腕枕の中に、いっそう頭を押し付けた。
自分の荒い息遣いが木霊する中、ふと組まれた袖が引かれたような気がした。
とても小さな力で、袖の布が摘まれているようだった。
クラスメイトがからかいに来たのかとも思ったが、それにしては笑い声が漏れる様子がない。
紀彦は、頭の位置をそれとなく変えるような、酷い芝居を打ってみた。突っ伏した両腕を少しだけ身体に近づけ、机と身体との隙間から、そっと床に目を落とす。
リノリウムの升目の上に、黒いスカートから伸びる真っ白い二本の脚と、紺色のカーディガンの裾が見え、思わず目を見張った。
あの少女だった。
少女が今になって、どうして自分に対して何らかの行動を示してきたのか、紀彦には知る由もない。
手首の辺りに冷たさを感じる。小枝のように細く、短い指先から、少女の体温が流れ込んできているのかもしれない。
たった十分の短い休憩時間が、妙に長く感じられた。潰れかけていた紀彦の心は、束縛から解き放たれたように、ふわりと水面へ浮き上がっていくような心地がした。
そのまま、時限を報せるチャイムが鳴るまで、少女の指先は学生服の袖を摘んでいた。
紀彦が嘲笑の的となる原因を作ったことに詫びる意思があったのか、それとも、単純に哀れに思ったからなのか、紀彦にはわからない。しかし、紀彦にとってはどうでもよいことのように思えてくる。どのような意図が存在したか知らないが、紀彦は勝手に救われたような気がしたのだから。
教科書を出そうと腕枕を解いたとき、紀彦が顔を上げるのを見計らったように、消しゴムの粒が頬を打った。窓から射し込む日差しに目が眩んでいたために、誰がやったのかはわからなかった。
明滅する世界のどこかから、忍び笑いが這い寄ってくる。それが渦を巻くように広まって、すぐにいつもの騒々しさに包まって隠される。
誰もが一般人の顔をする。
紀彦にとっては、人間の方がよっぽど恐ろしい。
「君は何か、僕にして欲しいことがあるんだね」
誰もいない家に帰り、自室のベッドに腰掛けると、目の前に少女が現れた。
相変わらず何を考えているのやらわからないような、無表情ではあったが、紀彦の問いを理解しているような風には見て取れる。
少女は指先一つ分ではあるが、意思表示が可能であることは確かである。
幽霊が怨念によらないで現れる理由として挙げられるものは、危険を報せるためか、何か無念に思うことがあって、それを近しい者にどうにかして欲しい場合の二択であると思われた。
紀彦と少女には、生前に縁などないが、時代を遡ればどうだろうか。前世という言い訳も出来るかもしれない。幽霊が存在している時点で、そういったものの可能性も発生してくる。どちらにせよ、少女に何らかの意図があるのなら、紀彦はそれを手伝ってやらなければいけないと考えていた。
「声が出せないのなら、短い鉛筆と紙でも持ってこようか。それが嫌なら、そうだな、指で指し示すだけでも構わないから」
紀彦がそう言うと、少女は紺色の腕を、スゥッと部屋の戸へと向けた。首を傾げる紀彦の袖を少女が引き、どうやら紀彦を誘導したいのだということがわかった。
幽霊との明確な対話が成功した、初めての瞬間だった。
同じ時間を生きている人間相手にも碌に話も出来ない自分にとって、これは一つの快挙ではないだろうか。紀彦は心の隅でそんな小さな皮肉を抱きながら、袖を引かれるままにベッドから腰を上げた。
戸を開けると、少女は霧のように立ち消え、今度は階段の前から階下を指し示していた。それに従いながら、紀彦は一つの可能性を思い浮かべていた。
それは、この少女が自分ではなく、両親の何れかに関係する人物ではないか、ということだった。荒唐無稽な前世説などを廃するには、そういったことにしてしまった方がまだ納得がいくというものである。 しかし、スーパーのパートタイマーとして働く母親と、どこぞの商社で営業に走る父親が、小学生と出会う事などあるのだろうか。母親なら或いはといった所だが、レジで擦れ違う程度で頼りにしようという気にはならないだろう。そもそも、頼るのなら直接本人に頼るものだ。
どうして、自分なのだろう。
紀彦が思考しているうちに、少女の指先は我が家の車庫に向けられていた。
紀彦は以前、少女がシャッターの方をじぃっと眺めていたことを思い出していた。
少女がさらりと消え、紀彦がシャッターに近づく。父親は相変わらず歩いて駅まで向かうために、シャッターは長い間、閉じられたままである。
薄く埃の膜を張った表面に触れ、その流れでふと下を見ると、シャッターに楔が打たれていた。屈んで丸まった冷たい先端部に指を掛け引いてみるが、ビクともしない。生憎とバールなどの工具類が我が家のどこにあるのやら、紀彦は一切知らなかった。
車庫への入り口は別にもあるのだが、そちらにはノブに鎖が巻かれ、南京錠が掛けられていた。
この車庫に誰も入れたくないという、異常な拒絶が感ぜられた。
途方に暮れていると、また袖を引かれたような気がした。見ると、少女が紀彦の袖を引きながら、道路を指差している。どこか別の場所に連れて行きたいようだ。紀彦はそれに首肯し、促されるまま歩を進めた。
足を動かすうちに、景色は道路を過ぎ、野を越え、次第に草草が鬱蒼と生い茂る山道に差しかかろうとしていた。
いったい、自分はどこへ連れて行かれようとしているのだろう。
紀彦も初めは意気揚揚とした思いだったが、次第に変化していく風景に足が重くなっていくのを感じていた。
――自分の考えは甘かったのだろうか。幽霊に妙な恩を感じてしまった自分はとんだ馬鹿者だったのかも知れない。よく考えれば、自分の陥った状況も、少女によるマッチポンプのようなものだったじゃないか。愚かにも程がある。
自己嫌悪を塗りたくりつつも、なぜか足は自然と距離を刻んでいく。それが少女の力によるものなのか、やはり知る由もない。もしくは、自分はもう、完全に少女を信用してしまっているのかもしれない。まったく、都合の良いカモだ。紀彦は心中で悪態を吐きながら、額に浮いた汗を拭う。
いつのまにか少女の指先は山道を外れ、草叢の中を指し示すようになった。うらなりの顔をいっそう青くさせながら、紀彦は僅かの戸惑いと共に雑草を掻き分け入って行った。
耳元を飛び回る藪蚊の喧騒や頬を撫ぜる草葉のくすぐったさに辟易とし始めた頃、いつの間にか少し開かれた場所に出た。
天高く伸びる木々の枝葉から、陽光が散らされて降り注ぎ、落ち葉から湿気を奪っていた。視界が明滅し、額に右手を添える。汗で湿った皮膚が干上がっていくような気がした。
すっかり茶色く染められてしまったスニーカーを見下げ、顔を顰めていると、視界の中に少女の白い指先が見え、思わずその姿を見上げる。
少女は白く、表情の乏しい顔を一点に向け、初めて地面を指し示していた。
そこは一見してわかる程に盛り上がっており、申し訳程度に落ち葉が降りかけられていた。
紀彦は少女の方を見やるが、少女は俯いたまま、ただ其処を指差すのみだった。
ここを掘れということだろうか。
スコップも何もないので、仕方なく膝をついて手の平で落ち葉を払う。
以前に降った雨のおかげか、地面は驚く程にやわらかく、紀彦の両手を指先から飲み込んでいく。誰かが「何か」を埋めた跡であることは、間違いなかった。
早く掘り返してしまわないと、夕闇に呑まれてしまう。そうなっては容易には帰れなくなる。野生の猿や猪に出くわしてしまう可能性も高くなってしまう。
爪の間が変色していくのも気に留めず、ひたすらに地面へ爪を立てる。
しばらくすると、純白の白い粒々が土に紛れてコロコロと転がり出てくるようになった。ふと作業を止めてそれらを見守っていると、粒の一つ一つがもぞもぞと身体を蠢かせ始めた。それが蛆虫であることに気がつくと、紀彦は夢中になって地面を掘り進めた。
――この下には、ナニが埋まっているのか。
紀彦は頭の中に浮かぶ想像の正しさを求めるように、もしくは、これは怖いもの見たさなのかもしれない。
ただ、間違いないことは一つ。
この下には、紀彦の日常を崩壊させる程のモノが、確かに存在しているということだった。それは、最も紀彦が求めていたものだった。
貪るように土を掻き分けているうちに、紺色の布が姿を現し始めた。そこで、はたと手が止まる。
――僕の想像は正しかった。
隣の少女は興奮が高まっていく紀彦に興味もない風に、ただ再び起こされた穴の底を無感情に見下ろしていた。
紀彦が作業を再開する。湿気た土の臭いに混じって、甘い腐臭が立ち昇り、紀彦の鼻腔を執拗に刺す。吐き気を覚えつつ、笑みさえ浮かべた紀彦の眼下に、ついに埋葬されたモノが姿を現した。
かつては滑らかだったであろう青白い脚は、所々が腐り溶けている。赤い凹凸の上を、白い蛆虫が這いまわっていた。
腹部は衣服の上からでもわかる程、へこんでしまっており、紺色のカーディガンに囲われた隙間から、流行のキャラクターが土に塗れて笑っていた。
眼球は溶けてなくなり、代わりに土で埋まっている。そこから、太いミミズが這い出して、眼窩の縁に身体を預けて盲目の頭を振っていた。
紀彦は堪えきれず、胃の中身を吐き出す。胃液の残滓が遺体のカーディガンにかかってしまった。降って湧いた後悔を押し流そうとするように、えづき、止め処もなく内容物を吐き続けた。
少女の遺体は無情な摂理によって、無残な有り様で埋葬されていた。
「げほ、くは、あはは、ははははは!」
吐瀉物を吐きながら、紀彦は笑ってしまう。
遺体のポケットからのぞく、銀色の印章が紀彦を笑わせた。
――こんな馬鹿なことがあるだろうか。
どこかでカラスが声を上げ、降り注ぐ陽光は赤く染まりつつあった。
気が違ったように笑い声を上げる紀彦の背中を、少女がそっと摘んだ。
紀彦の頬に伝う汗は、いつしか涙に変わっていた。
ただ子どものように、紀彦は大きな声を上げて、笑い、泣いた。
紀彦は少女の遺体に再び土を被せた後、すっかり暗い夜道を力なく歩いていた。
下山の心配は、暗闇でもはっきりと姿が見える少女のおかげで助かった。自らの変わり果てた姿を目の当たりにしても、少女は表情を変えなかった。
代わりに、帰路は家に着くまで、少女はずっと紀彦の服の袖を引いていた。
家の前に着くと、紀彦は虚ろな目を車庫のシャッターに向けた。
硬く閉ざされたシャッターを尻目に、道中のホームセンターで購入したハンマーを右手に握り、入り口を目指す。ノブに巻かれた鎖と南京錠を前にして、ハンマーを幾度も握りなおし、無理矢理に馴染ませる。
いい塩梅になった所で、紀彦は右手を大きく振りかぶり、思い切り振り下ろした。
「どうしたんだ、こんな暗くして」
何も知らずに帰ってきた幹夫は、暗い居間に幽霊のように佇む息子に内心、仰天しながらもそんなことを言った。初めて対面してから、陰気な雰囲気を纏う嫌な餓鬼だと思っていたが、今の息子はそういったものが一層濃く、異様な何かに乗り移られてしまったかのように見えた。それでも、息子の前では気丈で居たい幹夫は、平常心を装いつつ、スーツの上着を脱ぎながら、鞄を食卓の椅子に置いた。
「車はあるじゃないか」
ふと背後で、紀彦がそう呟いた。
「え?」
我ながら情けない声が出てしまったと後悔したが、紀彦は気にも留めない風で、もう一度くり返した。
「車は、あるじゃないか。幹夫さん」
紀彦の中で、どうともしがたい暴力的思考が働き始めていた。今まで自分を散々馬鹿にしてきた父親のあらゆる所業が脳内で明滅をくり返し、紀彦を煽り立てる。
幹夫は明らかに狼狽した風で、いつもの皮肉気な笑みをこさえていた。それが、紀彦の心を執拗に逆撫でする。
「何を言っているのか知らんが、車なら昨日のうちに帰って来ていたんだ。気づかなかったか?」
「どこの世界に、フロントがへこんだまま車を返す奴があるんだよ。幹夫さん。居るのだとしても、神経質なあんたが、そんなの堪えられる訳ないじゃないか」
「俺のことを名前で呼ぶのはやめろ!」
声を荒げ、幹夫が怒鳴りつける。いつもなら、萎縮してしまうはずの紀彦は、まるで意にも介さず忍ぶように笑った。
「そんなことはどうでもいいんだよ。父さん」
皮肉を込めるように、紀彦が幹夫を見やる。
「車が、どうして、車庫にあるのか。どうして、車庫に楔や鎖を施していたのか。どうして、へこんだままの車が放置されているのか。どうして、どうしてエンブレムが剥がれたままなのか」
教えてくれないか。
幹夫は、畳みかけるように続ける息子の右腕に、ハンマーが握られている事に気がつき、思わず後ずさる。
――間違いない。こいつは、知っている。
「俺は何も知らない!」
唾を飛ばしながら言う幹夫を見下げる紀彦が、ハンマーを食卓に叩きつける。
「ひっ!」
怯えが声になって飛び出し、幹夫の自尊心に傷を生む。そんな幹夫に、紀彦は哀れむような目を向け、質問を投げかける。
「青野祥子という女の子を知っているか」
「……さぁ」
なんとも答えられない幹夫の腹を、紀彦が蹴飛ばす。足に力が篭もっていなかったのか、幹夫はたたらを踏んだ後、あっさりと床に倒れこんだ。
「青野祥子。小学五年生。一週間前、塾から帰る途中に消息不明になった。とある交差点にて、彼女の血痕が残されていたことから、交通事故にあった後、犯人に連れ去られたらしいんだ」
紀彦の冷たい言葉が、幹夫の耳から腹に溜まっていくのがわかった。
紀彦が跪く幹夫の目の前に、見覚えのない鞄を投げた。
可愛らしいキャラクターの笑顔が眩しい。鞄の端のワッペンに、おそらく母親の字であろう、「青野祥子」の名前が丁寧に書かれていた。ワッペンの縁に、はっきりと赤い血が付着している。幹夫は、ぐっと唇を噛締めた。
「車のトランクに入ってた」
紀彦の短い文句が怒りを纏って降り注ぐ。幹夫はワッペンから目が離せない様子だった。
「これでも知らないと言うのか」
低い声色の紀彦が、再度、静かに問う。
「し、しら、知らない!」
「ふざけんな!」
叫び声と共に、紀彦は左手に持っていた、持ち帰った遺品を幹夫の頭に目がけて投げつける。
それは、幹夫が大事に乗り回していた、白いクラウンのエンブレムだった。
幹夫は呻きながら頭を押さえていたが、カラカラと床を転がるそれを見るや、うな垂れたように顔を伏せた。呻き声は聞き苦しい泣き声に変わった。
「それは青野祥子が持っていたもんだ。さっき、うちのクラウンと合わせてみた。間違いなくうちのだ。
あの子は、車に引かれた後に剥がれたエンブレムを手に持ったまま、車のトランクに詰め込まれた。
これはあの子が着ていた紺色のカーディガンのポケットに入ってた。たぶん、今際の際に忍ばせたんだ。でも、あのポケットは随分と底が浅かった。だから、これをポケットに入れたのは土を被せられる寸前だったんじゃないかと思うんだ。そうでないと、すぐに零れ落ちて、犯人に気づかれてしまうから。あの子は、あの子は、生きたまま、山に埋められたんじゃないのか」
喉を鳴らし、肩を震わせながら、幹夫は涙の粒を飲んでいた。
そんな父親の肩に手を置いて、紀彦は初めて、優しげな声をかけた。
「父さん、僕は母さんを自首させたいんだ」
「申し訳ない」と言葉をくり返す幹夫を見下ろすように、少女の霊は静かに佇んでいた。
母親が犯人であることに紀彦が思い至ったのは、青野祥子の遺体を埋めなおしている時だった。
掘っている時にも、微妙な違和感を覚えていた。
それは、死体を埋めたのにしては、穴が浅すぎるのではないかということだった。
素手での作業だった紀彦でさえ、数時間で掘り返せてしまう程に穴は浅く、おまけに、土がまったく固められていなかった。
もし犯人が潔癖さと几帳面さを併せ持つ幹夫であったなら、このような雑な仕事は決してしないだろう。徹底的に深く掘り、何度も何度もスコップの腹を打ち付け、土を固めるはずだ。埋めた死体が這い出して来たりしないように。
それらの観点から、紀彦はこれらの所業は力の弱い女性、つまり母親がやったのだろうと考えた。
そして、もう一つ、紀彦の考えを補強する要因となったのが、青野祥子の幽霊である。彼女は立花一家が居間に集まる朝食、夕食時には絶対に姿を現さなかった。
幹夫が歩いて駅に向かうようになったあの日を思い返すと、わかりやすい。
紀彦と幹夫とが食卓を離れ、家を出たそばから青野祥子は姿を見せたのではなかったか。
彼女は居間を避けていたのではなく、特定の人物、つまり、紀彦の母親を避けていたのではと考えられたのだった。
初めに幹夫に話を付けようと思ったのは、当然のことながら、車の所有者である幹夫が協力者であることは明白だったからだ。
「……俺も、あいつから話を聞いた時には死ぬほど驚いた。あいつ、すっかり気が動転していて、言っていることは滅茶苦茶で、買い物の帰りに女の子を轢いちゃった。って、それだけ何度もくり返してた」
落ち着きを取り戻した幹夫は、食卓の席に着いて、ぼそぼそと言葉を紡いだ。
「被害者はどうした。救急車は呼んだのか。警察は呼んだか。何を訊いてもあいつは、どうしようどうしようって言うばかりで、あんまりなんで一発頬を張って、しっかりしろって言ってやったんだ。そしたら、『わたし、あの子を山に埋めちゃった』って……」
母親の帰りを待つ間、紀彦は父親に事の顛末を事細かに尋ねていた。
母親は、買い物の帰り道、余所見をしたほんの一瞬のうちに、飛び出してきた青野祥子を轢いてしまった。
すっかり動転してしまった母親は、そのまま祥子をトランクに放り込んで、一時帰宅し、思い悩んだ結果、図らずも青野祥子を山に生き埋めにしてしまう。
幹夫に全てを話したのは、事が終わった二日後のことだったという。
ある夜の夕食の後、唐突に顔を青くした母親が、幹夫に顛末を語ったのだそうだ。
幹夫はもちろん、今すぐ自首すべきだと説得はしたが、母親は頑として受け付けなかった。
「もし私が逮捕されたら、紀彦はどうなるの」
そんなことを言ったという。もし捕まれば、確実に家族は崩壊する。母親は顔を青くして、それだけはいけないと何度も言ったそうだ。
結局、幹夫は妻の隠蔽を手伝うことに決めた。車庫の封鎖は幹夫によるものであった。
二度目の結婚、前の夫が死んで、今度こそゆるぎない幸せを謳歌しているはずだった、その過程での出来事だった。
悄然とした幹夫に向けて、紀彦が言う。
「僕は大丈夫だ。母さんが捕まった後に、どんなことがあっても、きっと大丈夫だから」
幹夫が何度も強く、頷いた。
そのとき、玄関の戸が開く音がした。母親が軽快な調子で、ただいまと言うのが聞こえた。
パタパタとスリッパが床を叩く音がどんどんと近づいてきて、居間のガラス戸をそっと開けた。
「ただいま」
もう一度、言った母親の笑顔が凍りつく。
泥に塗れた息子と、目を背けた幹夫とを交互に見た後、床に転がる王冠のエンブレムを見下ろし、母親は力なく床に座り込んだ。
そのときの母親は、まるで憑き物が落ちたようで、むしろ安らぎに満ちた表情をしていた。
母親が出頭することで、事件は丸く収まった。
日に何度も無言電話などがかかってきたり、「人殺しの家」と家の塀にでかでかと書かれたりもしたが、気がつくとそれらはなくなっていった。おそらく、別の玩具を見つけたのだろう。母親の事件が流行遅れになるくらいには、時間が過ぎ去っていた。それでも、確かな時間としてはたったの半年でしかないのだけれど。
世の中は凄惨な事件に溢れかえっている。そういった嫌がらせに精を出すような連中は、良い趣味を持ったものだ。いつまで経っても終わりがない、まさに理想の趣味だと言えるからだ。
そんなどうでも良いことを考えているうちに、休み時間は終わってしまった。
紀彦は相変わらず、近づく毎に足が重くなる学校に通っている。学生であるのだから、当たり前ではあるが、身内に殺人者が出てしまったのに、転校することもせずにいつもの席に座っているのはどういう訳だろう、我ながら頭がおかしくなっているのかもしれない。
学校での紀彦は、前以上に窮屈な思い強いられることになった。
少し席を外せば、机に「人殺し」と彫り込まれたり、教科書やノートには罵詈雑言の嵐が吹き荒れていたりする。しかし、紀彦はそれらのどれにも屈することはなかった。
そういう時は、最も近くにいた隣人の事を考えるようにしていた。
あの少女の鞄の中には、ノートを切り抜いてつくられた遺書のようなものが入っていた。そこには、少女を苦しめたクラスメイトの名前と罪状が小学生らしい丸っこくたどたどしい字で、つらつらと記されていた。今際の際のために用意してあったものと思われた。
おそらく、青野祥子という少女は死にたがっていた。
しかし、実際に死を選んでみた所、想定外の出来事が起こってしまった。紀彦の母親による隠蔽工作である。
彼女の目論見では、事故後に警察や救急車などが呼ばれ、押収された鞄の中から遺書が見つかり、彼女を苦しめた奴らの人生を滅茶苦茶にしてやろうというものだったのだろう。彼女は大人を信用しすぎた。
身体は山に埋められ、遺書はトランクに隠され、彼女の本意が遂げられる事は限りなく零になってしまった。
しかし、挽回の機会が訪れる。青野祥子自身の霊体化である。不便な姿ではあったが、本懐を遂げるには十分だった。
自分の行為が自殺である事を広める為に、青野祥子は紀彦の母親の罪を暴く必要があったのだ。
そこで、彼女は紀彦を使ったのだろう。
紀彦に彼女の姿が見えたのは、彼女を殺害した犯人の息子であるということで、縁が近かったからではないだろうかと思う。しかし、彼女は紀彦に対して、最後まで明確な意思を示そうとはしなかった。あったのは指先のみの意思表示である。指先一つとっても意思表示の方法は様々ある。紀彦が勧めたように、短い鉛筆を使えば指先でも文字で示すことが出来るのだが、彼女はおそらく、あえてそれをしなかった。
これは紀彦の推測なのだが、彼女はもしかしたら自身の自殺の告発に対して、どうでもいいと思い始めていたのかもしれない。何をやっても、彼女は死んでしまっているのだ。この世で何がどうなろうと、彼女には既に何も関係がないことなのだ。
だから彼女は直接、紀彦にこうこうこうして欲しいという風に示そうとしなかった。
あえて曖昧に指し示し、言葉を用いず紀彦がその後、どのような行動に移すかは賭けにしようとしたのではないか。
結果、紀彦は母親に出頭の説得を行い、青野祥子の遺書は彼女の当初の目論見どおり、世間の目にかかることになった。
とりあえず、彼女にとって望ましい結末を迎えたことを願いたいと思う。
あの日以来、彼女は紀彦の前から姿を消した。
もしかしたら、目的を達成した事で成仏してしまったのかもしれない。成仏なんて理が、本当にこの世にあればの話だけれど。幽霊にとって、それが本当に望ましい最後であるとも紀彦は思っていなかった。
もしかしたら、彼女は今もどこかに居て、ぼんやりと空でも眺めているのかもしれない。
その方が、彼女にとっては幸せなように思うのだ。
青野祥子に、せめて安らかな死後を。
紀彦はそんな事を祈りつつ、数学の教科書を開いた。
『だいじょうぶですか』
数学の授業中、その日の単元のページが真っ黒に塗りつぶされていたことに困っていた紀彦のノートに、そんな文言がひとりでに書かれる。
驚く紀彦の眼前でノートの上を、指先でも十分に扱えそうな短い鉛筆がさらさらと這い回り、文字を形成しているのだ。
『ぼくはだいじょうぶ』
紀彦は悲鳴をぐっと飲み込むと、そう返事を記した。
『なぜ帰ってきたの』
紀彦の問いに、暫しの間を置いて返事が記される。
『一人はさびしいものです』
紀彦はその言葉に「違いない」と小さく笑んだ。
異常な日常を乗り越えて、紀彦には彼だけの友人が出来た。
青野祥子の幽霊は、今でも紀彦の隣に存在している。
またもや去年に書いたモノを投稿。昨年に書いたものには、何故だか幽霊が多かった気がします。いったい、何に影響されたのやら。我ながら不思議です。
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