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他人家族

作者: 秋葉秋馬

「お兄ちゃん、朝だよ」

 雑誌や本が積み上げられ、足場も無い部屋。しかし散らかっているわけではない。何しろ、本以外の趣味の用品が一つも無いのだから。ただ単に、本棚から溢れた本を仕方なく積み上げているだけ。

 弘樹はシーツから這い出し、何の前触れも無くドアを開ける。

 ドアの向こうの裕美は、一瞬だけ躊躇ったような表情を見せた。同い年だが、弘樹の方が二十センチほど身長が高い。普通に立っているだけで、威圧感を与えてしまう。

 が、弘樹はそれを知っていても、裕美を見下ろすことをやめない。

「すぐに行く」

 それだけ言って、ドアを閉めた。閉めるドアの隙間から覗く裕美の顔は、まるで小動物のように怯えている。聞こえよがしに、大きな音を立ててドアを閉めた。

 壁にかかっている制服に着替え、本棚から適当な文庫本を選び、鞄と上着の内ポケットに入れる。準備に、十分とかからない。

 部屋を出ると、向かい側に裕美の部屋がある。去年までは、物置だった。

 静かに階段を下り、リビングのドアを開ける。裕美と父親と義母が、仲良く食卓を囲んでいた。

「おはよう」

 事務的に朝の挨拶をする。日当たりの良いリビングは、朝日で満ち溢れていた。

 用意された食事を、もそもそと口に運ぶ。義母の味付けは、弘樹には濃過ぎる。結局用意されたおかずの半分も食べ終わらない内に白米を食べ切ってしまい、残すことになる。

 今日も半分ほどで箸を置いた弘樹に、父親は露骨に嫌な顔をした。

「弘樹」

「なに?」

 静かな言葉に、静かな言葉で返す。まっすぐに、父親を見返す。目を逸らすのは、決まって父親の方だった。

「もう、時間だから」

 鞄を掴み、立ち上がる。弘樹よりも早く食事を始めていた裕美も、立ち上がった。

「行ってらっしゃい」

 にこにこと笑う義母。本当に、よく笑う人だった。おおらかというか、なんと言うか、とにかくいつも、笑みを絶やさない。裕美も、よく似ていた。

「行って来ます」

 何も言わない弘樹の代わりに、裕美が言う。父親は何も言わない。

 弘樹はいつも思う。どうしてこの家には、家族という名の他人がいるのだろう。と。

 学校は家から電車で二十分くらいのところにある。地元では一番偏差値が高い進学校。別にやりたいことも無かった弘樹は、とりあえず良い学校に通い、良い会社に入ろうと考えていた。

 早朝の涼しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、幾分気分が晴れる。毎朝これをやらないと、どうも陰鬱な気分になってしまって、よろしくない。

 電車に乗り込み、ドアにもたれかかりながら、文庫本を開く。朝の電車は空いていて、座れるほどでは無いが、ゆっくり本を読む程度の余裕はあった。

 隣では裕美が、窓の外の一緒くたになって流れていく風景を眺めている。別に風景を楽しみたいわけじゃない、他に見たいものが無いのだろうと、弘樹は思った。

 朝の登校時間は貴重だ。ゆっくりと自分の趣味を楽しみ、気持ちを落ち着かせたい。何しろ二十分も、自分の自由なことができる時間なのだから。

 なのに裕美は、無遠慮にそこに踏み込んでくる。

「今日の家庭科、調理実習なの」

 話しかけられれば、返事をしないわけにはいかない。その程度の社交性は、持ち合わせているつもりだった。

「へぇ」

 ページから顔も上げずに、相槌を打つ。

 わざわざ自分の時間を削る必要は無い。適当に相槌を打ってやれば、満足する。そう、弘樹は思っていた。

「お兄ちゃんのとこ、持って行っても良い?」

「勝手にしてくれ」

 裕美は母親に似て、それなりに美人だった。学校でも人気者だし、女生徒の輪の中心に、いつもいる。懐かれて気分が悪いわけではないが、そこはそれ、弘樹は一人でいるのが好きな性格で、裕美はやたらとお節介だった。

 女として見れば、弘樹は裕美に何の文句も無い。食事の味付けも弘樹好みで、人懐っこいし、誰にでも優しい。ただ、肉親としてどうかと言われれば、迷わずアウト。学校で友達をやる分には構わないが、二十四時間いると、さすがに鬱陶しい。

 同じ学校に通い、同じ学年で、クラスが三つしかない。その上受講する項目がことごとく似通っているので、裕美とはほぼ二十四時間、顔を合わせている事になる。

 裕美の人懐っこさと、良い意味でのお節介は、単なる無遠慮に姿を変えてしまう。父一人、子一人で、一人の時間に慣れてしまっている弘樹にとって、それは次第に苦痛になっていった。

 朝の通学時間だって、弘樹は裕美に会わないように早く出ている。それなのに健気な裕美は、苦手な早起きをして、弘樹の登校時間に合わせている。

 裕美の口数が、次第に減る。元々が低血圧気味なので、朝は調子が悪い。それでも沈黙が苦手なのだろう、喋らない弘樹の代わりに、喋る。

 弘樹も別にそれを止めもしなかった。裕美が自分で選んだことで、あくまでも弘樹は付き合ってやっているだけ。気を使う必要なんて無いし、嫌なら裕美がやめれば良い。

「それでね、クラスの子が――」

 その日、弘樹はどちらかといえば機嫌が良かった。その成果、普段気付かなかった事に気付く。

 裕美は、自分のことを喋らない。話題はいつも他人。

 弘樹は少し可笑しく思った。明るい裕美でも、きっちりと自分と他人の間にボーダーラインを引いている。何も考えていないようで、女特有の強かさは持っている。弘樹の母親に、少し似ていた。

 弘樹はたまには良いか、と、その日の朝はもう少し裕美に付き合うことにした。

「そういえばな――」

 弘樹から話題を切り出すと、裕美の表情がぱぁっと明るくなる。

 弘樹は軽く笑いながら、他愛の無い世間話をして見せた。裕美の強かさを感じた時、裕美も自分を他人だと認識していたことを知った時、弘樹にとって裕美は他人になり、少しだけ、気が楽になった。

 そう、自分は『お兄ちゃん』というあだ名の裕美の友人になれば良い。

 どうしてもっと早く、気付かなかったのだろう。

 

 

 家に母親がいない。弘樹にとって、それは日常だった。

 親が共働きで、弘樹は一人でいることが多かった。話題のテレビゲームには興味が無くて、代わりに、両親は弘樹に沢山の本を買い与えた。

 朝から晩まで、弘樹は本を読みふける。

 夜遅く、両親が帰ってくる。弘樹は手のかからない『良い子』だった。わがままも言わず、一人で留守番をする。父親はどこかぼんやりとした人だったが、母親は違った。

 幼い弘樹にもわかるほど、母親は利発な、行動力のある魅力的な人だった。言ったことは実行するし、弱音を吐いてもそれは次への準備でしかない。

 今日より明日、明日より明後日。弘樹の母親はそうして日々を邁進し、死んだ。過労、だった。まだ過労死という言葉は一般的ではなく、母親は自然死の類として扱われた。

 弘樹は一人、家で本を読む。母親のいない家。でももう、母親の帰ってこない家。

 頭を撫でてくれる大きな手も、笑って元気付けてくれる声も、もう無い。弘樹は本を読みながら、文字がかすむのを感じた。手でごしごしと顔を擦ると、手が濡れた。

 誰もいない部屋の片隅で、弘樹は泣いた。大好きだった。それでも慰めてくれる人はいない。弘樹は、一人だった。

 父親は母親の収入が減った分、忙しく働いた。家事もそれなりにこなした。弘樹も手伝った。それでも親子の会話は減り、弘樹も自分のことは自分でやるのが当たり前になる。まだ小学生の子供が。

 中学生になった頃には、弘樹はすっかり家事も勉強もこなすようになっていた。遊びにも行かずに、勉強か家の仕事。そのおかげで学校のテストではいつも一番。

 学校の中に限っては、弘樹は他人にとって頼れる存在だった。何でも知っている、何でも出来る。それなのに威張らない。その時から既に、弘樹は他人の使い方を知っていた。

 弘樹は人気者になり、父親は無口になっていく。

 その頃からだった。

 友達と言っても、何も知らない。時々、顔も知らないような相手でも弘樹のことを知っていて、知り合いの輪の中に入ってくる。弘樹の知らないところで誰かが離れ、また誰かが入ってくる。

 まるで新陳代謝。弘樹の意思とは無関係に、何か巨大な塊である人間関係は、新陳代謝を繰り返し、また大きくなっていく。それに気付いた時、弘樹は集団の一部になることをやめた。

 捨てられたくないなら、誰にも拾われなければ良い。母親のようになりたくない。父親のようになりたくない。

 大丈夫、一人でやっていける。老廃物になんて、なるもんか。

 そして中学校最後の年。志望校へ推薦で合格した日。弘樹に新しい家族が出来た。何の因果か、新しい学校の新しいクラスメートが、弘樹の新しい妹だった。



 裕美は形式上、弘樹の妹ということになっているが、実際には一ヶ月しか誕生日は違わない。そのせいで裕美は弘樹を『お兄ちゃん』と呼ぶのだが、弘樹はそれも気に入らない。

 電車が大きく揺れ、バランスを崩した裕美が弘樹にしがみつく。大した揺れでもないのに、弘樹の腕に胸を押し付け、肩に顔を寄せた。

「ごめんね」

 はにかんだような笑みを浮かべながら、すぐに体を離し、また窓の外を見る。

 行動のそこかしこに『女』が見える。それなのに、あくまでも口では妹と、家族だと言い張る。

 どっちだ。お前は一体どっちなんだ。と、弘樹は声に出して叫びたくなったが、理性で容易く抑え込み、本に視線を戻す。

 大丈夫。どんなことがあっても、理性で制御できる。冷静に対処して解決できない問題など、起こるはずも無い。今までも、今も、これからも、そうやって生きてきたし、生きていく。

 電車が止まり、弘樹は本を閉じてポケットに戻す。空気の抜ける音と同時にドアは開き、二人で連れ立って駅のホームに下りる。たった数十センチ。その数十センチが、絶対に埋まることの無い、交わることの無い、二人の距離だった。

 数十センチの二人の間を、他人と家族の違いだと感じる。口で家族を装ってみても、所詮は他人。弘樹と裕美は、この距離を永遠に埋めないだろう。そして、埋めるつもりも無い。

 朝日が、妙に眩しかった。弘樹は空を見上げ、大して不機嫌な風も見せず、目を細めた。

 駅から出ると学校はもう目の前で、生徒の影もまばらに見える。まだ時間が早いので、登校している生徒は多くなかった。

「よ、裕美」

 後ろからの声に、弘樹は億劫そうに振り返る。朝に声をかけてくるのは、マナー違反だ。もっとも、弘樹は呼ばれていないが。

 背の高い、健康的に日焼けした男子生徒だった。肩からかけた大きなスポーツバッグの刺繍を見て、サッカー部のキャプテンである、クラスメイトの高畑健吾であることを、記憶の片隅から引っ張り出した。

 裕美は家にいるときと変わらない笑顔を健吾に向け、軽く手を振る。

「おはよ」

 健吾はちらりと弘樹を見て、すぐに視線を裕美に戻した。

「今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」

「んー」

 裕美の視線から逃げるように、弘樹は不機嫌な咳払いをする。

「先行くぞ」

「あ、待って」

 足を早めた弘樹に合わせようとする裕美の腕を、健吾が掴む。

「ほっとけよ。今は俺と話してるだろ?」

「そうだけど」

 裕美の声が、弘樹の背を引く。弘樹は強引にそれを振り払い、ますます歩調を速めた。

 なにがなんだかわからないが、とにかく、不愉快だった。

 殆ど走るように教室に入り、鞄を机の横にかけ、頬杖をついて窓の外を眺める。窓際の席なので、外は良く見えた。ちらほらと、風景にゴマを散らしたように濃紺が混じる。無個性の集団。

 校門のあたりで、まだ健吾が裕美に何かちょっかいを出している。弘樹はあからさまに舌打ちし、目を閉じる。



 放課後になり、弘樹はわき目も振らずに教室を出た。結局、裕美と健吾はあの後どこかに行ったようで、学校には顔を見せなかった。

 校門の辺りまで来たところで、門の陰から裕美が顔を出す。いつものように何か言うでもなく、ただ黙って、弘樹の方を見ていた。弘樹は歩調を緩め、裕美の前で立ち止まる。

 じろじろと裕美を観察し、大体の経緯を悟った。

「ボタン、掛け違えてるぞ」

 裕美はのろのろと、ずれている第二ボタンを戻した。伏せたままの瞳で、弘樹に何を期待しているのかが、ありありとわかる。

 弘樹は大袈裟にため息を吐き、歩き出した。

「帰るぞ」

「うん」

 やや遅れた返事の後、裕美は弘樹の横に並んだ。泣きもしない裕美が、いじましいと同時に、疎ましい。いっそ大声で泣き喚いてくれれば、頭ごなしに叱ることだって出来る。

 裕美がそれをやらないことは、弘樹自身が一番良く知っていた。故に、苛々が募る。

 ホームで電車を待っている時も、電車の中でも、裕美はひたすらに無言だった。ただ、いつものように一緒くたになって流れていく風景を、ぼんやりと見つめるだけ。むしろ、裕美自身が風景と一緒くたになって、流れてしまっているように感じた。

 吐き出されるようにホームに降りると、裕美の体が少しよろける。弘樹は思わず手を伸ばし、肩を引き寄せる。驚くほど、細かった。

「お兄ちゃん、ごめんね」

 初めて、裕美は泣いた。ただ静かに、本当に申し訳なさそうに、ぽろぽろと涙をこぼした。震える細い肩が、痛ましい。

 弘樹は肩から手を離し、そっと押す。

「帰るぞ」

「うん」

 裕美はポケットから綺麗にアイロンがけされたハンカチを取り出し、涙を拭く。顔を上げて歩き出す彼女の姿は、妙に毅然として見えた。

 女は、強い。

 弘樹の母親も、弱音を吐いた。そして弘樹に向かってめいいっぱい弱音を吐いた後は、めいいっぱい走り出した。立ち止まってしまった分を、取り戻そうとするように。

 裕美の後について歩きながら、弘樹はふと考える。

 裕美は、何故自分に弱音を吐いたのだろう、と。駅のアナウンスにせかされて、改札に定期を通す。駅を出れば、すぐに家。家に帰れば、誰の顔も見ないで済む。裕美には裕美の家、弘樹には弘樹の家。それぞれの家に、

「ただいま」

 と告げた。

 

 

 カチカチ、シャープペンシルをノックする。集中できないせいか、芯がよく折れる。

 部屋に戻って部屋着に着替え、机の上に参考書とノートを広げて勉強を始める。それがいつもの日課で、楽しみでもあった。冗談ではなく、本気で弘樹は勉強を楽しいと思っていた。

 普段は気にならない車が通り過ぎる音や、ドア越しに聞こえてくるテレビの音が、今夜は妙に耳につく。帰ってから、裕美のことが頭の中をぐるぐると回っていた。

 ドアの向こう。廊下を挟んだ向かいの部屋が、彼女の部屋。そしてそこは、母親の部屋だった。

 微かな音を立てて、また芯が折れる。弘樹は大きく息を吐き、一度伸びをした。椅子の背が苦しそうに呻き声を上げる。と、遠慮がちなノックの音が部屋に響いた。ノックの音だけで、弘樹は主がわかった。

「なんだ?」

「少し良い?」

「開いてる」

 ドアが最小限に開き、滑り込むようにした裕美が入ってくる。青ざめた表情が、何かただ事ではないという、非常事態を感じさせた。

 弘樹は体を捻り、裕美の方に体を向ける。

「どうした?」

「どうしよう」

 ぽつりと、呟くように裕美。

 要領を得ない答えに、弘樹はまた苛立ちを覚えた。

「だから、どうした?」

「お父さんとお母さん、喧嘩してる」

「喧嘩くらい良いだろう。夫婦なんだから」

「違う、違うの。変なの」

 いやいやをするように、頭を振る。このままでは埒が明かないと、弘樹は立ち上がり、階下のリビングに向かう。ただ、階段を下りながらも聞こえてくるのはテレビの音だけで、怒鳴り声や物音は聞こえない。

 リビングのドアを開けた瞬間、弘樹は思った。

 ああ、終わったんだ。と。

 食器同士が擦れる音が、静かに響いていた。義母と父親は、いつもこの時間になると仲良くテレビを見ていた。どんなに下らない内容でも、二人で乾いた笑い声を上げながら。

 二人は背を向け、ただ黙々と、自分の時間を過ごしていた。そこに家族の姿は無い。ここにも、家族という名の他人が一つ。もう家族ですらなく、他人。

「父さん。どういうことだ?」

 蛇口を閉める音。弘樹の背筋を何かが駆け上がり、思わず勢いよく振り返った。

「裕美が、言ったの?」

 いつも通りの、穏やかな口調だった。浮かべている笑みが、空恐ろしい。

「何で笑ってんだよ、あんた」

 震える声で、ようやく声を絞り出す。

 義母は穏やかな笑みを浮かべたまま、弘樹との距離を詰める。後退ることも出来なかった。

「らしくないわね、どうしたの?」

「どうしたのはこっちの台詞だ。なんなんだよ、この余所余所しさは」

「弘樹くん。これは大人二人の問題なの」

「じゃあそれに子供を巻き込むなよ!」

 ついに大きな声を出す。新聞を畳む音。

「騒ぐな、弘樹」

 弘樹は父の背中を睨み付ける。いつもそうだ、睨むことしか出来ない。

「父さんはいつもそうだ。いつもいつもいつもいつも、そうやって自分にとって必要なことしか言わなくて、他人と関わろうとしない。母さんが死んだ日だって、泣きも喚きもしないで、あんたはずっと黙ってた! あんたにとっちゃ、家族ですら、母さんですら、他人だったんだ。他人と関わるのが嫌なら、最初から家族なんて作るなよ!」

 一気にまくし立て、弘樹は父親の言葉を待つ。しかし、待てども待てども、父親の言葉は無い。急に、弘樹は悲しくなった。たった独りぼっちになってしまったように感じた。

「何か言えよ! 子供だと思って馬鹿にしやがって。そうやってだんまり決め込めばうやむやに出来ると思ってんだろ。言い訳でも何でも言ってみろよ、何か言い分があるから離婚するんだろ!」

 父親の背中は、動かない。

 弘樹の目から、ぼろぼろと涙が溢れ出す。膝から力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。

「前から不思議だったんだよ。どうして、家の中に家族って名前の他人がいるんだ。父さんはそうやって、勝手に他人になれるかもしれないけど、俺は、父さんの子供の俺は、父さんの他人にはなれないのに」

 嗚咽が漏れた。母親が死んだ日以来、初めて泣いた。もうこれから先、父親が死んでも泣かないと思っていたのに。

 ただ、敵の中で自分の弱さを曝け出したくなかった。泣きじゃくることも出来ず、ただただ、弘樹は嗚咽を噛み殺す。裕美が入ってきたのは、そんな時だった。

「お母さん」

 思いの外しっかりした口調で、裕美が言う。

 裕美はそのまま弘樹に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。

「私は今まで、お母さんの言う通りに生きてきた。間違ってたとも思わないし、後悔もしてない。だけど、いつまでも子供を思い通りに出来ると思ったら、大間違いです」

 弘樹を強く抱きしめながら、裕美は両親を強く睨む。

 弘樹は大声を上げて、泣きじゃくった。裕美の胸に顔を埋め、声の限りに泣き叫ぶ。

 ずっと求めていた、家族。無条件な味方。家族よりもずっと遠いところに家族はいて、他人よりもずっと近いところに、他人はいた。

 あの時、弘樹は一人で悲しみにくれた。

 今、優しく抱いてくれる女がいる。

 父親が弘樹を抱ける親であったなら、母親は死ななかったかもしれない。それでも母親は死に、父親は弘樹を抱かなかった。



 裕美の父親は家に殆どいなかった。専業主婦の母親と違って、とにかく仕事仕事の毎日。

 それでも時々帰ってくる父親は、裕美に沢山の愛情を注いでくれた。他の家の父親のように、毎週遊んでくれるわけじゃない。物を買ってくれるわけじゃない。それでも、幼い裕美にはわかった。父親が自分を愛してくれていると。

 何か、目に見えるものじゃなくても良い。裕美にはわかったのだ。父親は絶対に自分を裏切らないし、自分も絶対に父親を裏切らない。そう言った自信が、裕美にはあった。

 しかし、母親は違った。

 裕美の母親はどちらかというと子供っぽい性格で、お嬢様育ちでおっとりしている。父親とはお見合い結婚だったが、父親は母親の『女性像』に。母親は父親の『男性像』が、一目で気に入った。

 結婚まではすぐで、結婚してすぐに裕美が生まれた。両親は手に手を取り合って、本当に喜んだそうだ。

 しかし、お互いにお互いを理解し切れていない部分が、二人にはあった。あまりにも、知り合ってからが短すぎるし、若い。

 父親も積極的にその綻びを直そうとはしなかったし、母親に至っては気付いてすらいなかった。ある意味で鈍いその母親がズレに気付いた時には、もうズレではなく、それは断層だった。

 もう消して後戻りできない、滑り、ズレが大きくなっていくだけの、断層。

 母親は裕美に嫉妬に近い感情を抱いていた。父親の愛情を一身に受ける裕美に、親としてではなく、女として純粋に嫉妬していた。子供を生んで母親になっても、『お母さん』にはなれなかった。

 家の中で、裕美は始終居心地の悪い思いをした。とにかく、母親が怖い。

 そして、そんな日々の終止符は突然だった。

 母親は父親と離婚すると言った。父親も裕美の親権を得る代わりに、大量の慰謝料を払うということで、仕方なく裁判所に出向いた。父親はよく気の付く、頭の良い人だった。

 母親はあまり頭の良い方ではなかったが、女としての本能は人並み以上に持っていた。そして男である父親は、それに気付かなかった。同じ女である裕美だけがその事実を知っていても、まだ裕美は幼すぎた。

 父親は裁判で負けた。裕美は母親と暮らすことになり、父親は養育費の代わりに慰謝料を払った。

 母親は裕美と、裕美の大好きな父親を引き離すことで裕美に対する復讐を遂げた。裕美と父親を会わせることは勿論許さなかったし、父親にはその権利も無かった。

 父親は裕美の父親になるためには、あまりにも家を空けすぎた。

 裕美のため、母親のためと、身を粉にして働いた結果、そこに付け入られて、父は裕美と、母親を同時に失ってしまった。裕美は判決を聞いてただ呆然とする父親を見て、泣いた。

 悔しいわけでも、悲しいわけでもないのに、後から後から涙が溢れた。まだ小学生。やりきれなさで涙を流すことなんて、知らなかった。

 転校してから、裕美は急に明るくなった。

 父親の愛してくれた、裕美でいよう。そしてとびきり素敵な女になる。それが父親を裏切った母親に対する、唯一の復讐だと思っていた。



 裕美は弘樹の頭に顔を埋め、胸いっぱいに愛しい家族のにおいを吸い込んだ。

 安心できる、男の家族のにおい。ずっとずっと、この時間が続けば良いと願っても、他人になってしまう家族。

「お兄ちゃん、聞いて」

 そっと囁く。

「家族ってなろうと思ってなれるものじゃないと思う。誰かが誰かを、少しずつ愛して、愛されて、家族ってかたちになるの」

 弘樹が頷く。裕美は優しく微笑み、弘樹の頭を抱き締めた。

「私もいつか、素敵な家族を作るから。お兄ちゃんもいつか、素敵な家族を作って。家族を作ることを、嫌にならないで」

 弘樹は何度も頷いた。

 ずっと憧れていた家族。やっと手に入れた家族。そして、他人になってしまう家族。

 


 義母と父親は、結局離婚した。父親は大した慰謝料も支払わずに済み、お互いの家族はまた元通りに、親子だけになった。

 弘樹は朝の身支度を整え、父親と自分の分の朝食と弁当を作る。すると寝室から父親が起きてきて、新聞を広げながら用意された朝食を食べる。

 いつもより二人前少ない食卓に、まだ少し違和感を感じる。時計代わりのニュースは、元気の良い新人キャスターへの交代を知らせていた。

「じゃあ、行って来る」

 弘樹は弁当を鞄に入れ、リビングのドアを開ける。

「色々、悪かった」

 弘樹の足が止まる。でも、振り返らなかった。

「今更、なに言ってんだよ」

 弘樹は苦笑しながら、家を出る。からりと晴れた、気持ちの良い朝だった。

 駅のホームで電車を待っていると、裕美がやってきた。家が近くだったので、転校しなかったのだ。

「おはよう、ヒロくん」

 にこにこと、屈託の無い笑みを浮かべて、元気に挨拶をしてくる。裕美の母親にそっくりだと言ったら、彼女は嫌がるだろうか。

 弘樹は軽く笑みを浮かべて手を振り返す。

「その呼び方やめろって言っただろ」

「うん? それじゃあね」

 何かを企んでいる笑いだった。ホームに電車が滑り込んでくる。

「お兄ちゃん」

 他人家族、いかがでしたか?

 このサイトでは二作目となる作品で、こちらもヒューマンドラマのなりそこないとなっております。

 もう少し有名になったら、あとがきのようなものも書きたいなぁ、と、画策していたり。


 応援のメッセージや感想、批判など、是非お寄せ下さい。飛んで喜び、お返事します。

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