Cp2・インナーユニバース
1
出撃は三日遅れて、十日後のことだった。作戦スケジュールが土壇場で乱れることは珍しく、理由は上層部のシステムトラブルだそうだが、はたしてそんなもので三日も遅延するのか怪しいものだ。
初日は地上から黄泉へ入るだけ。世界と世界の間を渡るのだから、かなり繊細な作業を要求されて、僕も忙しかった。具体的にどうするのかと言うと、まず、地上にあるブラックホールから、ワームホールに突入する。ようするに、大きな穴で、その中は管になっている。これは異界をつなぐ通路であり、古くは、黄泉津比良坂とも呼ばれた。管の中は物理的にめちゃくちゃな世界だから、艦を制御するのもたいへんだった。だけどいやな作業じゃない。布団に入って、目が覚めるのを楽しみにしながら眠るような感じ。きっと楽しいことがある、そんな予感に浸っていられる時間。
ワームホールから、出口のブラックホールを抜けると、そこは黄泉だ。インナーユニバースとも呼ばれる、地底宇宙。空の上にある高天原宇宙と対をなす、もうひとつの宇宙だ。
黄泉にはなにもない。高天原と違って、星の輝きも、なにひとつ。高天原には、一立方センチメートルあたり、平均一個の水素があるけれど、たぶんそれすらない。すべてが黒く、夜の闇ですら、この黒にはかなわない。きっと、この色は、物理的に表現できないし、だれかに伝えることも不可能だ。実際、黄泉へ行って、目にしたものだけが知ることのできる黒。そしてその機会は、いつかやがて、だれしもに訪れる。
黄泉には昼も夜もないのだけど、人間が生活する以上、そいつを設定してやらなくてはならない。タケミカヅチでは、通常シフトの場合、夜がくると当番以外は部屋に戻って就寝する。僕はトウキと相部屋だ。艦長だけは個室で、あとは二人部屋から四人部屋だから、乗組員十数名のうちで、自然な選択をするとこうなる。つまり、二人部屋を使用する権利のある、ブリッジに詰めるような士官で、残る男はこのふたりしかいないってことだ。
トウキはずぼらさが立体化したような人間で、まず、掃除をしない。服をたたまない。髭も剃らないし、そんな暇があるなら、寝るかトレーニングをしている。細胞の中に秒針を仕込んでいそうなジーク艦長とは対照的だ。唯一、トウキが几帳面に見えるのは、床の隅に寝そべって腹筋運動をしているときだけれど、それは単にその動作が、メトロノームっぽいだけのことだ。
だけど、頼りになる。僕が地上で邪神に襲われたとき、すこしも怖くなかったのは、トウキを信用していたからだ。もちろんキリエのこともだけど、あっちは年が近い分、友達みたいな感覚なので、頼りにするってのとは、ちょっと違う。
寝る前にすこし、話をすることが多い。相部屋だけどそこそこ広くて、二段ベッドじゃないし、お互いをパーティションで区切ることもできる。トウキはもちろん、僕もめんどうくさいので、いちいちそんなものを引いたりはしないのだけれど。だから寝るとき、首を傾ければトウキの姿が見える。でもたいていは天井を見ながら話をする。
黄泉へ入ったばかりはバタバタしていたから、就寝もそろわなかったし、疲れてすぐ寝てしまった。二日目は集合ポイントまで移動するだけだから、話をしたのはその夜だった。
「銃を撃ったことはあるか?」
独特の、映画俳優みたいに渋い声色で、トウキはそう言った。おかしな質問だ。拳銃の扱いは必修項目で、オペレーターの僕ですら、苦労して習得した。射的は大の苦手なのだ。あの小さな弾が、あんな遠くの的まで移動する、その物理現象を物理的に制御するなんて。それもこの腕一本で、あまつさえ引き金を引くのは指ひとつだ。本当に命中させようとすると、気流やリコイルの予測計算だけで脳がパンクしそうになる。連邦軍の軍事コンピューターにアタックを仕掛ける方が、まだ簡単だ。
「二、三日前から、すこし」
それでも、人間は実現に向けて努力していくものだから、出撃が伸びた三日の空白のうちに、基地の射撃訓練場へ足を運んでいた。アーリィを守るのに、一番てっとり早く役に立ちそうなのは、拳銃の腕前だろうと思ったからだ。ただ単に、思考が短絡しただけかもしれない。
訓練場の教官は、補助輪を外したばかりの子供に自転車を教えるみたいに丁寧に指導してくれたけど、僕はよちよち歩きの赤ん坊にまっすぐ立つ方法を教えるところから始めてほしかった。つまり、まったく、成果に見込みがなかったってこと。僕が持ち帰ったものと言えば、指にできた豆くらいのものだ。
「どうだった?」
「なにがです?」
「ものになったか」
「計六時間程度の練習で、ものにできるなら……」僕はくすりと笑う。
「ま、なにごとも反復だな。正直、似合っちゃいないよ。やめた方がいい」
なら、なんでそんな質問をしたのか。でもやめた方がいいと言うのは、自分でも思ったことだったので、採用することにする。トウキはすこし黙ってから身じろぎをした。半身を起したのかもしれない。僕は天井を見たままだったので、それは確認できなかった。
「……サクヤになにか、吹き込まれたな」
「なにか、って、なにを……」
「そいつはわからんさ。ただ、気をつけておけ、あいつはあっち側の人間だ」
「あっち?」
「ジークサイドってことだよ。うまく立ち回らないと、利用されることになる。またいつか、この前みたいなことになるぞ」
黄泉へ堕ちた街へ出向いた時のことか。いま思い返すと、あれは本当に嫌な任務だった。そう言うのを回避するためなら、トウキの忠告も聞いておく価値があるのかもしれない。
「トウキさんは、なにサイドなんです?」
「おれか? おれは単純明快、スタンドアローンさ」
「そう言うと思いましたよ」
予測が当たって、すこし機嫌がよくなる。反対側のベッドから、鼻を鳴らすような音。おそらく、短く笑ったのだろう。
「気づかなかったんだな、やはり」
「ええ……、」勢いで返事をしかけて、思いとどまる。「なにをです?」
「射撃訓練場におれもいたってこと。離れたレーンだったが……」
「そうだったんですか。三日前?」
「いや、おととい」
「どうでした?」
「なにが?」
「ものになりましたか?」
今度は、声を上げてトウキは笑った。横隔膜の振動で、ぎしぎしとスプリングのきしむ音が聞こえた。ひょっとしたら、相方のベッドは寿命なのかも。
「ああ。手ごたえがなさすぎて、豆腐を撃ってるみたいだった。だからすこし退屈して、お前を見つけたのさ」しかしそこで、急に声のトーンが変わった。怪談話で急におどろおどろしい話し方になるみたいな感じだった。「お前に付いてた教官な、あいつ、下手糞が来ると鬼みたいになるんで有名なんだ」
「へぇ……。それは、そんな印象じゃなかったですけど。あ、ひょっとして」
「お前は下手糞だよ。スコア見てみろ。おれなら小指で引き金引いたってもう少し出る」
「ですよね」
「目だよ」不思議なことを言って、トウキはふっと息を吐いた。「あんな目をしてターゲットを睨んでるやつなんて、いやしねぇ。ぞっとしない。あの紙っぺらは、親の仇なのか? どうなんだ」
「え?」
「お前のことだ、ルーン・マクベス。教官のやつ、漏らしそうだったぞ。あんなに鬼気迫って、射撃の練習をする必要があったのか?」
「わかりません。でも、見間違えじゃ?」
「なにか、よからぬ影響を受けているみたいだな……」ため息みたいな声。トウキの物言いは、はっきり言いたいことを伝えてくるので、駆け引きがない。「とにかく、あれだ。銃はよせ。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、なんて言うけどな、お前が想定しているような艦内戦闘でめくら撃ちされたら、こっちがたまらないんだ。ポイントマンが、背後まで神経を配りながら進路を確保するなんざ、お前、できると思うか?」
「いいえ……、なら、僕はどうしたらいいと思いますか?」
「どうもするな。もしくは、もう寝てしまえ」
言いたいことを言って、面倒くさくなったのだろう。トウキは話を打ち切る気配を見せた。今度は僕がそっとため息。たいへんなことを依頼されたって直感は、やっぱり正しい。
もう寝に入ってしまったと思ったトウキが、しばらくして思い出したように言った。何か思い付いてくれたのではなくて、別の話題だった。
「そういや、出撃が遅れた理由。うわさだが、聞きたいか?」
「ええ」興味はなかったけど、しゃべりたそうにしているので、うなずいた。
「中央の頭脳が、逃げ出したらしい。それも『始祖AI』、エニアリスだそうだ。知ってるか?」
「いえ……、」ここ最近で、たぶん、一番驚いた。眠気なんか一気に飛んでしまったほどだ。「どうしてです?」
「そこまではわからないさ。ただ、世界で最初に自我を持ち、もっとも長く経験を重ねたAIが逃亡するなんてこと、尋常じゃないな」
「なんでだろう。どうやって逃げたのかな」
「アンドロイドの身体に入り込んで潜伏してるってのが有力だが、あの容量の情報体が人型に納まるのか? そこんところ、すこし聞きたくなってな」
なるほど、それなら僕の専門分野だ。ちょっと考えてから、結論を話す。
「できると思います。対邪神戦闘用アンドロイドなら」
「あの、馬鹿でかい容量のハイスペック機か……。でもそんなレアな機体、管理だって厳しいだろ?」
「ええ。だから、もっと単純な部分だけ、通常の機体に移したとか、もしくは電子網を通じて、コンパクトな形で潜んでいるとか……。自己圧縮して、記録スフィアに収まっている可能性もありますね。おそらくは、容量の大きな記憶やプログラムには、錠前を下ろして、鍵だけの状態になって逃げているって言うのが、実際じゃないでしょうか」
「さすがだな……」トウキは唸った。「連邦のお偉方が汗食って行方を捜してるってのも、実はエニアリス自体の確保が目的じゃなく、それが封印していった膨大な情報が問題だって話だ」
「まともに解除しようとすると、数年はかかるでしょうね」人ごとみたいに告げてから、ふと、それが自分たちにも関わりある事態であることに気がついた。「あれ……これって、戦争に影響しないんですか?」
「してるじゃないか。三日遅れた」
「あ、そうか……。たいへんだな」
「言っておくがこの話、表立って話すと謹慎物だ。おれが教えたって口が裂けても言うなよ。わかったな」
「それは、もちろん……」戦争への影響がどの程度なのか、気になりはじめた。外部の余計な要因で、タケミカヅチの動きが制限されるなんて、まっぴらごめんだ。
「ああ。じゃ、寝るわ」
その時にはもう、トウキの言葉は耳に入っていなかった。エニアリスの件をどう調べようか、そのことで頭がいっぱいになっていて、もちろん眠るどころではなかった。
明日、黄泉に入ってから三日目。他の艦と艦隊を整え、戦争がはじまる。
2
淡く、輝く。
ぽこぽこと沸き上がり、押し上げ、弾けて消えて、また沈み、また上がる。
僕はニューロンの神経網を見る。それは黄金色。
随所で起きる、雪景色のような爆発。スパイク発火。閾値を越えて、感情を生み出す。
伸びたシナプスの先、イオンチャンネルが開き、神経伝達物質が流れていく。その美しい光の輝きを眺める。
このまま、この金色の網に絡め取られ、溶け込んでしまえたら。その誘惑はいつでも僕を甘くとろかせている。それができたとき、本当の意味で、僕はタケミカヅチとひとつになれるだろう。
現実の僕の口が、無味乾燥な情報を吐き出す。
「エンゲージ。距離200」
僕はオペレーターだ。外の世界がどれだけ暗くて、色彩に溢れ、重く、圧迫感に満たされていても、いずれはそこに還らなくてはならない。でも、このオペレーター席に座っている限り、僕はタケミカヅチと接続していられる。無骨な金属の殻の内側にある、壮大な輝きに満ちた世界へアクセスできる。色々とわずらわしいことを考えたって、結局、僕はそれを望んでいるだけ。その望みを果たすために、普通の人間の振りをしながら、生きているだけだ。
「第三戦速まで加速。主砲、砲門開け」
ジーク艦長の落ち着いた指令。
操舵手のトウキが加速し、砲手のキリエが射撃準備を完了させる。すべての情報、艦内の動きは、リアルタイムに僕へフィードバックされる。それだけじゃない、外部をセンシングするあらゆる計器の情報が、僕の目となり、耳となる。
さあ、手を伸ばそう。
もう、すぐ、すぐ、すぐ、すぐ、届く。
「距離150。射程圏」
「エイミング完了!」
威勢のいい、キリエの報告。ちょっとだけ現実へ引き戻される。またすぐ潜り込む。離さない、そっちへ行くことは許さない、そうタケミカヅチが言っている。
「てぇっ!」
艦長の鋭い命令が飛ぶ。この人は本当に、状況による適切な変化がうまい。なにも感じていないのに、ただ計算されたプログラムと、裏打ちのあるロジックにしたがって動いているだけなのに、この場の空気と言うやつに、これ以上ないくらいマッチして、なにもかも――巻き込んでいく。
キリエは撃ち。
トウキは舵をきり。
僕は見届ける。
主砲が発射され、遠雷のような音が響き渡り、メイン・モニターにCG描写された邪神の身体へ穴が空いて、艦が流れる。爆散。僕の口が、また、水銀のような言葉を吐く。
「攻撃評価。発射弾数3、命中3、対象は消滅」
ああ、こんな、まどろっこしい。
もっと、速く、大地を踏みしめるように、近づいて。
握り締める、剣の柄の、無骨な感触に、歓喜しながら。
思い切り振り下ろす。風を切る。
そして、打ち砕く。
完膚なきに。
憎しみも、怒りもなく。
純粋な膂力を込めて。
ただ壊し、滅する。
それだけの行為。
ばらばらになった破片を踏みしめる。
狩りを愉しむ獣のように。
そこには、名誉も、欲望も、ない。
すみきった、きれいな、破壊衝動。それだけ。
「さあ……」
小さくつぶやいた。これは浮かび上がった泡の飛沫。寝言のようなもの。
さあ、次は、どれだ。僕は見る。目を見張って闇を見渡す。その結果が、メイン・モニターへ表示される。邪神の身体が黒いからって、いちいち、CGにして形を作らないと安心できないなんて、人間はなんて臆病なのだろう。そんなことをしなくても、あいつらを壊すことはできるのに。
「敵影発見。距離、X2000、Y300、Z0。中型と推測。先行偵察艦の情報を待ちますか?」
仕事をこなす、この瞬間だけ、僕は浮かび上がる。息継ぎをする。イルカのように。結局、僕も哺乳類。潜りっぱなしではいられない。でもきっと、イルカだって、好きにしていいと保障をもらえたら、二度と浮かんでこないはず。
「いえ、速度そのまま、左舷ミサイル準備」
淡々とした指示が終わる前に、キリエが作業に入ったのがわかった。艦体の左にあるミサイルポッドに、命がこもる。産声を上げる用意が整う。タケミカヅチは、速い。鳥のように速い。みるみるうちに駆け寄っていく。このまま、体当たりできないのが、残念で仕方ないくらいだ。計算された角度で舵が切られ、ちょうど、カーブのアールの頂点で左舷が一番近い位置にくるように、接敵する――。
「SSM発射!」
「SSM発射!」
艦長の号令を、キリエが復唱し、スイッチが押される。ポッドの爆砕ボルトに火が付き、蓋が跳ねあがって、それよりすこし前に点火されたブースターがミサイルを押し出し、生まれ落ちる。ミサイルは目標への距離を縮めながら、搭載されたコンピューターが最適な侵入角を計算し、センサーが邪神の位置を測定して、邪神がそれを妨害しようと発するECMをECCMで妨害し、ジャミングを跳ねのけ、飛散するチャフ状の体組織をかわし、短い旅を終える。タケミカヅチはそのころにはすでに背を向けていて、僕だけがそれを見送る。
「SSM命中。信管の起動を確認。攻撃評価可能まで、十秒」
「必要ありません。進路そのまま――」
「左舷に小型邪神!」
トウキの叫びとともに、ぐん、と身体が引っ張られる。スラスターを全力噴射して、急速転回を試みたのだ。重力制御された艦内でもこれだけ感じ取れると言うことは、相当のGがかかったはずだ。
見落とした。特に小さな連中は、レーダーやセンサーをくぐりぬけて接近してくることがある。もちろん、策敵は僕の主な役目じゃないから、責任を感じる必要はないのだけれど、申し訳なく思う。だれに? 艦にかもしれない。
「重力バリア、局所展開! 急げ!」
命令に従って、僕はバリアを展開させる。開いたままのミサイルポッド付近を特に急いだけど、間に合わないかもしれない。邪神は一匹ではなかった。小型の連中は群れているから、想定内のこと。半分は制動で振り切って、半分はバリアではじき返したけど、残る半分が艦体にとりついた。装甲部分に取りつかれたなら、電流を流して排除できるが、武装付近は無理だ。数十秒で内部に侵入される。僕はそれを計測する。
「入りこまれました。人型クラスの邪神が数体。おそらく、三」
「キリエ・ラシャ少尉。白兵戦闘用意。五分で殲滅し、戻ること」
「アイサー」
「砲手は私が代わります」
キリエはすばやくブリッジを飛び出し、副艦長のサクヤが砲手席へ座る。
「速度落とせ。巡航。マクベス准尉、艦内のモニタリングと少尉のバックアップに専念し、逐次報告。隔壁はいつでも下ろせるように」
「了解」
隔壁を下ろせば、もちろん、キリエは戻ってこれない。戻ってくる必要がなくなったら、要するに、任務に失敗して、邪神がさらに進行しそうなら、下ろすと言うことだ。キリエの生死は問題じゃないから、冷徹な判断を要求される。だけど、ジーク艦長は書棚に本を戻すみたいにやってのけるだろうし、僕はそれに従うだけだ。手紙を受け取るのより簡単な作業。その内容は、最悪に違いないけど。
キリエのバックアップに入れとの指令なので、通信する。でも白兵戦に関して素人の僕ができることは少ない。せいぜい、敵の位置と距離を教えるくらいだ。あと、余計なおせっかいを焼くのも。
「キリエさん、装備は? できたら、あんまり二次被害を出さないでほしいんですけど」
『あんた、ちょっとはあたしに気をつかうとかないわけ?』
案の定、呆れたように返される。僕は微笑んで言う。微笑みも伝わればいいのに。
「だって、キリエさんがだいじょうぶなのはわかってますから」
『うまいのね。装備G。追加はなしよ。弾は9ミリ。通常弾』
「了解です。3‐A区に入ってください。ミサイル発射装置の機関付近です」
すでに左舷下部をキリエは走っている。どうやったらあの短時間で武装を整え、そこまで移動できるのか、まったく理解できない。あとで廊下の感圧記録でも見てみようか。
「近いですよ」声に緊張がこもるのがわかった。他人ごとだけに、なおさらだ。「あと十メートル。次の角です」
『オーケー。突入する!』
「ラシャ少尉、交戦に入ります」
艦長へ報告。返事はない。廊下の監視装置を注視する。敵は三体だった。屋根瓦みたいな体表の、真っ黒いヘビを思わせる、二メートルほどの邪神。走り込んだキリエが相対。腰だめにしたサブマシンガンを放つまで、コンマの秒数しかかからない。
次の瞬間、予想外のことが起こった。
あの位置、あの射角なら、間違いなく三体ともまともに弾を受けたはずだし、実際、映像ではそう見えた。だが、邪神がはじけて消えるタイミングで、突如、すべてのモニタリングが不可能になったのだ。墨で塗りつぶされたみたいに、その区画に据え付けられたあらゆる計器が作動不能に陥った。
「艦長!」
僕の叫びで、ジークは状況を悟ったようだ。すばやい指示。
「トウキ、現場へ。急いでください。副艦長は操舵を」
隔壁を下ろせ、と言われなかったことに若干安堵する。そこまで早計じゃない。キリエよりもすばやくトウキが飛び出していき、その間に、僕はタケミカヅチへ深く潜り込んで、何が起こったか把握に努める。それはすぐにわかった。強力な電磁波を感知できたからだ。つまり、電子機器が、その電磁波でダウンしていた。原因はやはりあの邪神だろう。あれが破壊された瞬間、電磁波を撒き散らしたと見るのが正しい。
「艦長、トウキさん、聞いてください」僕は状況を説明する。それが終わった後、トウキが吐き捨てた。もうだいぶ先の通路を走っているようだ。
『くそったれ! やべぇぞ……』なにがそんなに危険なのか、その声はひっ迫している。『電磁波はまだ残留してんのか?』
「ええ――でも、瞬間的なものですから、すぐ消えると思います。でも左舷のミサイルはメンテナンスしないと使用できないでしょうね」
「EMP爆弾か……」
ジークは珍しく、難しい顔で顎に指を当てている。よほど、想定外の事態が起きない限り、この表情は見られない。だから現状は、それだけ深刻ってことだ。EMP爆弾はエレクトロマグネティック・パルス・ボムの略で、電磁波を爆発的に発して電子機器を損壊する兵器の総称。あの邪神はEMP爆弾みたいなものだったと捉えたのだろう。
総合的にみて、戦局は現在、連邦軍が優勢だ。圧倒していると言ってもいい。だけど、なにか、全体の戦況にまで暗雲が垂れこめたような、いやな予感がしはじめていた。消滅の直前に電磁波を発するような邪神は、これまで存在しなかった。新種だ。新しいタイプの邪神など、ここ数年、まるで発見されていない。そんなレアケースにたまたま行き当たったのだろうか? それとも……。
『こちらトウキ。キリエが負傷した。救護室へ人を回してくれ。ちょっと、まずい』
まだ、映像は回復しない。
僕は眼を閉じて、心の中の黒っぽいものを、噛み潰した。
3
意識が戻った、と聞いたので、僕はキリエを見舞いに行った。二日後のことだ。戦争はまだ続いていて、連邦軍は押し続けているみたいだけど、タケミカヅチはミサイル発射機構に受けたダメージが深刻で、いまだドッグ艦で修理中だった。キリエが移されたのも、ドッグ艦の特殊救護室だ。
だいじょうぶ、みたいなことを聞いていたから、キリエの片腕がなくなっているのを見て、僕は心底驚いた。なにか言う前に、キリエは機先を制して、残った片腕を挙げた。
「気にしないで。もともと、作り物だったから」それから、自虐するように、「あたし、サイボーグなの」とつぶやいた。
感圧記録を見て、妙に重い人だな、とは思ったけど、女性の体重のことを気にするのは失礼なので、それきり忘れていた。サーボーグなら納得だ。つまり、電磁波をもろに受け、身体の機械が故障してしまったのだろう。キリエはベッドに腰掛けた姿勢で、なにが起こったか説明してくれた。
「左腕の、ひじの辺りに、こう、こんな感じで発射する、ショットガン機構があったんだけど、電磁パルスで誤作動起こして、内側で暴発したの。それ以外はもう、特に問題ないみたい」
「あんな邪神がいるなんて、ほんとに……」こんなとき、言葉は不便だ。表情や声色や、いろんな要素が情報を阻害する。「元気そうでよかった」
「無理に、用意したセリフをしゃべらないで」キリエは苦笑する。
「どれくらいで復帰できます?」
「腕は、もう、しょうがないから、肩からはずして、汎用のパーツをくっつけるつもり。スペアは地上に戻らないと、用意できないし。まあ、最悪、マニピュレータをつないででも、仕事はできるようにするから。三日待って」
冗談めかして笑った顔が、普段どおりだったから、僕も笑い返した。普段どおりじゃないのに、普段どおりに笑えるってことは、普通じゃない、無理をしてるってことだ。それがわかったから、僕は安心することにした。つまり、僕に気をつかえるくらい、元気。
それからすこし、世間話をした。もちろん戦争の話だ。
作戦の進行状況、味方の被害、敵に与えた損害、刻々と変化する状況の推移――。
どれも上滑りしていた。
「嫌じゃない?」すこし会話が途切れた後、キリエは上目遣いで、僕をうかがった。身長の関係上、いつも見下ろされていたから、そんな目は初めて見た。「あたしが、サイボーグだったことで、なにか変わった?」
「いや……そんなこと、ないと思うけど」キリエにとってそれは、触れてほしくない話題のようだったので、回避しようと短く受け答える。
「本当に?」
でも、食いついてきた。傷口をもっと見て、と言わんばかりに。この場合、どうするのがいいのだろう。だいじょうぶ、ひどくないよと慰めるべきか。見たまま、感じたままを、写実的に伝えるべきか。それとも、今夜が峠だと脅すべきか。
「僕には、わかりません。わからないことが多くて」
あぁ、目の前の相手が、アシリアだったらよかったのに。あの人なら、どんな言葉足らずでも、正鵠を射るように汲み取って、理解してくれる。でもそんなことを他の誰しもに求めることは建設的じゃない。必死で語彙を漁るけど、言葉と感情の組み合わせは、何万何千とあって、どうしてこんなにプログラム的じゃないんだろうと、半ばうんざりする。機械なら、正解は数通りしかないのに、人間だと、無数にあったり、そもそも存在しなかったりするのだ。
「ごめんね」結局、僕が考え込んだのを見て、キリエが引いてくれた。「コンプレックスなの。望んでなった身体じゃないから。教えてなかったのも、ルーン君を信用してなかったんじゃなくって、あたしのつまらない意地」それから、重石を吐くみたいなため息。「でも、怖かっただけかも。意地は張れるのに、意気地は無いなんて、変だよね」
それは単なる言葉遊びだ。僕は視線を下へ向けたキリエの銀髪に、手を置く。それを滑らせて、頬へ。僕は男で、キリエは女だから、こう言う雰囲気のとき、どうすべきかはわかっている。そう、言葉を捜すより簡単簡潔なこと。
頬に当てられた僕の手のひらに、身体全部の体重を預けるようにして、キリエは目を閉じた。こうやって人はときどき、過負荷で焼けかけたバランサーを冷却する。そうしないと、すぐ方向を狂わせてしまう。どっちを向いているかわからなくなって、あさっての場所へ飛んで行ったまま戻れなくなったり、地面に墜落したりする。そう言う点では人間も機械も同じなのかも。
「あったかい」そう言ったキリエは、微笑んでいるように見えた。もう、安堵しているようだった。僕の手のひらが持つ体温に、そんな効果があるとは驚きだ。今度、自分でも試してみようか。
でも違った。ささやくように、うすい唇が動いた。
「ルーン君の心が」
「心?」
「そう。熱すぎず、冷たすぎずに、ちょうど、あったかい」
ちんぷんかんぷんだ。こう言う機微に、僕は特に疎い。どう言う意味か訊ねてみたかったけど、とても、心地よさそうにしているので、遠慮をする。代わりに、今度アシリアと会ったら、質問してみる必要があるな、と、胸の中でメモを取った。
「ごめんね。ありがとう」
キリエは顔を離すと、軽く手の甲にキスをして、自立した。瞳は潤んでいないようだ。よかった、泣いてなくて。これ以上、わからないことが増えると、今度は僕のバランサーが焼けてしまいそうだ。
それからすこし、ふっ切ったような顔をして、キリエはひとりでうなずいた。
「うん。ね、ちょっと、身の上話を聞いてくれない?」
「はい」
「あたしとトウキってね、孤児だったんだ」ベッドの上で膝を抱えた。僕も立ちっぱなしではなんなので、そのとなりに腰かける。
「子供の頃は、もう、ほんとひどいところで、なんとか協力して生きてた。被災地区のすぐそばにあるスラムね。いまはもう、世界中探したってそんなところはないけど、十年くらい前はまだ政府の管理が甘くて、けっこう社会保障の網からこぼれた人たちがいた」すこし言葉を切る。整理しているようだ。整理しないと話せないようなこと。「そのうち、あたしは誘拐された。おさだまりの、臓器目的の営利誘拐。EM細胞やヒトブタから臓器を生成できるし、あるいはサイボーグ化の方法があるって言っても、それに頼れないケースがあって、そう言う場合に新鮮な子供のパーツは需要があるわけ。で、あたしはバラバラにされた」
「ばらばら?」
「文字どおり。注文があった部位から腑分けされて、順々に売られていった。最近の延命技術ってすごくてね、まともに残ったのは脳と脊髄くらいだったんだけど、それでもまだ生きてたの。生かされていた。新鮮さって大事だから。で、ギリギリのところで連邦政府の介入があって、助け出されたってわけ」
「じゃあ、サイボーグになったのは」
「そこからは逆の手順よ。失った部品を機械で埋めていく。研究所に連れていかれてね、あたしみたいな状態はレアケースだったみたいで、まあ、人命救助の名を借りた、人体実験よ。この身体、ほとんど全部が機械。機械化率80%を超えるサイボーグなんて、あたしだけなんだから。適合できたのはただの奇跡。あとは――」ふと、虚しさを覚えたように天井を見上げた。僕も見上げたけど、そこにあるのはぼやけた照明だけだった。「あたし自身の超人的な努力で、この身体を使いこなすところまで復活した。それでいまに至る」
「あれ、トウキさんは?」
「ああ」苦笑する。「実は再会したのって、軍に入ってからなの。兄が生きてるなんて、全然思ってなかったし、気にする余裕もなかったからね。あいつも苦労したみたい。お互いなにがあったかなんて、話してないけど、それが兄妹の気遣いってやつ。この話、人にしたのは、ルーン君がはじめてよ」
「え、なんで、僕に?」それは驚いた。
「なんでだろうね」抱き寄せられた。キリエは大事なぬいぐるみを抱えるみたいに、僕に力を込めた。「あたし、もう、ほら、わかるでしょ?」
「うん……」声が震えていて、僕には、キリエが泣こうとしているのだけがわかった。
「自分がもう、人間じゃないって、そんな気がして。何度も死のうと考えたけど、あたしにはいつの間にか、あたしを気遣ってくれる人や、逆にあたしが気遣いたくなる人がたくさんいて、それはなんて幸せなことなんだろうって――」
「そうかも」
「だから、生きていくんだ。きっと生きていけると思うから。あたしが何者でも」
「キリエさんは、キリエさんですよ」
「うん……。ありがとう」触れ合った頬と頬に感じる、この冷たいものは、たぶん涙。でも僕のバランサーは焼けない。キリエが泣くために話し始めたんだってことは、途中からわかっていたから。
だから、すこしくらい元気づけないと。
「第二種人類バイオロイドや、第三種人類AI/アンドロイド。人だけでも三種類ある。この世界って多様化してきて、キリエさんも多様化のインフレーションのひとつだと思います。自分がわからなくなることもあるかもしれないけど、それって、僕も同じだから、少なくともひとりきりじゃありません」
「ルーン君も?」
「僕には五年以上昔の記憶も過去もありませんから。それなら、僕は他の誰だったとしても同じこと。僕じゃないかもしれない。でも僕は、なぜだかちゃんと、確定的にここにいる。それ以上のことは、必要ないのかなって」
「悩んでないのね」
「気にしてないだけです。人工的に作られるアンドロイドだって、ちゃんと人としての自覚があって生きているけど、たぶん、悩んでないと思います。それは気にしてないから。突き詰めれば、人間だって同じことなのかも」
「そうね。そう言う考え方……視野が広くて、いいかな。ちょっと楽になれそう」
「よかった。役に立てて」
「でもね、一番いいのは、こうやって触れ合うこと。あたしが、あたしなんだって。他人のぬくもりを鏡にして、よくわかるから」キリエはもう一度、力を込めた。「きっと千の言葉よりも」
そのぬくもりは、僕も嫌いじゃない。
甘えるのも、時々いいんだって、そう思っている。
世界はそのために、あったかくなったんだろう。
4
戦争は順調だったけど、タケミカヅチはまったく逆だった。もう修理はとっくに終わったのに、発進許可がなかなか下りない。ドッグ艦だってスペースは無限じゃないから、次々入ってくる傷物の軍艦に押しやられて、いまや美しい青の艦体は、荷物みたいに隅へ転がっていた。とても屈辱的だ。
この三日間、妙に周囲が落ち着かなかった。ジークは何度も上層部に呼び出されて、なんだか不機嫌そうだったし、中間管理職のサクヤはもっとバタバタしていた。暇そうなのはトウキだけで、整備士と賭けトランプをしたり、ドッグ艦の事務員をナンパしにいったりと、でも、あれはあれで忙しいのかもしれない。だとすると一番暇なのは僕だったりするのかも、と考えて、ちょっと憂鬱になった。
午後にはタケミカヅチの食堂へ行って、アーリィと会った。半日ほど遅れたけど、キリエの復帰が決まって、夕方にでも戻ってくるらしいから、その報告だ。いずれ誰かが教えてあげるに違いないけど、たぶん、僕が適任だろう。こう言う、人と人との橋渡しは、積極的にやった方がいいって、昔だれかに言われた気がする。
でも、アーリィに、もうキリエは仕事ができるくらい良くなったと報告すると、とてもうれしそうに笑ってくれたから、結局、僕はこの笑顔が見たかっただけかもしれない。理由をつけてまで、なにかしたい、なにか見たい、と言うことは、タケミカヅチに関することを除いて、あまりないことだから、この気持ちは大切にしなくてはならない。きっと、僕にアドバイスをくれた人だって、そう言うだろう。
しばらくすると、サクヤが食堂へ現れて、先を越された、とあからさまな顔をした。
「もう聞いた?」
《はい。キリエさんの快気祝いを、なににしようか、考えていたところ》アーリィは微笑んで指文字で描いたタッチパネルをかざした。
「アルコールでしょうね」サクヤも微笑む。それから、急に表情を曇らせて僕を見た。「ルーン君、あなたのことも探してたんだけど……」
「僕ですか?」意外だった。そんな表情で探されるいわれがなかったからだ。
「ええ。諜報部がうちに来て、あなたの引渡しを要求してきた。艦長からはなにか指示を受けてない?」
「いえ……特に」
「そう。待たせてあるから、会議室へ行って。断りたかったけど、嫌疑が嫌疑だから、取調べを拒否できなくて……」
「嫌疑……。それって、なんですか?」まったく、わけがわからない話になってきた。
「情報漏洩よ。スパイと接触している可能性があるとか」
「スパイ……」
《そんなこと、ありませんよね。ルーン君》
「はい。まぁ、なにかの勘違いだと思います。もしかして、タケミカヅチが飛べないのって、そのせいですか?」
「うーん、色々と、他にも……。砲手だって、代理を頼むより、キリエにやらせたかったのもあるし……。とにかく、ちょっと、なにもかもが、今複雑」
いやな感じだった。どうして人間はすぐ横を向いて、突っかかるのだろう。倒すべきは邪神で、そんなことはわかりきっているはずなのに。みんなで走って、みんなで殴りかかれば、もっとシンプルに戦争は終わるんじゃないだろうか。
《お夕食、カレーにしましょうか》
僕の不機嫌が伝わってしまったらしい。アーリィが好物を挙げて、にっこり笑った。こう言う気の遣われ方をしては、僕もしかめっ面を維持するのは難しかった。うなずいて、立ち上がる。
「ありがとうございます。それじゃ、行ってきますね」
きっと、すぐに終わる。鳥だって、翼を休めるときは、枝に留まる。でもまた、飛び立っていくのだ。そのときに、僕がいなくては……。
会議室では、無言の黒服がふたりいて、そのうちの片方をどこかで見た気がしたけど、連れて行かれた先へ到着するまでに思い出せなかったので、僕も終始黙っていた。なにか、殺気立っていて、ときどき僕を見る目がおかしかった。
タケミカヅチを出た時点で、嫌な予感はしたけど、まさか、ドッグ艦をも出るとは想像しなかった。
ちょうど、補給のために第三師団の旗艦であるアメノオハバリが停泊していて、そこに連れて行かれた。どこをどう歩いたのか知らないけど、小ぢんまりした客間みたいなところへ通されて、黒服たちは消えた。入れ替わりに現れた女の人が、なにか飲むかと言ったので、僕はアシリアに教えられた茶葉の銘柄を伝えたけど、そんなものはないらしい。だから、黄泉を詰め込んだみたいなブラック・コーヒーを注文した。もちろん飲むつもりはこれっぽっちもない。
コーヒーが到着して、いつここから邪神が現れるのだろう観察を始めたとき、また呼ばれた。次に向かった部屋のプレートには、豪奢に縁取りされた文字で、『提督室』と書かれてあった。旗艦アメノオハバリの提督は、つまり、僕の所属する第三師団の司令官であると言う意味で、簡単に表せば最上級の上司だ。
僕の代わりに、僕を連れに来た別の人がノックして、通された。
「ルーン・マクベス准尉、お連れしました」
僕より偉そうな人が背筋を伸ばして敬礼しているから、僕もそうしなくちゃならない。残されたコーヒーの行方がちょっと気になった。宇宙での物質はどんなものでも貴重だ。なにかにリサイクルされるだろうけど、やっぱりそこから邪神が出てきたりしないだろうか。
「掛けたまえ」
正面の、ひと目でこの人が提督ですよ、と指し示しているような立派な椅子から、僕へ指示が下りた。固そうな金髪をオールバックにして、わざわざ額の傷を目立たせている。部屋には他に何人もの人間がいて、僕以外で一番若いのが、この提督だった。
ライア・ハイゼンベルク中将。
最年少の将官でまだ四十過ぎのはずだ。叩き上げの軍人で、見た目や性格を一言で表すなら、凄絶とか峻烈とか、激しそうな言葉が要る。超鷹派で知られ、特に連邦軍の若い人間に絶大な支持がある人物だ。たしか、キリエもファンだったはず。実際に目にして、テレビで見るよりも、強そうだと納得できた。
「さっそく本題に入ろう。マクベス准尉――」
僕が席に付くなり、話しかけてきたのは、野太い声の中年だった。目を向けると、声だけじゃなくて身体も太かったので、僕は嫌になってライアでも見ていることにした。オールバック提督は、頬に拳を当てて、足を組んでいる。その崩した姿勢は、トウキに似ていると感じて、すこし好感が持てた。
「この女性を知っているかね?」
大事な宝物の蓋を開けるように、僕の前に突き出されたのは、赤毛のポニーテールが写った写真だった。なにを意味するのかわからないけど、知っている人だ。うなずいた。
「はい。クラティナさんです。苗字は知りません」
「クラティナ・レフィル。軍の最高機密エージェント組織『ヤタガラス』の一員でありながら、諜報活動中に寝返った、特級の裏切り者だよ」
「はぁ……、」驚きがなかった、と言えば嘘になるけど、でも、あの人ならなんだって不思議は無いな、とも思う。「それは知りませんでした」
「この数年、我々諜報部が足取りを探ったがまるでつかめなかった。それが、マクベス准尉。君と会うときに限り、表へ姿を見せる。まるで無防備に! 彼女といったいなんのために会った? なんの話をした? 諜報部が総力を挙げて監視しておるのに、なにひとつ情報を得られん。先日は負傷者まで出す始末……ん、失礼……」
声が高くなったことにようやく気づいて、小太りはわざとらしく咳払いした。諜報部の幹部なのだろう。もうすこしダイエットしたら、仕事もうまくいくんじゃないかと思ったけど、たぶん勘違いなので、それについては黙っておいた。
「准尉」
いっしょに部屋に入った男に促される。嫌々言葉を捜した。乗り気じゃなくても、すぐに見つかるから、これは単純な問題に違いない。こんな簡単なことも自分で解決できないなんて、こう言うのを表現するために、無能って言葉があるのだ。どうしてここにいる人たちは、それを言わないのだろう。
だめだ。やっぱり、機嫌が悪い。
ひと呼吸いれる。
「申し訳ありませんが、勘違いをしておられます。僕はクラティナさんと会っていたわけではありません。彼女とはほとんど話もしていません」
「准尉。説明は省いてしまったが、将官が出席する場での発言は、正確に行わないと罪に問われる可能性がある」横の男がいらぬ世話を焼いてくれる。
「正確ではありませんでした。会話はほとんどしませんが、メールはたまに来ます。えと……十日前、最後に会った日の夜にも、メールが届きました。その程度です」
「それは把握している」諜報部の小太りが汗を拭きながら、手元の資料を読み上げた。「内容はこうだ。『私たちは海へいったことは無い。いったのは塩湖で、普通の海は浮き輪もなしにぷかぷか浮いたりしない。だから、海へいくときは浮き輪が必要だが、水が塩辛いのは本当なので、飲んでみたりはしないこと』……これはなんだ? 新種の暗号か?」
僕は、この男のことが心底馬鹿じゃないかと思ったけど、人間追い詰められて視野が狭くなっているときは、ぜんぜん回りが見えなくなるものだって聞いたことがあるから、面と向かって馬鹿ですよと教えてあげるのはやめておいた。このほうが人のためになる。
「そのままの文章です。その日は海へ行った話を聞きました。僕にその話をしてくれた人は、どうやら塩湖のことを海だって思い違いをしていたみたいで、それを後から正してくれたんです。他意はないと思います」
「ではなぜ! わざわざ、君が別の女と会うような偽装までして、表へ出てくる必要があったのだ、クラティナは! それも、基地の真近くへだぞ」
「偽装?」理解を超えた単語がでたので、眉をひそめる。「申し訳ありません、意味が……」
「あの金髪の女だ。カモフラージュなのだろう。あれと会うのが目的の振りをしていた。実際はクラティナへ情報を渡していたのだ。違うか!」
帰りたい、と真摯に思った。僕の意を、言葉にせずとも読み取ってくれる人もいるし、慎重に伝えても、まるで汲んでくれない人もいる。この小太りは、要するに、そう言うことにしたいのだ。真実を知りたがっているのに、どうしてなにも見ようとしないのか、まるで理解の埒外だ。こう言うわからなさは、わからないままでいいのだろう、きっと。
「僕はクラティナさんと会うのが目的ではありません。いっしょにいた、金髪の女性と約束していただけです。彼女は友人です。友人と会うときに、毎回、クラティナさんが付き添ってきただけです」
「ではクラティナが付き添うと言う、その女は何者だ!」
「名前はアシリア・セラ。八禍教団の巫女です」
「そのつまらな――」当り散らしかけた小太りの表情が、おもしろいくらい凍りついた。「な、なんだって? なんと言った、マクベス准尉!」
「アシリアさん。八十禍津日神を奉じる、八禍教団の最高幹部である、邪神の巫女です。僕の友人です」
しばらく、だれもしゃべらなくなった。ピザ・トーストの上に落ちた蜘蛛を眺めるような目で、僕を見ている。ライアだけが頬杖を維持していて、さすが、と思った。さすがにつまらなさそうだ。
「海老で鯛がかかったな、大佐……」
別の髭を生やした男がぼそりとつぶやいて、部屋に染み渡っていった。
「そして早計だったわけだ。このまま、マクベス准尉を泳がせておけば、陸まで釣り上げられたかもしれぬものを……」
ぼそぼそと、随所から非難が上がり始める。当の大佐――小太りは、真っ青だった。ダイエットできるかもしれない。
「尋問は以上とする」
ライアがそれを絶妙に断ち切った。場の空気を、裁ちばさみで切るような割り込み方は、ジークを思い起こさせた。この人も、艦長と同じように、できる部類の人だ。
「全員退出したまえ。准尉は残るように。個人的に話をしたい」
葬式の列みたいに、みんな出て行くと、思ったよりこの部屋は広かったんだと感じた。ライアは足を組み替え、机の上のフォンでコーヒーをふたつ持ってくるよう指示を出した。きっと、黄泉から吸い上げたような奴のことだ。
「馬鹿が多くて困る」無表情にライアが言った。同じ意見だったので、僕はすこし微笑んだと思う。「君はどうだ?」
「馬や鹿よりは鳥になりたいと思います」
「そうか」
ふっと笑って、でも、ぜんぜん目が笑っていない。人がいなくなってから、急にライアは人間味をそぎ落としたように感じた。ますます、ジークに似ていると思った。
それから、女の人がコーヒーを持ってくるまで、ずっと黙っていた。やっぱりコーヒーは真っ黒だった。
「八十禍津日神を知っているか?」ライアがコーヒーに砂糖を落としているのを見て、僕は若干安堵した。
「はい。この世の災いを司る、強力な邪神です。連邦の主神である天照大神より先に生まれた、邪神の中の邪神」
「それを奉るのが、八禍教団。人柱や生贄を許容する教義のため、邪教指定を受けてはいるが、基本的に奉ることによって災いを収めてもらおうと言う宗教だから、おとなしい部類だ。規模も邪教では最大級。軍部や政治家にも、ひそかに信者がいる」
それくらい、興味のない僕でも知っている。コーヒーに口を付けたライアは、すぐに唇を離した。案外、猫舌なのかもしれなかった。
「アシリアさんの役目のことは、なにひとつ知りません」
だいじょうぶだろうと思ったけど、釘を刺しておく。ライアは僕が口を開いたことなど気が付かなかったみたいに続ける。
「あくまで、表向きの話だ。なにごとにも裏がある。人間は欲望に裏打ちされた生物だ。邪教がはばかったのには、理由があるのだ。もし、君が不治の病を抱えていたとしよう。それを直す術があると聞けば、どうする? 答えなくてよろしい。きっと藁にでもすがるだろう。そして、事実、八禍教には地上だと直せない病を治す方法がある」
淡々としゃべるライアが、なにを言いたいのか読めない。無駄はしゃべらないだろう。ジークに通じる合理性を、僕は見出していた。
「邪神は生命の法則に従う必要は無い。因果を無視し、治療をほどこすこともできる。本来であれば、地上でも可能なはずの治療は、黄泉でしか成功しない。生の国である地上で、助かる者が死に、死の国で生き延びる。矛盾だろう? クラティナも、同じ矛盾を感じたはずだ。あれも、幼い頃から遺伝性の病に苦しんできた。まっとうに地上で生活を続ければ、二十歳まで生きられない身体だった」
「お知り会いなのですか?」途中で口を挟むのは失礼だけど、怒ったりはしないだろう。ライアはうなずいた。
「おれも『ヤタガラス』の出身だ。闇の経歴だな。連邦最高会議室直属の部署で、要するに、天照の巫女の手駒たちだ。連邦なんて組織は、複雑な政治体系を取ってはいるが、実質、巫女の神託で動いている。この戦争も然り……」
首を振り、ゆっくりとライアは立ち上がった。大きい。トウキよりも背が高いだろう。天井に頭がつきそうだった。
「クラティナは邪神の組織を体内に移植し、元の身体よりも強力な肉体を手に入れた。元々、彼女の行為は裏切りではない。最初から八禍教団側の人間だったのだ。そのあたりを知らない諜報部が、先日の強行作戦の失敗で躍起になり、ついに業を煮やした。そして君がここに呼ばれた」
なるほど……ライアは、僕が尋問を受けた経緯を、懇切丁寧に解説してくれていたわけだ。親切なのではないだろう。そう言う人種ではない。ジークと同じとするならば……。僕は訊ねる。
「では、いま司令と話をしているのは?」
「私は機会に便乗させてもらった。いずれ君とは接触したいと考えていたが、立場上こちらからは動きづらいものだ。私の頼みを聞いてほしい」
「はい。僕にできる範囲でなら」
「ジークフリード・ハヤカワは、『始祖AI』エニアリスを手に入れるだろう。それを奪うのだ」
「……それは、僕にできることなのですか?」
「おそらくは」後ろ手に組み、数歩あるいた。動物園のキリンが歩いているみたいだった。「君にしかできない」
「わかりました。やってみます」
「奪った後、どう使うかは、君に一存しよう。出来得るなら、私の元へ来てほしいのだが」
「僕はタケミカヅチと共に在ります。それがすべてです」
「だろうな。だから私は近いうちに、君を殺さねばならない。よろしい。話は終わった。退出したまえ」
別れを告げるとき、たいていの人は後ろを向いている。ライアもこちらへ背を向けて、壁の地図を見つめていた。僕は立ち上がって、その馬鹿でかい背中に一礼し、部屋を出た。
すぐ近くの廊下に、コーヒーを持ってきてくれた女の人が立っていて、なにをしているのか、盆を抱えたまま、寒そうにしていた。会釈して通りすぎようとしたけれど、その口から漏れだした言葉が、僕の足を止めた。
「どうして……ふたりとも、あんな、仮面みたいな表情で、座ってるの……」
僕らのことを言っているのだろうか? 怖がっている。邪神を見たときの人間の表情に似ていた。だとしたら心外だ。唇の両端を適切な角度にまで持ち上げ、僕は笑った。上出来な笑みだ。
「だって、本当は何も、感じていませんから」
残念ながら僕の親切は、女性の恐怖を増しただけのようだった。