Cp1・ 黄泉津蔓(よもつかづら)
1
それは生ぬるい泥のような場所だった。
太陽は闇に侵食され、救いを求める亡者の手のようにコロナの炎がうごめいている。当然周りは暗い。黄昏時のような――となりに歩く人の顔も見えない。もっとも、船外作業用の防護服をみんな着用しているので、顔なんか見えるはずもないんだけど。
空気を泥のように思うのは、きっとこの防護服のせいだ。宇宙線から『穢れ』までを遮断してくれる頼もしい鎧は、しかし重さと暑さの点でまったくいただけない。宇宙でなら少なくとも重さの制約は消えるわけだけれど、あいにくここは地球上の一角で、黄泉でも高天原でもなかった。ただ、この街は宇宙と同じようになってしまったというだけ。
もし不愉快な背中の汗を拭こうと防護服を脱いだなら、その瞬間に黄泉の穢れが流れ込み、僕の人生をどうしようもなく狂わせてしまうだろう。ひょっとしたらその瞬間にでも、いままで気づきもしなかった持病が実は存在していて、心臓を止めてしまうかもしれない。穢れは因果律の因と果の間に歪みを生み、その程度がひどいほど、ひどい結果をもたらす。死ぬと言う結果を導くために、その原因を捏造してしまう――と解釈してもいい。
だからどんなに背中がじっとりしていても、ぬぐうことすらできないまま、僕は一団に混じって歩いた。街並みは清潔で、暗さの割に街灯ひとつ灯っていないことをのぞけば、なんてことのない日常の風景に見える。デパートのショーウィンドウの中では、マネキンが冬物のコートを大事そうに羽織っていて、でも季節は夏だった。それが展示されてから、もう五回は夏がめぐってきているはずだ。
僕たちはメイン・ストリートを抜けて住宅地へ入ったようだった。閑静な住宅街、って言うのは定冠詞のようなものだけど、人っ子ひとりいないのでは、ほどがある。相変わらず周囲は暗く、小さな公園にブランコが死体みたいにぶらさがっていた。犬猫も、スズメもカラスの姿もない。見上げると空が紫色だった。
「見覚えがあるか?」
すこし立ち止まったせいか、となりで重そうなサブマシンガンを抱えている男が話しかけてきた。上司に当たる、トウキ・ラシャだ。
「いえ、べつに」
わざわざ、こんな場所へツアーを組んでもらった意図はなんとなく理解しているので、もっと気の利いた返事を返したかったけど、わからないものは仕方ない。
「君の家の、近所だそうだ。あのブランコも、小さい頃乗って遊んだはずだ」
「近所なら、そうしたでしょうね」
それでも、僕にそのような覚えはない。反対側のとなりから、同じくサブマシンガンを手にした女性がトウキをたしなめた。
「こら、急かさないの。今日はそんな用事でここへきたんじゃないんでしょ」
女性は、これも上司に当たるキリエ・ラシャと言う。トウキとは兄妹で、ふたりとも白兵戦のプロフェッショナルだった。ここへ来たメンバーのうち僕の顔見知りはこれだけで、あとは別の基地から集められた人員だ。
公園からほどもなく、一団は進行をやめた。いままで目的地に向かって歩いてきたのだから、ここが目的地だってこと。でも目の前にあるのは変哲のない家屋で、やっぱり人の気配はなかった。
いや、だれかが表札のあたりを注視していたので、それに目を向けた瞬間、目的を理解できた。『マクベス』とある。つまり、僕の家――生家だった場所だ。
二階建て、小さな庭つき。資料では僕に兄弟はなく、両親と三人暮らしだったそうだ。典型的な核家族。親もサラリーマンと主婦で、ここに十歳まで過ごしていた。
すべて、後で知ったこと。僕に記憶はない。五年より以前のことは、なにも。
「ルーン・マクベス准尉」
咳払いして、トウキがしゃちほこばった調子で言った。さっきも聞いた質問をするのだろう。僕は手間を省く。
「思い出しません。はじめて見たように感じます」
「そうか。まぁいいさ。……で、うちの艦長殿がおっしゃる秘宝はどこにあるんだ?」
「そうよ。宝探しに来たんでしょ」
トウキは投げやり、キリエはうきうきとした様子だ。艦長の言葉を真に受けているキリエと違って、トウキは早く帰りたいようだ。僕も同感だった。こんなことになんの意味があるんだろう? 思い出さなくても不都合なく生きてこられたし、これからもそうできる自信はある。それでもだれかが僕に思い出してほしいと願っているから、わざわざ一個小隊もの人員を裂いてこのツアーが計画されて、みんな危険な場所へ踏み込んでいるのだ。
誰。だれなんだろう。
記憶を無くす以前の僕を知る人物と、何人か会って話をしたことがある。転校していった小学校の同級生とか、遠くの親類とか。この土地に住んでいない、僕の知り合いだった人。面と向かっては言われなかったけど、みんな僕のことを、昔の僕とは別人のようだと口を揃えたらしい。それが本当なら、僕が僕である意味とはいったいなんだろう。ルーン・マクベスと言う名前はこの肉体につけられたタグに過ぎず、記憶もなく人格も違ういまの僕が、そのタグを付け続ける意味はなんなのか。それは昔を知るだれかが、僕が僕であってほしいと言う願いの現われなのか。それともタグのみが絶対で、その実は無意味なのか……。
地鳴りが響いた。考え事をしている間、トウキたちと別の基地の連中とは、すこしもめていたようだ。しかし地鳴りを聞いた瞬間、電源を入れたロボットみたいなすばやさで、事前に打ち合わせたフォーメーションに散った。僕が真ん中で、星型に位置どっている。
「注意。警戒、左20。撤退を開始する」
リーダーの中年……名前はなんと言ったか。それの合図で、僕たちは小走りに来た道を戻り始めた。公園を過ぎ、住宅地を出て、メイン・ストリートへ入る。
ロォォォォォォン……。
水底で鐘を撞いたような音が鳴り響いた。腹の、丹田のあたりにずしりと響く重低音だ。聞くだけで気分が悪くなる。暑さと重さで倒れそうだった。
「くるぞっ!」
だれかの叫び。そのとたん、電信柱が根元から真っ黒く染め上げられていった。
「降臨が始まった! 対象物は電柱、マネキン、ポスト――」
電信柱の天辺まで黒く染まった瞬間、それはまるで粘土みたいにぐにゃりと曲がり、薄気味の悪い触手を伸ばした。それが振り下ろされ、地面に激突してアスファルトが飛び散る。
「A班攻撃! B班は護衛に徹しろ。B班、回収ポイントまで先行、急げ!」
銃声。黒い電柱に穴が空く。排莢が路上に散らばる。腕を取られた。キリエだった。
「行くわよ」
B班はトウキとキリエだ。ふたりともまるでなにも身に付けていないかのように軽々と走る。僕は引かれる手の速度に合わせるので精一杯だった。これは僕の体力が劣っているのではなくて、ラシャ兄妹が異常な身体能力をしているだけのことだ。
ガラスの割れる音。真っ黒い人影が走り寄ってくる。乗っ取られたマネキンたちだった。コートを翻して、場違いなカラスのようだ。すぐ脇から銃声。耳がキンとする。マネキンは走りながら倒れて地面を何回転もしてから、はじけて消える。
「ちぃっ」
トウキが舌打ちする。周囲の暗さは度を増していた。防護服のヘッドライトを最大光量にしても見通しが利かない。これは物理的なものではなく、心霊現象だ。僕はサイドパックからPDAを取り出すと、防護服の思考入力端末にコードをつないだ。
「払います」
瞬時に言霊式を組み上げ、発動。PDAのスピーカーが言霊を発する。周辺が浄化され、視野が確保された。
「さすがね。あの一瞬でプログラミングするなんて」
キリエは僕を褒めてから前方にフルオートで一秒掃射。間をおいてなにかがはじける音が続く。僕からすれば、百五十メートルは先の物体に命中させられる腕前のほうがすごいと思う。
追っ手はA班が食い止め、前方の障害は少なかった。トウキとキリエの的確な射撃。瞬きする間に交換されるマガジン。ツンとする火薬のにおいが、防護服を通り抜けて感じられるようだ。振動する。走る。太陽は黒く日食されている。
ギャギャギャギャッ!
突如横合いから大きな塊がカン高い音を立てて現れ、僕たちの行く手に立ちふさがった。
「車に降臨してやがる」
トウキが吐き捨てた。それは闇に染まった色のSUVだった。ドアを虫の羽みたいにバタバタとさせながら、歩くみたいにタイヤを前後させている。後続から悲鳴。振り向くと、ビルの屋上からなにかが落ちてきたようだった。馬鹿でかいボール状のもの――給水タンクか。黒すぎてよくわからない。
「突破するぞ」
「ええ」
ふたりはうなずきあい、左右からサイドアタックをかける。排莢が僕の周囲に散らばるように計算されていた。薬莢の表面には言霊が彫り付けてあって、短時間なら護符のような作用がある。
車の側面に両側から穴が空いた。ガラスが割れ、タイヤが飛び散り、ドアが吹っ飛んだ。弾丸にも言霊が刻んであるのだ。9ミリと言えど、神聖に清められた弾頭は、爆弾や光学兵器以上にダメージを与える。
車は蜂の巣になって動かなくなった。三次元での活動限界を迎え、弾け散る――と思いきや、車内が膨れ上がり、カニの足のような触手を数本伸ばして、車体を持ち上げた。地鳴り。鐘を撞くような音が続く。僕は吐き気をこらえ、PDAを操作する。
「トウキさん! そいつは、神格が高い!」
PDAでスキャンした結果を叫ぶ。返事はもちろんない。サブマシンガンの断続的な銃声が立て続けに起こる。カニ足が一本ちぎれて、さらに二本が奥から生えてきた。
威容。見上げるほどに成長したそいつを表現するには、それしかなかった。これが僕たちの戦うもの。僕から記憶を、故郷を、家族や友人を奪った元凶。
邪神だった。
黄泉宇宙の神をひと括りにして邪神と総称する。人類に害をなす、世界の敵。通常、高次元に存在する『神』は、三次元世界へ依り代を媒体として降臨する。御神体として選ばれるのは魂を持たない無機物や昆虫、植物だ。身体を得た邪神は物理的な脅威を持って人を襲う。
キャリキャリキャリキャリ!
耳障りな音を立て、さらに二台の車が横合いから現れた。トウキとキリエは背中合わせに陣形を取りながら、僕のところへと戻ってくる。進路は塞がれた。ふたりの荒い息遣いがフェイスマスク越しにでも感じられる。僕の身体は相変わらず泥のようだった。
「おい、詰んだぜ。どうするよ、少年」
人事みたいにトウキが言葉を投げかける。僕は受け取って投げ返す。
「三十秒」
「ちっ、長げぇな。きっちり仕事しろよ、ハッカー」
うなずく。ふたりは、昔のニンジャ映画みたいに左右へ散る。PDAを操作。目を閉じ、プログラミングに集中する。脳内で組み上げられた言霊式がリアルタイムにPDAに出力され、それでも処理の遅さに若干イライラさせられた。処理待ちの状態になって目を開くと、三体の邪神を相手にふたりが互角に戦っている様子が見えた。普通、あの神格の邪神では一体に一個小隊が必要だ。それでも勝てるかどうか。
処理が終わった。PDAから出力する。つまり、言霊の発動。スピーカーから圧縮された音声がプログラムの結果を伝達する。空気の分子が振動し、空間に言霊が染み渡る。次の瞬間。
ボッ!
邪神の一体が油でもかけられたかのように燃え上がった。爆発に近い。青白い炎は千三百度前後を示している。『ナパーム』と呼ばれる言霊式を、少し改造して発動させたのだ。触手をのたうたせて、邪神は苦悶しているように見える。神が苦痛を感じるものかどうか、それはよくわからいけど。
「ルーン君、伏せて!」
キリエの鋭い声に、僕はとっさに地面へ転がる。真上を銃弾が通っていった。背後で何かが打ち抜かれる音。首だけ向けると、真っ黒いマネキンが二体、両手を振り上げた状態で胸に穴を空けていた。それがはじけて消える前に、僕は体勢を立て直す。見ると、燃えた邪神の炎が消えかかっていた。やはりPDAの処理能力では太刀打ちできないようだった。
「めんどくせぇ! 弾が切れるぞ」
「こっちもよ! A班の馬鹿はなにやってんの」
後方からはまだ銃声が聞こえている。確認している余裕はない。炎の消えた邪神が、僕をターゲットに定めたのがわかった。PDAにアクセス。何種類かの言霊式を検索。改造してから使わないと効果がなさそうなものばかりだった。
「建物の中へ! 立て直しましょう!」
「馬鹿、逆効果だ。文房具と室内戦したいのか」
「時間を稼ぐのよ」
しかし、どうやら、その必要はないようだった。
聞き覚えのある音が上空から響いてくる。銃声がやみ、邪神の動きが止まった。ほどもなく、暗い上空を縦に切り裂いて、轟音を上げた飛行物体が現れた。青いシルエット。大きく広げた翼。突風のような風を巻き起こし、それをはためかせて、ゆるく旋回。
「タケミカヅチ!」
キリエの嬉々とした声。アナウンスが上から告げる。
『射撃開始十秒前。総員退避!』
あわてて建物の陰に移る。ふたりも駆け込んできた。
『対地砲、てーっ!』
メインストリートにジグザグの弾痕が刻まれる。それは雷が這い進むように邪神たちの上を通過し、ビル街の向こうまで抜けていった。激震のような轟音。振動。遅れて、飛び散った土くれが降りかかってくる。
バシャッ!
バシュッ!
拳大の砲弾を打ち込まれてはたまらない。車に降臨した邪神は、お椀状のくぼみをいくつも空け、破裂するように消滅させられていく。
見上げる。上空に鳥を模した艦影。天鳥船と呼ばれる、連邦軍の軍艦。
僕の乗る船。
高速駆逐艦タケミカヅチ。
初めて目にしたときの感動がよみがえる。
こんなに美しいものがこの世界にあったのかと驚いた。
青いカラーリングも、着艦時には折りたたまれる飛行ユニットも、長く伸びた首の上のブリッジも、他の艦船と同じつくりなのに、タケミカヅチだけが峻厳たる鷹のイメージを浴びせてきて、僕を取り込んだのだ。
「いまのうちだ。行くぜ」
トウキに肩をたたかれるまで、上を見ていた。あれに乗ることが、いまの僕のすべて。記憶も人格もどうだっていい。噛み合わさったギアのひとつのように、艦の一部になれたなら、そんなものはなにも、一切関係がないからだ。
地上にいる僕は、泥のようだった。