正常温度
そのビルの一階には、コロナ禍の名残で、まだ自動検温器が置かれていた。入館する人間の額にセンサーを向け、体温を測る機械だ。人の出入りが激減した今では、電源が入ったまま、ただそこに立っているだけの日がほとんどだった。
警備員の田口は、このビルの夜間巡回を担当していた。もう誰もいない時間、フロアを一周するのが仕事だった。
深夜零時過ぎ、一階のロビーを通りかかったとき、検温器が音声を発した。
「正常温度です」
田口は足を止めた。ロビーには誰もいない。自分は検温器から三メートルほど離れていて、センサーの範囲に入ってもいなかった。にもかかわらず、機械は測定完了を告げる合成音声を、はっきりと鳴らした。
センサーの誤作動だろう。田口はそう考えて、巡回を続けた。
二周目、同じ場所を通りかかると、検温器がまた鳴った。
「正常温度です」
田口は立ち止まり、検温器の画面を確認した。液晶には、体温を表す数値が表示されていた。三十六度四分。センサーの高さは、ちょうど大人の額の位置に合わせて設置されている。誰の体温かは分からない。ただ、測定が完了した、という記録だけが、画面に残っていた。
田口はその夜、報告書に「検温器、誤作動の疑いあり」と書いて提出した。
翌週、業者が点検に来た。センサーにも本体にも異常は見つからなかった。ログを確認すると、深夜の時間帯に、確かに複数回の測定記録が残っていた。カメラの映像も同時にチェックされたが、その時刻、ロビーには誰も映っていなかった。
業者は首をかしげながら、こう言った。
「センサーが反応しないと、そもそも音声は鳴らない仕組みなんですけどね」
田口の夜間巡回は続いた。それからも、決まって零時を過ぎた頃、あの検温器はロビーで一人、律儀に仕事を続けた。
「正常温度です」
田口はもう足を止めなくなった。誰もいないことは分かっている。それでも一度だけ、通り過ぎながら検温器の画面に目をやったことがある。
数値が表示されていた。三十六度四分。いつもと同じ、平熱の値だった。
「正常温度です」




