正義マン
2036年8月3日。
巨大地震が発生しFMウイルスが日本に侵入した日の名もなき青年の物語。
巨大地震で被災した街は酷いありさまだった。
幸い自分の住むマンションでは家具が倒れたりガラスが割れたりはあったが建物に大きな被害はなかった。
青年はお気に入りのダーツの文字盤の腕時計を見ると16時だった。
彼は常日頃から人の役に立とうと考えていた。
巨大地震で被災した辛い今だからこそ助け合うべきだと信じていた。
誰かに頼まれたわけではない。ただ、人の役に立ちたかったのだ。
自宅の前のゴミステーションに割れたガラスなどの危険物を捨てに行く。
目に入ったのは、足を怪我した少年とその母親だった。
『病院まで連れて行きます』
そう言うと、彼は迷わず少年を背負った。
『ありがとうございます……』
母親は何度も頭を下げた。
病院へ到着すると、医療スタッフへ少年を引き渡す。
『もう大丈夫ですよ』
青年はそう微笑み、その場を後にした。
これで少しは役に立てた。
それだけで十分だった。
病院の門へ向かって歩いていた。
その時、背後で救急車が到着する。
サイレンが止まり、後部ドアが勢いよく開いた。
青年は何気なく振り返った。
-その瞬間-
救急車の中から流れてきた空気を、彼は大きく吸い込んだ。
何も気づかないまま。
FMウイルスを。
肺の奥深くまで、FMウイルスは静かに入り込んでいた。
もちろん本人には分からない。
吸い込んだ直後に何か変化があるわけじゃない。
咳も熱もない。
身体に違和感など出るわけもなかった。
青年は再び歩き出した。
門へあと数歩というところで。
『きゃあああああ!!』
病院の中から女性の悲鳴が響く。
青年は思わず立ち止まった。
振り返る。
玄関付近では、人々が我先にと飛び出してくる。
何事だ。
青年は数歩戻る。
そして、その光景を見た。
『……え』
一人の男が女性へ覆い被さっている。
助けようとしているのではない。
首筋へ噛みついていた。
血が飛び散る。
女性は悲鳴を上げながら暴れる。
それでも男は離れない。
周囲でも同じような光景が広がっていた。
人が・・・人を・・・食べている。
青年は息を呑んだ。
海外ニュースで何度も見た映像。
テレビ越しではなく。
今、自分の目の前で起きている。
『……パンデミック』
その言葉が自然と口から漏れた。
日本でも、始まってしまった。
病院へ戻ることはできない。
助けたい。
だが、どうすることもできない。
さっき運んだ親子は無事に逃げられただろうか。
胸が締め付けられる。
それでも彼は病院を後にした。
今、自分が感染者に近づけば、自分まで命を落とす。
青年は拳を握り締め、自宅への道を歩き始めた。
青年はお気に入りのダーツの文字盤の腕時計を見ると21時だった。
青年は自宅へ戻っていた。
玄関へ腰を下ろしたまま動けない。
頭の中では、病院で見た光景が何度も繰り返されていた。
『俺に何ができる……』
誰へ言うでもなくつぶやく。
警察へ電話する?消防へ連絡する?
そんなことは誰かがもうやっている。
もっと、自分にできることはないのか。
考え続ける。
いつしか疲労が限界に達し、そのまま眠りへ落ちていた。
◇八月四日午前八時。
青年は目を覚ました。
昨日まで続いていた余震で、ほとんど眠れていなかったはずなのに。
今朝だけは、不思議なほど深く眠っていた。
深く眠ったにもかかわらず頭はぼんやりしている。
『そうだ』
青年は勢いよく立ち上がった。
『避難所だ』
病院で感染が始まったなら、このままでは避難所にも感染者が来る。
それを知らせなければ。
『急げ……』
ハザードマップを取り出し、近くの避難場所を確認する。
彼は迷わず家を飛び出した。
◇午前十時。
最初の避難所。
体育館には地震で家を失った人々が集まっていた。
青年は入口で大声を上げる。
『皆さん、聞いてください!』
視線が一斉に集まる。
『病院で感染者が出ました! 海外ニュースでやっていたFMウイルスです!』
体育館がざわつく。
一人の男性が質問する。
『君は感染してないのか?』
青年は迷わず答えた。
『私は遠くで見ただけです。安心してください』
本人は本当にそう思っていた。
自分は感染していない。
だから人助けができる。
そう信じていた。
『皆さんは早くここより遠くへ避難してください!』
『感染者が来るかもしれません!』
彼は必死だった。
善意だけで動いていた。
-だが-
青年が話すたび。
息をするたび。
FMウイルスは静かに周囲へ広がっていく。
誰も気づかない。
青年自身も。
避難者たちも。
感染した人々はさらに遠くの避難所へ向かって行った。
『もっと遠くへ』
『もっと安全な場所へ』
『親戚の家へ逃げよう』
善意から始まった行動は、善意のまま感染を運び続けた。
青年は避難所を一つ・・・また一つ・・・。
さらにもう一つと回っていく。
そのたびにFMウイルスは人から人へ受け渡されていった。
本人だけが知らない。
自分こそが感染を広げていることを。
青年はお気に入りのダーツの文字盤の腕時計を見ると22時だった。
青年はようやく自宅へ帰ってきた。
靴を脱ぐのも面倒なほど疲れていた。
一日中歩き回った脚は重い。
体もだるい。かなり披露したようだ。
それでも自然と笑みが浮かぶ。
『少しは役に立てたかな』
多くの人を助けられた。
満足そうに布団へ横になる。
青年は心地よい疲労感に包まれていた。
なぜなら彼は善い行いをしたのだから。
笑顔のまま眠りについた。
青年の善意は、今日も静かに世界へ広がっていく。




